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会議は夕焼けに勝てない

いつも気づいたら始まっているフジロック

フジロックが金曜に始まった。フジロックは決まって月曜には食い込まず、金曜に僕たちの足を爪先から噛んでいくのだ。13時あたりに足がヒリヒリとしてきたら、もう見知ったアーティストが機嫌良く苗場を振動させている頃だったりする。慌ててWebブラウザを開き、さらに小さな窓を覗く。窓の奥で今年はKIKAGAKU MOYOが展開し交響していた。初めて観るバンドだと気を抜いた束の間、うねるパワフルなドラムと螺旋する彼らの繊細さが耳の管を通り、脳を激しくノックする。これはイイヤツだ、と数秒経たずに理解する。論理などなければ情念もない。感覚するだけだ。長年の音楽視聴の成果で瞬時に彼らの音楽は分別されたのだ。ちなみに僕は一度も現地に行ったことがないニワカもいいとこで、本当のフジロックは知らない。ただ、本当の音楽に対する本当の感動は知っている。

仕事なんてしてる場合じゃない

金曜には僕が所属しているチームの一週間のふりかえりと来週の計画を立てる会議がある。弊社noteは創作を扱っている企業だからか音楽好きなメンバーが多く、会議の最初では当たり前のようにフジロックが始まったことを確かめ合った。前提の了解がつくられると同時にアジェンダなど霧散し、Google MeetでLive Channel1のタブを共有した。1時間が確保された会議の10分がすでに経過している。一向に動かないカンバンのアイテムをよそに、僕と一部のメンバーは言った。

「仕事なんてしてる場合じゃないんですよ」

会議中だからこその冗談でもあるが、本当にそう思っていた。冗談じゃない、少なくとも本当に聴きたい。音楽に馴染みが薄いだろうメンバーもいて、僕たち馬鹿なメンバーのしょうがなさを「またはじまったよ」と諦めと滑稽さを込めて笑う。決して否定はしない。僕たちは不真面目であることは確かだが、同時にかなり真面目でもあるのだ。会社員ではなく、感覚する人間として正しい行いをしているという自信すらあった。たとえば大事な友人が結婚を告げてきた時や、眼の前の家が焼けている時も同じことを言うだろう。

オリジナル・ラブ

仕事なんてしてる場合じゃない、と仕事中に言える尊さ

僕たちは渋々タブの共有を切り、BGMとして自分だけの窓でうっすらとオーケストラを流した。感覚器と頭を揺らしたまま、規定の仕事をすることにした。いってもそこそこに訓練された大人なので、社会性の奴隷であることを受け入れるのは簡単だった。もっとも、隠れた大事なものに注意を払い、目にすれば躊躇なく踏み出す勇気を持つことのほうが難しい。今すぐ仕事を止めてビールを飲んだってよかったのに!
音楽なんてわからないメンバーからしたらとんだ迷惑だろうが、それを受け入れて「アツイ何か」に意識を傾けようとしてくれること、それが自然とできる人たちに囲まれていることがとても幸せだなと思った。彼らはそれがフジロックでも、けん玉の世界大会でも、子どもの涙でも、同じようにするだろう。そして僕も理解しようと、努めると思う。その余白を持てていること、余白の大事さを認められること、余白がカラフルに彩られていくことに希望を感じること。人間的で多元的な価値への理解をもつことってそんな易しいことじゃないと思うが、よくできた人たちだな、と感嘆する。
僕たちは仕事をするために人間をしているわけじゃない、人間をするために仕事をしているのだ。だから、仕事より優先する何かがあるのは当たり前だし、それは人によって異なっている。そう、当たり前なのだが、それを自然として言葉に出すことには隔たりがあるだろう。社会的な人格がどうも必要以上に重く硬く会社員を縛ってしまう。疎外される恐怖に堪えられない。
そんな中、僕のチームだけでなく弊社の至るところで人間的で多元的な価値を大事にしようという雰囲気が感じられる。このことは、これまで会社をつくりつづけてくれたみなさんの果実の一つであるし、数ヶ月前に入社したての僕にとってかなりの幸運であると思う。(実際弊社の明言化された価値観には「多様性を後押ししよう」というものが含まれている

夕陽が差し込んだ会議

前にいた会社でも、今回のフジロックをみんなで観るのと似たようなシーンがあった。その時は確かチームのこれからの計画を考えていたときだったと思う。まだオフィス出社が当然で、同じチームでフロアの端にある狭い会議室に収まっていた。椅子が足りずに窓際の窪みに腰掛けている人もいる。僕が司会をしているときに、夕陽がブラインドを通り抜け、メンバーの1人を照射した。眩しい、という彼のリアクションのあと、僕たちの興味はプロダクトのロードマップから太陽が長い道を経て届かせるオレンジの筋に移った。

「夕焼け、めっちゃ綺麗なんじゃないですか?」

と誰かが言った。オフィスは13階にあり、天気が良ければ富士山も見える。我慢できずに僕たちはブラインドを上げた。
期待以上の輝きが空に散乱し、僕たち(の会議室)に炸裂した。夕陽が期待通りだったときは一度も無く、いつも初めてのグラデーションが形の知らない雲に沁みている。僕たちは狭い会議室で代わる代わる窓に立ち、夕焼けを臨んだ。誰も時計を気にしてはいなかった。言葉にしたかどうかは覚えていないが、僕たちは真面目な会議の途中でも真面目に夕陽を見られる自分たちを誇りに思った。人間を捧げて積み上げられる資本主義のピラミッド、渋谷の高層オフィスビル13階で僕たちはまだ人間であった。

ブラインドのスキマから

社会人をやらせていただいていると、価値の一元化やそれによる合理性の追求に晒される機会が多い。僕はそれを"1つの意味"として信じていて明晰であろうと努めているが、同時にそれにうんざりしてもいる。意味への執着により自分が疎外化されることを感じるからだ。意味は無数に存在する。意図せず乱雑に紡がれる"僕と世界の結び目=意味"を時々はほぐすため、世界の裂け目に対していつも開けていたい、と思う。

今ある生が空疎であるとき、人はこのような「結果」のうちに、行動の「意味」を求めてその生の空虚を充たす。しかし道ゆきそのものが「何もかもあふれんばかりに充実して」(ドン・ファンの表現)いるかぎり、このような貧しい「結果」のために人は争うことをしない。
『気流の鳴る音―交響するコミューン』真木悠介(ちくま学芸文庫)

上記の著作はメキシコ・インディオの呪術師ドン・ファンの生き方を人類学者カルロス・カスタネダが研究したノートを主に扱った論考であるが、固定化された近代的自我からの解放としてかなり鋭く実践的であり、示唆に富んでいた。

会議室でも注意や態度次第でいつでも世界と世界の裂け目は見つけることができるし、寛容さと勇気があればその新鮮な空気を吸い込むことができる。あるいは、見ることができるし、聴くことができる。会議であっても、データ分析であっても、仕様書を組み上げるときでも、いつしか僕たちを遮ってしまう"明晰さというブラインド"をいつでも上げられるようにしたい。スキマから差すオレンジに気づき、空の広さと美しさのように大事なことに"blind"でいないために。

窓の外には光る星空
君は見えない魔法を投げた
僕の見えない所で投げた
そんな気がしたよ
『いかれたBaby』フィッシュマンズ


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