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立ち飲み屋でしゃがむ

なんてことない休日の話を書きます。
今週は土日の両方とも用事がなく、土曜は映画を観たり本を読んだりしてぼんやりと過ごしていた。食事は出前をし、いっさい外に出なかった。ここ数ヶ月は多様性やオープン性といったものに関心があり、『多様性の科学』(マシュー・サイド著)が面白くて一日で半分以上読めてしまった。Kindleの本は、紙の本と違ってどこまで読み進んでいるかすぐにわからないので、気づけばもう終わりかってことが多い。ビジネスや科学の本を読むと、インターフェースが変わらないせいかどれも同じ作者に思える。僕がリテラシーの無いおじいさんだったなら、Amazonって名前の人が全部書いていると誤解するかもしれない。

日曜になり、まったく外に出ていないことをもったいなく思い、外に出ようと決心する。自分のこういう貧乏性なところはあまり好きではない。決心したものの、洗濯やら滞納した年金の支払いなんかをしてたらもう14時になっていた。近所の感じの良い喫茶店に滑り込み、焼き肉のランチセットを頼んだ。注文してから、前回来たときも同じものを頼んだな、別のものにすればよかった、とここでもどうでもいい貧乏性が出てしまう。70歳くらいのオシャレな眼鏡のマスターと、新人のアルバイトかわからないが初々しい若い男性が、せこせことランチタイムの忙しさを片付けていた。
僕が食べ終わる頃にはお客さんもかなり減り、店内が静かになった。アンティークの雑貨や観葉植物の様子がよく見えるようになり、僕はアイスコーヒーを飲みながら家の外の風景を堪能していた。
また1人食べ終わり席を立つ男性のお会計をしたあと、アルバイトの若い男性がマスターにこう言った。

「ねえ、マスター。洗い物するのご飯食べてからでいい?」

僕はびっくりした。新人アルバイトのあるべき勤勉な態度とは反対の甘えた言葉。マスターがなんて返すのだろうと思ったら、

「そっかぁ、お腹減っちゃったか。じゃあそうしよう。ちょっと待ってて」

と言ってまかないを準備し始めた。ええ〜!柔軟〜!と思った。優しい〜!と思った。機械化されたテキパキ従業員に慣れてしまった僕には新鮮な光景だった。全くもって悪いことではないし、ある種合理的だし、自然だと思う。僕は大通りから一筋入った個人経営の喫茶店でも画一的な接客を当たり前にしてたのだと反省した。彼らはよっぽど人間的だった。「多様性が大事です!」と謳う本を読みながら、自分はこんなにも型にはまっていたのだ。おそろしやおそろしや…。この会話に出会えただけでも外に出てよかったと思えるのだった。
よくよく会話を盗み聞くと、どうやらアルバイトの若い男性はマスターのお孫さんらしく、合点がいった。しかし、彼が孫でなくても、同じような会話があっていいだろうと思う。さっき抱いた僕の反省を追認したいわけではないが、みんなが孫とおじいちゃんのような温かさを持てたら、ということを想像するとほっこりするのだ。「ねえ、マネージャー。先方にメールするのビール飲んでからでいい?」

外での思いがけない収穫に気を良くした僕は、喫茶店を出て、昼からやっている小綺麗な立ち飲み屋さんに入った。奥には常連らしき男性が2人、手前には2歳くらいのこどもをベビーカーごと連れ込んだお父さんが1人いた。僕は間に入り、多様性の本を読みながらチューハイをあおった。昼のアルコールは日光を浴びているぶん美味しいのだ。アルコール、中でも瓶ビールやキンミヤのサワーは日光から幸福成分を作り出す作用が強く、干したての布団に包まれる時の1.1倍の幸福度があると言われておらず嘘だ。
僕は人見知りが強く、飲み屋で絡んだり絡まれたりするのが苦手なので、本に集中するフリをしていた。すると、横が騒がしくなった。ベビーカーを連れたお父さんは4人家族だったらしく、3歳くらいの長女と奥さんも店内に入ってきた。子どもたちは、涼しさと店主に供されたお菓子にテンションを上げ、そこが児童館のようにはしゃぎ始めた。まあ立ち飲み屋は大人にとっての児童館みたいなものなので、ふるまいとしては正しいだろう。
彼女たちは奥にいる常連のおにいさんたちの持つお菓子に釣られて立ち飲みのカウンターの下を何度も往復する。そのうち往復すること自体が楽しくなって何度も繰り返した。大人がカウンターにもたれてつくるトンネルを楽しげに駆け回った。僕は彼女たちの往来の上でグラスとぬか漬けを往復しつつニコニコと観察した。子どもは短い2点間を往復するだけでこんなに楽しそうですごいなぁと考えていた。そのうち常連のおにいさんが子どもたちとハイタッチをし始めた。サーファーっぽいおにいさんは横にいる僕にも「おにいさんもハイタッチやっていいんですよ」と声をかけた。僕がハイタッチやりたい顔に見えたのか有り余る社交性で僕に気を遣ってくれたのかはわからないが、僕もハイタッチのポイントに加わった。そして子どもたちと高さを合わせるのに便乗して僕はカウンターの下にしゃがみ込んだ。さっきから子どもたちが楽しそうだったので、彼女たちにはどう見えているのだろう、と気になったのだ。あまり立ち飲み屋でしゃがみこむことはないので(あるとしても泥酔して覚えていないだろう)、興味があった。完全には想像できないが、確かに子どもたちの大きさならちょうどよい箱感があり、簡易的な遊具のようだった。マリオの2面くらいのハラハラ感があった。僕はしばらくしゃがみながらウーロンハイを飲んでいた。

外に出ると我が家では全く想像できないことばかりに出会う。人見知りでなければもっと出会えるかもしれないと思うと、少し悔しい気持ちになる。何かを収穫するために外に出るわけではないが、いつでも何かを収穫できるよう己を開いていたい。多様なものを多様に味わってみたいのだ。目を開いて、耳を澄まして、大口で味わいたい。貧乏性も知的な道につながるなら僕を豊かにしてくれる。そのためには、ときに立ち飲み屋でしゃがむことも必要だろう。

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