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お茶の季節

 新茶の季節となった。ゴールデンウイーク中、茶農家は大忙しである。私が子供頃は、この期間に遊びに連れて行ってもらえるなど考えたこともない。家族総出で早朝から夜遅くまで働いていた。
 その習性か、この期間はいくら仕事が休みでも遊びに行く気がしない。何か悪いことをしているような気がして、もっぱら引きこもり。藤沢周平氏もその全集の中で書いてあるのを読んだが、結核の療養で休んでいるのに、自分だけ家の中にいるのが落ち着かない、とあった。そのお気持ち、農家育ちの者としてはよくわかるのだ。
 八十八夜過ぎからお茶つくりはピークを迎える。近年温暖化で早まってきているが、昔はまだ八十八夜にお茶摘みを始めるのは早かった。祖母はこの八十八夜のお茶に命を懸けるほど、こだわっていた。家族の誰かが出かけるとか。例えば佐伯の町に行くとか。受験に行くとか。何かあるときは、出かける前に、必ず八十八夜のお茶を入れて、強制して飲ませていた。八十八夜のお茶には特別に効力があると信じ込んでいたのだ。それでも、まあ、おばあが安心するなら、お茶一つ、ちょっとでも口をつければ安心するのだった。
 今はお茶摘みも製造も機械でするが、昔は全て手作業だ。お茶葉を、理想は一枝二葉だが、現実はスピードと量だ。いかに早く多く摘むか。子供のころ、お茶摘みに駆り出されたが、嫌でしかたなかった。家族では足りず、毎年来てくれる吉良の婆ちゃんや、他にも何人かおばさんたちに手伝ってもらっていた。おばさんたちは茶摘みの手も、口も止まらず、楽しそうに作業を続けるのだ。黒川伊保子氏の本を読んで納得したが、こんな地味な作業は、一般的には女性むき。私には不向きだった。
 釜でお茶を2~3年作った。父の手伝いをしながら覚えて、1~2年は一人で釜茶を作った。釜でお茶を作るのは、麻雀をするようなもので、性格がでる。孤独で地味で、繊細で忍耐を要する仕事である。大釜を傾斜15度くらいか、斜めに据えて竈にのせている。朝から夜まで火を焚いている。熱い。釜が大きいから、大股を広げて座るしかない。股が痛い。普通の椅子では不便なので、カマス袋の中にぎゅうぎゅう藁を詰め、その上に座布団を乗せ座っていた。
 お茶は1番釜から最低5番まで、5回お茶葉を釜に入れて加熱する。1番釜は生葉を一杯にいれ、一気に水分を飛ばす。この時の火加減が非常に大事。2番釜から段々火力を下げ釜の中の温度を低くしていく。2番釜が終わると、しなった茶葉を、手もみをして細く巻いていく。3番釜から素手で作業をするようになる。板子一枚海の中ではないが、茶葉一枚下は灼熱の釜。釜の中でさらに茶葉の形を整えていく。一枚の葉がそのままの形で、一筋の棒のようになれば理想。4番釜になると普通の茶になってくる。だがまだ茶葉の巻き方が緩く色も緑緑したまま。5番釜でようやく急須に入れられるお茶となる。加熱と放冷を繰り返し茶葉から水分をなくしていく。我が家は6番釜までやった。もう一度釜に入れて茶葉に火を加えることで、茶葉がより引き締り、濃緑(5番)から薄青が混じり、さらにそこから白い粉が吹くようになる。和色大辞典に御召茶色、百入茶色とある。まさしくこの色である。それにしても日本人はすごい。細かい色彩感覚には感心するのみ。
 ここまでやって因尾茶の完成。最初の1番釜は、少ない時で6。最盛期には10を超える回数をこなす。2番はその半分。3番はさらにその半分。最終の5番になってようやく一つの釜に収まる量になるから、作業としてはきつい。早朝から深夜までかかって終わる仕事を、10日ほどやっていかなければならない。釜の前は孤独。日中ほかの家人はみんなお茶摘み。山間でラジオも入りにくいところ。釜で火は燃え続けているから抜け出すことも不能。いくつもいくつも積みあがった茶葉の塊を、一個一個こなしていくしかない。犬だって諦めてどこかへ行ってしまう。雨が降ったらまた作業がはかどらない。放冷が遅くなるからだ。大きな忍耐力と繊細な感受性と、孤独を厭わず、続ける能力が不可欠だ。私は釜茶を作る作業は好きだった。満足できる茶は簡単にできないが、最後の6番になって、手に伝わる茶葉の温度が釜と一体になっていくとき、全てが同化していくようで、やっとここまで来たのか、という達成感を覚える。大釜満杯12回杯分の茶葉が最後は釜の3分の1にもみたない。たかが茶、だけども、一つの芸術作品を作りあげた感慨にもなるのだ。こんな仕事は他の農作業にはない。
 お茶作りをしている間は、鼻腔に茶香が染みついてお茶の香りもわからない。顔を洗い、鼻をすすいでも数日は消えなかった。
 最近のお茶は色が薄く青みかかったのが好まれるようだ。その分香りは弱い。香りの強い茶葉は色が黄なみかかってくるし、香りのない茶葉は色が薄く青くなる。このバランスが茶葉の命だが、好みは人によっても時代によっても違ってくるようだ。
 お茶を買うとき、茶葉の色をみて味がわかる。明るい緑をした茶葉は、薄く青みかかった色合いの、香りない水のような茶。少し青みかかった茶葉は、薄黄色で甘みの少しある茶。濃い緑に青が混じって、うっすら白く粉が吹いているような茶葉は、香りもあって色も黄色に近い茶。御召茶色、百入茶色の茶葉。なるべく棒状で茶葉がちぎれてなさそうな形状が望ましい。茶葉がそのまま一枚の姿で急須から取り出せれば、それは最高の茶葉となるから。色も香りも深みもまずバランスがいいはず。コクは、飲んでみないとわかりません。
 市販のお茶にもっと香りが欲しいと思うなら、大きな中華鍋を火にかけ、手を鍋に当て、少し熱いがやけどをしないくらいの温度で茶葉を入れ、ゆっくりゆするか回してやりながら全体を加温してやれば、香りはよくなる。が、やけどをしないようにできるか、そこまでは保証できません。
 私は今の茶葉の香りは無いに等しいと思っている。米も茶もつくられる土地によって違う。米も田んぼ一枚ごとに違うし、茶葉も品種、土地、場所で違う。やぶきた、という茶葉の品種が主力になって、茶葉の持つコクというか、旨味というか、力が弱まったように思う。 
 因尾など耕作狭小地では、田んぼでは米を、畑では野菜を、茶葉は山と畑の隙間の急傾斜地で作られていた。結果水はけがよく、木々を軒代わりにするので葉も柔らかく、霜被害も少なく、山からの滋養水もあっておいしいお茶がとれたのだ。今は田んぼや畑にお茶を作り、肥料をやって生産加工に適した品種でやっている。コクと旨味と香りのいいお茶葉は、もう味わえない時代になったと、しみじみ思う。
 機械化が進み、それはそれでいいのだが、機械設備費の回収を急ぐために、農協が作った因尾製茶工場は、誰からも、どこからでも製茶を引き受けた。機械で製造するにはまとまった量がそろわないといけない。因尾の小さい農家のお茶も、他所かの自家用の少ないお茶も、一緒に混入してお茶になって、投入した量に案分して製茶が渡された。これも間違いではない。しかし、因尾のお茶ではなくなった。まずい茶しか戻って来ん。因尾の小さい農家はあっという間に茶つくりをやめてしまった。その結果、今はもう因尾製茶工場はやっていないはず。農協の戦略の安易さが結果として因尾茶の発展を止めてしまった。
 丹精込めて肥料をやって、手積みをしてまずい茶しか飲まれないなら、市販品でいい。そこで大きいお茶農家は自前で製茶機械を導入した。因尾茶が僅かに残っているのは彼らの功績である。稗田製茶、首藤園、ひいきにしていただければ嬉しいのです。

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