青の彷徨  前編 14

 周吾は、十二月二六日に、中根医院の棚卸を済ませ、二八日には、会社のコンピューターのLANPLANに入力、棚卸表を完成させ、中根医院に届けた。いつも訪問する時間だったが、先生は不在だった。
 空白の時間ができた。このあと森山医院へ行くが、かなり早い。周吾は野崎医院へ行ってみようと思った。中根先生と何度か一緒に行った。市内で一番遠く、取引のないところ。取引を開始させよう、なんて気は全くない。自分に暇ができたからだ。 
 野崎医院に着くと、周吾は手ぶらで入って行く。仕事で来たのではない。患者は誰もいなかった。受付で名刺を出さず名前を言うと、事務員は、京町薬品が何しに来たのか、という訝しい表情を見せ、奥へ行った。すぐに戻ってくると、奥へ行くように、と言った。
 診察室前の廊下を進み、一番奥の院長室にノックをして入る。音響専門の部屋だ。野崎先生はボリュームを絞った。
 ショパンのピアノ曲がかかっていた。
 「どうした。一人か」 
 「はい。暇になりましたので、お邪魔しました。ご迷惑じゃないでしょうか」
 「いや。うちも暇だ。中根はもう診療してないのか」
 「はい。今週から止めています」
 「それで中根の代わりにうちに来たわけか」
 「はい。いい音が聞けたらいいなあ、と思いまして」
 「お前がずっと来るなら、取引をしてもいいぞ」
 「いえ、そんなので来たのじゃありません。こちらはもう担当者が決まっています。ご注文頂いても僕の実績にはなりません。気を使わないでください。先生が京町薬品とお取引して、何かメリットがあると思われたら、お取引ください。何のメリットもないと思われるなら、今までどおりでいいです」
 「昨日、中根から電話があって、咽に癌ができて診療をやめた、と、言ってきた。びっくりした。本人は数%あるか、どうかだと言う。お前、咽喉は素人だろ、って言ったら、医大で調べた、と言う。写真見るのは中根が一番だからな」 
 「僕も、そう聞きました。もし帰って来られたら、声が出ないかも知れんから、京町の宿直室で警備に雇え、なんて冗談を言うんです。今時間を見つけては、絵を描いているはずです」
 「あいつは絵描き志望だった。親父に説得されて、いやいや医者になった。無愛想で、患者に冗談も言えんだろう。そのくせ根はバカ正直で、そこまでするか、というくらい真剣に診る。患者は多くはないが、離れない」
 「先生は、中根先生といつ頃から、お付き合いがあったんですか」
 「中根は、高校の一年下になる。大学も一緒だが、あいつは絵描きをやめて、一浪しているから、二年下になった」
 「じゃ万丈白鶴高校ですか」
 「そうだ」
 「不肖、ぼくも、です」
 「おまえも、山姿舞鶴(さんしぶかく)、か」
 「万丈には三年前、転勤してきました。地元勤務は珍しいんです。たまたま、そんな事はどうでもよかったのだ、と思います。今担当させてもらっているところも、万丈白鶴高校出身の、大川先生、西岡先生、森山先生、角石先生がいらっしゃいます」
 「お前、医師会の偉いとこばかりもっているんだな」
 「自分で選んでいる訳じゃないです。転勤して来た時から決まっていました。何かと便利だった、のじゃないですか。それより先生、これはショパンですよね」
 「ショパンはいいな。こんな部屋で静かに、ちょっと聴くにはいい。シンフォニーなんか、構えて聴かないと、途中で、患者が来たら、もう聞かれない。ショパンは小曲が多いし、何より小さい部屋で聞くのがいい」
 「そうですね」
 「蒼井は何が好きか」
 「あまり詳しくはないですが、その時々で聞きたい曲があります。車に長い間乗る時は、ドボルザークの九番です。渋滞の中を走る時はカルメンなんかいいです。モーツアルトはいつ聞いてもいいです。何でもいいです。ビゼーもマーラーだって。歌謡曲を聴くと、音がうるさく感じて後味が悪いです。とくに演歌はみんな同じ曲に聞こえて、公害みたいに感じる時があります」
 「そう。あの演歌のうるさいの。なんとかできんのか。この辺も食料品を車に積んで大音量で演歌を鳴らして来るのがあるが、あれは耳触りだ。目印代わりの耳印、なんだろうが、他にないのかね」
 「うちの田舎にも来ますよ。曲でどこの店が来たか、わかります」
 「西洋音楽は元々、ロイヤルファミリーのために室内で演奏されるものから始まっているから、演奏する側、聞く側がはっきりしている。耳障りな、喧しい音は少ない。日本の民謡は仕事歌が多いだろ。人に聞かせるより、自分で歌うみたいな。聞く側のことは考えてないんじゃないか」
 「先生はクラシックばかりですか」
 「いや、ジャズも聴くし、シャンソンもラテンも聴く。さだまさしもいい。まあそれでも、クラシックが一番いい」
 そんな話をしていると、患者が来ました、と、看護婦が呼びに来た。
 「蒼井、暇ならここで聞いていていいぞ」
 と言って、野崎先生は出て行った。周吾はもう少し聴こうと思っていた。曲はショパン全集のようだった。次にかかったのは、「葬送」だ。
 今の季節、冬の寒空の下、墓地へ向かう黒い集団が黙々と歩いていくさまが浮かぶ。先頭は、誰だろう。未亡人か。ショパンには妻はいなかった。ジョルジュサンドとは疎遠になって死んだ。ショパンの葬儀ではない。海が静かに波寄せている。地下の海だ。白衣を引っ掛け煙草をうまそうに吸って、莞爾として笑う姿が浮かぶ。その姿が遠く去っていく。このタイミングでなぜ「葬送」なのか。周吾は悲しくなり涙をこぼした。
 曲が終りかけて野崎先生が入ってきた。周吾は黙って頭を下げた。
 曲が終った。野崎先生は黙っている。
 周吾は涙を見せまいとしたが、無理だった。
 「先生ありがとうございました。いい音を聞かせていただきました。また、寄らせてください」
 「ああ、暇になったら寄ってくれ」
 「ありがとうございます。今日はこれで失礼します」
 周吾は車の中で、なぜ野崎医院でショパンだったのか、それも「葬送」だったのか。自分だけ聞ける曲が、中根先生との思い出のあの部屋で、一人で聞くタイミングになったことを、悲しく思った。野崎先生も、あのまま出て行き、戻ったら「葬送」がかかっていたのを知って、少しは驚いたはずだ。だから、周吾の涙を見ても何も言わなかった。
 
 

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