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豊穣の国 七

 翌日牧村と志野は、豊饒の国に旅行の届出をして旅に出た。タクシーで別府に行き、地獄めぐりをした。竜巻地獄では間欠泉に感動した。血の池地獄は怖いが美しい。白池地獄では、血の池地獄のすぐ近くでこんなに違う青白い池があるなんて信じられなかった。鬼山地獄はワニが嫌いだから直ぐ出て、かまど地獄では湯の色の変化に驚き、山地獄はここが本当の地獄みたいだ。坊主地獄では時間が過ぎるのも忘れて泥の渦に見とれた。海地獄では温泉卵を食べてお茶を飲んだ。志野は無邪気に喜んだ。蓮の大葉に乗る子供を見て、一瞬死んだ孫の謙太を思い出したか。
 それでも志野は目を輝かせた。素晴らしい、こんな近くにこれだけ色んな源泉があるなんて凄い。豊饒の国からこんな近くにこんなところがあるとは考えてもいなかった。そう言った。
 別府から電車に乗って臼杵に行き、臼杵の石仏を歩いた。長閑な田舎の山裾に様々な石仏があるのに志野は驚いた。真夏の日中蝉の声を聞きながら、汗だくで石仏を回るのも、功徳があるかもしれない。別府の地獄が自然に出来た名勝であるのに、臼杵の石仏は人工の名勝であった。人々の祈りの結晶があると、志野は言った。
 夜は佐伯に泊まる。夕食は牧村が案内した。海鮮と鮨の美味しい店だ。志野は感激した。こんなに美味しい魚もお鮨も初めて食べたと言った。牧村はここの味が好きで随分通ったことがあった。この町は牧村の故郷でもあった。
 この町に志野を連れて来られるなんて夢のようだ。亡き妻との思い出もたくさん詰まっていたが、もう整理がつきかけていた。妻は妻だ。牧村はまだ長い人生を残している。前を向いて行かなければならない。そう区切りがついていた。
 ホテルはツインを予約してあった。若い者でもないし、ツインでよろしいでしょ。志野はそう言って予約を入れた。ホテルにチェックインする時、牧村が住所や名前を書くのを見ていた志野は、牧村がペンを渡して記入を勧めると、ペンを受け取り、牧村の名前の下に、志野と名前だけ書いた。苗字のところは何も書かない。牧村が志野を見つめると、悪戯した時のように視線を外した。部屋に入ると、志野は、
 「牧村さん、この旅の間、あなたの奥さんにしてもらえませんか?」
 と言った。
 「・・・」
 「さっきフロントで名前書く時、大岩なんて書きたくなかったの。それで、いいや、あなたの奥さんにしてもらおう、と思ったの。ごめんなさい。でもこれから先まだ旅は続くし、続けて行きたいから、そう考えると、もう夫婦の方が面倒でなくていいでしょ。だめかしら」
 「いえ。構いません。私もその方がこの先、面倒でないと思います。それにあなたみたいに美しい方を妻にして旅が出来るなんて歓迎です」
 「あら、良かった。嫌われたらどうしようと思っていました。牧村さんはお名前が、信孝さんだったのですね」
 「はい、それがどうかしましたか」
 「すてきなお名前だと思います。とっても。それに気づいたことがあるのです。信孝さんのお誕生日昭和一七年十月三十日でした」
 「はいそうです。そこまで書くようになっていましたから」
 「私は、年がばれるので省略させてもらいましたが、実は私も全く同じ日なのです。誕生日が」
 「え、同じ年には見えないですよ。もっと若いかと思いました」
 「そんなご冗談でしょう。私も午年生まれです」
 「そうですか。それでウマが合うのですか」
 志野は笑った。
 「ちなみにお生まれになった時間とかご存知?」
 「さて、どっちが年上か年下か、判定するお気持ちのようですね」
 志野はまた笑った。ここまで来たら知りたくなるでしょう。じゃ一緒に時間をいいましょう、と言うことになった。せーの、で
 「十時二十分。夜」
 と言った。顔を合わせて驚く。多少の時間差はあるかも知れない。何分昔のことだ。それにしても不思議な縁を感じた。
 翌日は佐伯の海を見に行く。鶴見の丹賀砲台跡を見て、海を見る。青い海が真夏の光に輝いていた。リアス式海岸は風光明媚で美しかった。志野は北陸の海の近くに産まれたので、潮の匂いが好きだが、これだけ青い海は初めて見た。九州は冬でも空は鉛のようにはならない。雪など降ったりしたらみんな喜ぶくらいだ。これから少し戻って蒲江と言うところに行く。蒲江の道の駅で海鮮定食を食べ、物産品を見て、車に乗り込む。蒲江から延岡に行く途中に波当津海岸がある。志野にここの海を見せたいと思った。白砂が美しく海が光っている。光の具合によってエメラルドグリーンに見える。天気が夏の快晴で、海は緑に見える。豊饒の国から見る海とここの海は繋がっているのにこれほど違うのだ。
 志野は立ちすくんだ。海を見つめて、
 「美しい。なんて美しい海なのでしょう。ここも日本?ここも九州?なんか違う世界に来たようです。私、海がこんなに美しいなんて考えもしませんでした。お土産屋さんや、レストランやホテルなんか全然いらない。何もないからここには素晴らしいお宝が残っている。なんて素晴らしいのでしょう」
 牧村は写真だけ撮った。もちろん呆然としている志野も撮った。


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