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2つの記事を読んで、中学3年孫息子の「修学旅行」と「卒業式」に思う事

この記事を読んで、孫息子の「修学旅行」が、重なった。

昨年の11月、延期になっていた「修学旅行」に孫息子は、行くことが出来た。東京駅から新幹線で「京都・奈良」へ向かった。

半分、諦めていた母親(私の娘)は、「修学旅行」が中止になって「積立金」が戻ってきたら、そのお金で、春休みに息子と二人で旅行に行く考えだった。(※娘はシングルマザー)

様々なことが「通常通り」では無かった。
毎年、大きな荷物は、宿泊施設に事前に配送し、「集合場所」は東京駅で、そこまでは、各自が最寄り駅から行くことになっていたけれど、区からの要請で、大きな荷物を持って「学校集合」そして「バス移動」で東京駅に向かった。

本来なら1学期に行われる「修学旅行」は、秋の文化祭でそのまとめを発表するのが定例だったけれど、それは出来なかった。

「修学旅行」から戻ってきて、孫息子に「どうだった?」と話を聞くと、やっぱり楽しそうだった。

新幹線の中では、喋ってはいけないとか、入浴中も喋ってはいけない等々、色々ルールはあったみたいだけれど、そんなに厳格に守れるはずもない。お風呂では、当然、泳ぐ子もいたし、みんなが、はしゃいで、とにかくうるさかったらしい。

「部屋にカメラが設置してあるから、起きていても、わかるからな~!消灯後は、ちゃんと寝るように」との先生からの言葉があったらしい。実際に、カメラが設置されていたとは思わないけれど、今の時代の子ども達には、それが「嘘」には思えない、抑制力がある。私の時代だったら「ビデオカメラ」って無かったし、当然「監視カメラ」も無かった訳だから~。

「俺はさ~、夜は直ぐ眠くなっちゃうタイプだから、あっという間に寝ちゃったけどね~」と話す孫息子には、関係ない注意事項だったようだ。

班ごとに、行く前にどこに行くのか「計画」を立て、現地では全て「班行動」だった。「拝観料」や「現地での交通費」なども計算し、お小遣いとして持っていく金額も、自分たちで算出していた。
拝観予定だった「清水寺」は、ものすごく人が並んでいて、立ち寄ったら「集合時間」に間に合わなくなりそうだったので、中には入らなかったそうだ。それでもお土産に清水寺の「お守り」を買ってきてくれた。
ちょうど感染者数が減ってきた時だった。京都の街は、観光客で混んでいた。

「修学旅行」は「授業の一環」だけれど、明らかに「学校の授業」とは違う「経験」を学ぶ機会だ。オンラインには、それなりの良さもあるけれど、やっぱりリアルでないと「経験」は、学ぶことは出来ない。

色んなことを検討し「修学旅行」を決行した先生方には、感謝している。

娘しか育てたことがない私は、「男の子って、こっちから聞かないと、自分から話してくれない~」と感じる。それでも、孫息子の言葉の端々に、日常では味わえない「経験を楽しんできたこと」がわかって「ばあばの私」は、心から嬉しかった。

「修学旅行の話」とは、「対象的な内容」の記事を読んで思うこと~

「切実な思い」が、この記事から伝わった。

この記事は、孫息子より「1学年上」の現在、高校1年生の方が書いている。
高校生のかそあさんが書いている文章からは、コロナの影響を受けている現状の中で一所懸命考えた「精一杯の思い」が、伝わってくる。
数多く寄せられたコメントに対して、「追記」という方法で返信をしている事にも、かそあさんの真摯な気持ちを、私は感じた。

この学年の人たちは、突然「中学校生活」が終ったはずだ。高校の「入学式」も、遅れて行われたのではないかと思う。あるいは「入学式」自体が無かったのかもしれない。

パンデミックの現状の中、それぞれの立場から「責任論」で話をする「決定権を持つ人たち」に、学校現場や子ども達が振り回されている事は、周知の事実だ。その状況に対して、憤りのような、切ないような「複雑な気持ち」を私は持つ。

孫息子は、「中学1年の3学期」が突然、終わった。
その時、彼は「なんか、先生もヤケクソな感じだったよ~、勉強も、あとは自分達で勝手にやってくれ!みたいでさ~」と話していた。

政府は、「命」と「経済」のことは考えるけれど、大人とは違い日々、多くのことを吸収する成長期の「子どもの特異性」については、どこまで本気なのだろう。

幼稚園の園庭にある遊具は「絶対安全」などという事は無い。「命を守る」という事が「最優先事項」であれば、子どもは遊具を使って遊ばない方がイイことになる。この理屈は、詭弁だろうか~。

「命を守るため」という言葉は「絶対的」で、誰も逆らうことが出来ない。
この言葉を「盾」に、この数年、多くの規制が設けられた。

しかし考えてみれば、人が生活していく中で「死ぬ可能性」のリスクは、日常的にたくさんある。
それをどこかで承知して、みんな生きているはずだ。

子どもが大人になるまでの「人生の基盤」となる時期に、多くの「経験ができない」という事が、子ども達にどんな「リスク」を与えるのだろう。

その「リスク」よりも優先される「命を守る」って、どういう事なんだろう~。

子どもが、「大人に成る」という事は、ものすごく大変なことだと思う。
みんな当たり前のように「大人」になっていくけれど、一人ひとりの子ども達が、「大変な思い」をしながら成長していく姿を私は、見てきた。

日本政府(文科省)や教育委員会は、子ども達に「どう育って欲しい」と考えているのだろうか。「子ども省」なるものまで発案されているけれど、子ども達に対する「本気」は、どこにあるのだろう。

日々成長している子ども達にとって、今は今しかない。

「中学生 最後の時期」を迎えて~

この時期、高校の一般入試も始まり、孫息子の学年(3年生)だけは、受験に備え「学年閉鎖」になった。そして授業は、リモートになった。
大好きな「学校給食」が、食べられない事を孫息子は嘆いていた。

彼にしてみれば、まだ「中学校生活」は、終わっていないはずなのに、「何があるか分からないから~」という理由で、教科書や学校に置いてある荷物を殆ど、家に持って帰ってきていた。

「卒業式は、どうなるの?」と私が尋ねると、「できるとイイね~って、先生が言ってたよ。」と孫息子は答えた。

音楽の教科書にある「旅立ちの日に」の楽譜には、色々書き込みがしてあった。卒業式の定番の曲だ。音楽の授業で、練習したのかな~。
でも、もう「音楽の授業は無い」と言っていた。

3年前、孫息子の「小学校の卒業式」に私は参列した。
1学年1クラスしかない小さい学校だったけれど、きっと一生懸命「式の練習」をしたんだろうな~と思うような「卒業式」だった。

この3年間の彼の成長は、凄かった。
心身ともに、成長した。
「中学の卒業式」も、「ばあばの私」は参列し、孫息子が「卒業する姿」を観たいのだ!

でも、たぶん「ひと家庭、1名参加」なんだろうな~。
「合唱祭」もそうだった。


そもそも「卒業式」をやるかどうかも分からないし・・・

「卒業する」という事は、きっと「それまでの自分」が終って、「次の自分に成る「区切り」のようなものだ。

大人になると「卒業」という事が無くなる。それでも、人生には、自ら「区切り」を付けて「先に進む事が必要な時」がある。私は、孫息子に人生に対して「自ら区切りを付けられる」そんな大人になって欲しい。

そのためにも「卒業式」が執り行われ、これまでの「中学生活」を省み、感謝を持って「卒業」という意識を、彼の心に刻んで欲しい。そして4月から始まる「新しい世界」に向かって行って欲しいと、「ばあばの私」は願っている。


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