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ふらふらっと本屋で立ち読みで「聯合艦隊軍艦銘銘伝」という書物を買いました。

少し前のブログから。

いまは「ウマ娘」に取られた感がありますが、少し前の流行りの「艦これ」に魅入られた・・というわけではないのですが、昔から軍艦は好きで、小学生の頃からプラモデルを作ったり、雑誌を買ったりして読んでたりしみていました。

そんな中で、ふらふらっと見つけて手を出したのは「聯合艦隊軍艦銘銘伝」という書籍。

それこそ、艦これの影響もあってか、こういう軍艦を扱った書籍は、一時期と比べて入手しやすくなってきているのですが、それにしてもこの書籍のガチっぷりは桁が違う。

600ページ及ぶ、厚さ3センチ程もある、まさしく「銘銘伝」。帝国海軍の軍艦が人物なら、まさしく人名辞典の決定版とでも言うべき名著と言えましょう。
元々は、この手の方面ではガチな雑誌で有名な「丸」誌の連載をまとめたものらしく、その中で紹介されている艦船の数は圧巻の自称860隻。聯合艦隊といいながら、ちゃっかり自衛隊の船舶についても紹介されていたり、連合艦隊では不遇に終わった「陸奥」についても、のちに原子力船の「むつ」として名前が使われていることなども紹介されています。

この書籍の大本の著者は片桐大自氏(1927~1991)。1927年は昭和2年の生まれで、当然のように戦中を生き抜いた方で、本人は日本の軍艦設計の第一人者・平賀譲(戦艦大和を初め、多くの巡洋艦・駆逐艦の設計に携わった技師)に憧れ、学生時代に工廠で仕事をしながら造船技師を目指すも、成人するころに終戦。造船の夢を諦めた片桐氏は、日本の国語教育に携わった傍ら、膨大な海軍の艦船の資料の整理を行ったという人物です。
本業の国語教育(国語教科書の作成)でも実績を残した人物ですが、むしろこの「聯合艦隊軍艦銘銘伝」で評価される日がいずれくるかも知れません。

さて、今回この本の紹介の文章を書いたのは、軍艦への愛情の深さに加えて、さすが国語教科書を作ったという経歴が示す通りの片桐氏の文章の美しさ。これに尽きます。

日本の軍艦の名前は、大雑把に
・戦艦=旧国名(大和・武蔵..etc)もしくは山岳名(金剛・比叡..etc)
・巡洋艦=山岳名(重巡の場合。愛宕・高雄..etc)もしくは河川名(軽巡の場合。五十鈴・長良..etc)
・駆逐艦=気象など自然現象(吹雪・白雪・初雪..etc)
となっていますが、その名称に美しさについて氏は「詩情を感じる」と述べておられます。私もこれには同意です。
(欧米などは今でも艦船名に人名を使うことが多いですが、ださいなーと思いますもの。ちなみに日本の帝国海軍が人名を採用しなかったのは、明治天皇のご意向らしい。沈んだりしたら縁起悪い・・とかあるのかもですが、なんとなく肌感覚で理解できますね)
これに関しては、本書を立ち読みでもいいので目を通していただきたい!と思うのです。

帝国海軍と言えば、戦艦「大和」と言う人も多いですが、通?としては「長門」が好きなので、「長門」の紹介をしているこの片桐氏の文章は心を静かに打ちます。
以下紹介文を引用して、締めの文章とします。

長門
 長門は現在の山口県北西部、長洲の名でよばれることが多く、薩摩とともに明治維新の志士を輩出した。
(中略)
 昭和二十年七月十八日、横須賀の小海岸壁で米高速機動部隊約三〇〇機の空襲を受け、被弾二発、艦長・副長が戦死した。しかし、艦隊は中破程度で終戦を迎えた。
 終戦時に生き残った唯一の戦艦であり、開戦時の聯合艦隊旗艦だけが最後に残ったことは感無量である。
 だが、敗戦の現実は冷厳であった。
「長門」は戦利艦として連合軍に接収され、アメリカ海軍に引き渡された。そして翌二十一年七月二十五日、ビキニ環礁における原爆実験に供せられたのである。それは、アメリカが帝国海軍そのものに課した処断を象徴するかのようであった。
「長門」の最期を飾るせめてもの慰めは、同じ実験に供せられたアメリカの戦艦「アーカンソー」は轟沈、空母「サラトガ」も瞬時にして大破したのに対し、四日間も浮き続け、日本の造艦技術の優秀さを身をもって示したことである。
 しかし、五日間(七月二十九日)の朝、「長門」は忽然として姿を消していた。巨像がその臨終の姿を何びとにも見せないのにも似た、雄艦の臨終であった……。
 願わくばその悲痛な最期が、二十一年前に同じく実弾標的として土佐沖に沈んだ僚艦「土佐」について言われたごとく「『長門』の寂滅こそ世界平和を意味するもの」であってほしい。その在世時の栄光のゆえに……。


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