「表現の自由」を守るとは

安倍元首相の事件後に感じたこと。
保守主義的な自分の政治思想的には近い人だけれど、そこは抜きにして考えてみたことを。

テレビの解説で「政治家の暗殺なんて、昔の伊藤博文のように、歴史の上だけの事件と思っていたのに・・」という人がいたのですが、マスコミで仕事をしていてそれはどうなんだろうと思った。歴史を学んでいれば、自分たちの今の生活と歴史は地続きなので、こんな事件も「起こりうる」こと。ちょっと想像力がなさすぎなのか、麻痺しているんじゃないのか?と思った。
オウムの事件も、まだ「歴史」になるには早すぎるやろうに。

この事件の歴史的な評価というのは、今はどうにも下せない。今後日本に良い流れか悪い流れかはわからないけれど、流れに影響を与える事件になると思うが、その評価はまだ下しようがない。

生きている人間に、生前にでも迂闊に「死ね」とか言うものではないはなぁ。。と。ごく真っ当なことを再確認(ただしルール守れず運行に差し障りを来す撮り鉄、同じ鉄道趣味の人間としてテメーらはダメだ)

「葉隠」の話を書いたときに書き忘れた話で「只今がその時、その時が只今なり。 二つに合点してゐる故、その時の間に合はず。」という話があって。
意味としては平常時に非常なときのことを考える際も、非常事態を「非常事態」と別のものとして考える(=二つに合点してゐる故)と、肝心なときに間に合わなくなる、ということ。日常と非日常は連続の上にある、ということを再確認。

言論は暴力に屈してはいけない、的な意見も、確かにそれはそうあるべきだが、こういう形で破られる、という「現実」は頭の片隅に入れておかないといけない。まさしく「二つに合点」しては駄目なのだということ。自分のような一市民が、こんな場末で書いたことで命を狙われることはないと思うが、それでも、表現をする際には、そういうリスクとは隣合わせということは改めて感じる(昔、竹島PJとかやってた頃は、それなりに思うこともあったので)
たかがいちブログ・いちSNSで?と思う反面、言論を弄ぶ奴は言論に殺されればいい、と思っているので、「たかが、されど」とも思う。

それは自分だけじゃなく、例えば、ロシアのウクライナ侵攻に抗議の意を示す人は多いけれど、背後にロシア人が立つこと、ってのを考えたことがあるのかな?とかね。
そういう脅しではないのだけれど、少なくとも「それでも、なお」と言わなければならないから言う、ってのが、言論の自由なんだということ。
特に選挙戦の最中の事件ということで、それに絡めた意見は多かったけど、本当にその覚悟はあるのかなぁ、と。
なんだか、みんながいう「表現の自由を守れ」は、表層的に感じることが多かった、虚しく聞こえました。

自分の場合は・・この文章に関しては、ルールを守れない撮り鉄に刺されたら、仕方がないかな、とは思いますけどもね(苦笑)

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