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何者でもない私が、何者でもない自分を少しだけ好きになるまでの話

「私って何者なんだろう?」

そう思い始めたのは18歳の春。長かった大学受験が終わったころだった。第一志望の入試の帰り道、サンマルクで達成感と虚無感に駆られながら、それまで制限していたスマホを食い入るように弄っていたのを覚えている。そのすぐ後に私を待ち受けていたのは、真っ暗とも真っ白ともにつかない、何も道しるべになるものがない”空っぽ”のような時の流れだった。それまで部活にしろ勉強にしろ、周りに合わせて生きてきた私は、18歳になって初めて「自分でやりたいことを決める」段階に立ったのだった。やりたいことがわからないと、とりあえず人は自分の心の声に耳を傾けるのかもしれない。  

「私がやりたいことってなんだろう?」
「私ってなんのために生きているんだろう?」

「私って何者なんだろう?」
ゴールだと信じて疑わなかった大学生活は、想像と裏腹、そんな問いと向き合いながら始まった。

「好きなことをやれ」呪縛から逃れられなかった1年半

大学生になり、何らかの機会で社会人と話すことが増えるようになった。そんなとき、学生時代の過ごし方の話になると、
「学生のうちは、好きなことをやるのが一番」
大概の人は、口を揃えてそう言っていた。でも、肝心な好きなことの見つけ方は、誰も教えてくれなかった。「そのうち見つかるよ」と言う人もいれば「今まで生きてきた中で、興味を持ったことを深堀りしていけばいいんだよ」と言う人もいた。そう言われる度、これといった趣味がなく、なにかにのめり込んだ経験がない自分が嫌いになった。20年間生きてきたけど、ずっと続けてきたことなんて何もない。あるとすれば食べることと寝ることと息してることくらい。自分が自分であることを証明できることって何もないんじゃないか。そんな不安に駆られて、こんなことになってしまったのは習い事をほとんどさせてくれなかった母親のせいなのではないかと、勝手に責任転嫁をしていた。

サークルとバイトと自動車教習所、その合間を埋めるように入る飲み会。当時のスケジュール帳はそんな予定で埋められていた。忙しい割に何も手元に残らないような違和感を抱き始めた私は、何か好きなことを見つけたいという一心で、大学1年の夏から色々模索し始めた。シラバスで楽しそうな授業を探しては潜ってみたり、当時サークルでやっていたアカペラを本気でやろうと週5でヒトカラに通ったり。アフィリエイトで稼いでみようとブログを書いてみたり、はたまた一人家でパンを作ってみたり…。色々試したつもりが、どれもピンとくるものがなかった。
「好きな人を探そうと思っても見つからないのと同じで、やりたいことも探そうと思って見つかるものでもないのかもなぁ」
と、なんとなく行き詰まりを感じて、もう諦めようかと塞ぎ込んでいた。

中でも辛かったのは大学2年に上がりたての春、長期インターンを探そうと、ある就活支援サイトの面談に足を運んだときのこと。
「あなたの強みって何ですか?それがわからないと、私たちも職を紹介するにもできないので…」
担当してくれた女性社員の方に、そんなことを言われた。ただただ悲しくなったのを覚えている。強みが見つからないながらに勇気を出して1歩踏み出したつもりだったのに…。”一生懸命さ”って、それだけでは結局誰にも認められないんだろうな…。そんなことを考えたら、一生懸命さ以外に取り柄がない自分を急に惨めに感じた。自分に自信が持てないまま、いつの間にか大学生活の半分が終わろうとしていた。

記者インターン、そしてTABETE・POTLUCKとの出会い

ようやく転機が訪れたのは大学2年の冬。1年のころから関わりがあった、Saccoという会社でインターンを始めた。主に取り組んでいたのは、BigLife21というメディアに掲載する記事の取材・執筆である。インターンを始めるにあたって「何をがんばればいいのかわからない」という漠然とした悩みを打ち明けた私に対して、社長の加藤さんは「この場を利用して見つけてくれればいいよ」と迎え入れてくれた。今の自分の状況を受け入れてくれる場所があることが、とても心強かった。

初めは加藤さんのアポに同行する形が多かったものの、
「和田さんが好きな会社取材していいよ!」
と言われ、話を聞きに行きたい人や会社を探そうとアンテナを張るようになった。とはいえ、好きな会社なんてパッと思いつかなかったし、それすらも当時の自分にとってはプレッシャーに感じていた。結局、なかなか答えが出せないまま年が明けてしまった。

大学3年になろうとする頃、また1つ大きな転機が訪れた。今でも一番仲が良い友達に、海外ボランティアに誘われてミャンマーに行ったことである。正直に言うと、私は発展途上国で働きたいとか、ましてやボランティアがしたいとは思ったことがない。ただ、大学生にもなって海外に行ったことがないことにコンプレックスを抱いていたという後ろ向きな理由と、新しい経験をして価値観を広げることは、将来やりたいことを探すのに何らかのプラスの影響を与えるのではないかという前向きな理由から渡航を決めていた。こんなよくわからない理由だったためか家族には大反対されたが、自分なりに思いを伝えた。当時書き溜めていたメモにはこんなことが書かれている。

 本当に目的とかやりたいことが決まっていないとやっちゃいけないっておかしくない?「なんとなく楽しそうだから!」でやるのっていけないの?私はこれまで自分でやってきて、「本当にこれやってよかった!!」って思えることなんてそんなないけど、やってみて後悔したことは一つもない。

これを私がそのまま家族に言ったのかどうかは定かではないが、これ以上言っても無駄だと思われたのだろう。とうとう行かせてもらえることになった。

ミャンマーに行ったのは、一度人生をゼロから考えるのにちょうどよい機会だった。現地に来て早々、2週間の目標として設定した「やりたいことを見つける」ということが相当的外れであったことは、すぐにわかった。別に、家が建てたいわけでも、ボランティアがしたいわけでもない。であれば、ここでやりたいことなんて見つかるわけがない。でも、それでいて今自分がしているこの経験は間違いなく尊い。自分たちが少数派である感覚。英語ですら通じず、気付けば自分でも驚くくらい大袈裟にジェスチャーを使っている感覚。「経験全てが糧になる」そんなことを、本気で思った。

帰国した直後、驚いたのは日本での生活の刺激のなさだった。思考停止しながらでも日常が送れてしまう、その感覚に慣れてしまうことが怖かった。ミャンマーに行って一番大きく変わったのは、その反動からゼロイチの経験(=今まで自分がしたことのない経験)に貪欲になったことのように思う。少しでも興味がわいたら、それを行動に移すまでの余白がなくなった。

そこで、加藤さんから出されていた問いに戻る。
「私が話を聞きに行きたい会社ってどこだろう...?」
一度フラットに考えると、自然と出てきたワードは「食」だった。ふわっとしているし、ありきたりな気がするし、「何も考えていない就活生ほど、"なんとなく楽しそう"という理由で食品メーカーに応募しがち」という言葉を耳にしたことがあり、今まで自覚しないようにしていたのかもしれない。でも、すでにその時の自分は、この方向なんだろうなと自分の感覚に自信を持ち始めていた。

(「食」の原体験がどこにあるかはわからないが、遡れば幼稚園の頃からだろうか。みんながおままごとや鬼ごっこをしているのを「何が楽しいんだろう???」と横目で見ながら、仲の良かったコウタロウ君と2人で黙々と工作をしていたのを覚えている。コウタロウ君が何を作っていたのかは覚えていないが、私は折り紙をぐしゃぐしゃにまとめてそれを茶色い折り紙で綺麗に包んでハンバーグを作ったりしていた。お絵描きするのも美味しそうな食べ物の絵を描くのが好きだった。とりあえずなぜか「食」…というか美味しそうなごはんに興味が強かった。強いて言えばそんなところだろうか。)

「食」に関わる取り組みをしている会社を探していると、フードシェアリングサービスの「TABETE(タベテ)」というサービスに目が留まった。食をITでよりよくしていく世界観に漠然とワクワクを覚えた私は、すぐにアポを取るべく運営元のコークッキングCEO川越さんに趣意書を送ることにした。ほどなくして返信が来て快く取材に応じてくださることになった。そのとき書いた記事がこちら。

予想の通り話を聞くと、よりこの分野で働いてみたいという気持ちが芽生え始めた。前後で読んでいたTABETEのCOO篠田さんのブログ記事によって、自分の道を切り開いていくスタイルに感化された節もある。他にも食の分野で探してみようとFacebookで検索をかけまくっていると月額定額制テイクアウトサービスの「POTLUCK(ポットラック)」というサービスを見つけた。ちょうどPOTLUCKアンバサダーというものの個別説明会があったので、話を聞きに行くことにしたのだった。

今思い返してみると、当時は説明を聞いても特にPOTLUCKが掲げる問題意識に共感したわけでも、世界観に共鳴したわけでもない。生まれたてのサービスで楽しそう!ビジュアル可愛いし!社長イケメンだし!そんなノリと、とにかく何か掴みたい、という想いでそこからCEOの谷合につなげてもらったのだった。

(※字面だけを見るとやる気に溢れているように見えるかもしれないが、実際このメッセージを飛ばしたとき、私の心の中はポジティブな気持ちだけではなかった。何も軸足が定まっておらず「やりたいことがない」「このサービスが自分がやりたいことなのかもわからない」「でもやりたいことを見つけたいからやってみたい」そんな思いで知らない人にメッセージを飛ばすことに、少なからずためらいというか、負い目のようなものを感じていた。そんな当時の自分の心境も忘れたくないと思う。だから、1歩踏み出せない人とか「会いたいです!」と声をあげられない人を無下に蔑んだりはしたくないと思う。)

唯一の取り柄"一生懸命さ"を受け入れてくれた場所

谷合から聞いた「飲食店とお客さんの関係に"余白"を作る」というビジョンの明確さに惹かれた私は、話した後には即ジョインすることを決めていた。大学3年の5月末から働き始め、初めは週2程度の関わりだったのが週3,4...と増えていき、気付けば週5(たまに週6)でオフィスに通うくらいフルコミットしていた。とうとう、2年近く続けていたホテルのフロントのバイトも辞め、ほとんどのリソースをPOTLUCKに割くようになった。というのも、それが今自分が一番心地よい時間配分だからそうしているのかもしれない。  

そして今年の9月、ついにPOTLUCKのベータ版がリリースされた。渋谷のほんの一部でだが、私たちの白いボックスが世に出回り始め、新しいランチのカタチが体験として生み出されていた。そんな中、当時30店舗ほどだったお店の窓口を担当していた私は、加盟してくれたばかりのあるお店から、こんな声をいただいた。  

「予約入ってたのに、お客さん結局取りに来なかったんだよねぇ」

私たちのサービスは、事前予約制だからユーザーは待たなくて済むし、お店はピーク時に慌てることなくあらかじめ準備しておくことができる。もっと言えば、予約確定の10時を過ぎれば、お客さんが取りに来ようが来まいが、POTLUCKを通してユーザーからお店へお金が渡る。それでも、私たちのサービスによって、誰かのために作った食べ物がその受け手に渡らず捨てられてしまうのは心苦しかった。

そこで思い出したのが、半年前に話を聞きに行ったTABETEだった。
「TABETEにレスキューしてもらいたいですね」
そうSlackでポロっと発言すると「それいいね!」となり、そこから篠田さんと谷合がすでに繋がりがあったころもあり、すぐに提携の話が決まった。  自分がしてきた仕事によって、いつの間にか自分に影響を与えてくれた人たちと一緒に仕事ができる。そんな経験が、自分の中で嬉しくてしょうがなかった。

そんな日々の中で気づいた。今の自分は、相変わらず何のスキルもないけど、"一生懸命さ"を評価してもらえている。自分で探して、選択して、決断したからこそ、初めて居場所といえる場所を見つけられた気がする。日々の忙しさの中で忘れそうになることもあるが、半年前の自分からしたら、信じられないくらい幸せなことだ。

「私って何者なんだろう?」
そう問い続けた過去の自分に、今ならこう答えたい。  

今の自分も未来の自分も、自分は何者でもない。
だけど未来の自分は、そんな自分を少しだけ、好きになれているよ。

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