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All the Light We Cannot See(すべての見えない光)

法事のために今週末は実家に泊まることになった。御仏前やら供え物のお菓子やらをあれこれ用意して生家のある街に向かう電車に乗る。別に無理して出なくても良いと言われつつ、こういう会は多少無理してでも出るものだという考えがあって都合をつける。歳の近い従兄弟などは誰も出席しないのに、なぜ……とも思うが、じぶんの性分なのだから仕方ない。わたしはとりわけ故人に対しては義理堅いたちなのだ。

実家に向かう途中は疲れ切ってうとうとしたせいで、うっかり買ったばかりの供え物のお菓子を網棚に忘れ、22時には着くつもりだったのに終電近くの帰りになってしまった。祖父の好きだった、わざわざ仕事の合間で根津まで寄って買った蒸しまんじゅうを、どうにも取り返す必要があったのだ。記憶力幸いにして、列車を降りた時間や乗っていた車両を正しく覚えていたおかげで、すぐ捜索してもらえて助かったが。網棚に忘れてしまって、お菓子の袋なんですが……と切り出したとき「お菓子ねぇ〜。特に見つかってないですねえ」と、やれやれあしらう駅員さんに、たかがお菓子、でないことをきちんと証明できてホッとした。

たとえ同じものを見ていても同じようには見えていないってことは、ときに救済であり残酷でもある。当たり前すぎて気が付きにくいせいで、それが意外と世界の前提にはなっていないことに毎度おどろく。わかりあうって骨が折れること。なるべく互いのイメージ、を、近づけていくために共通言語は存在すれど完璧ではあらず。でも言葉が通じるはずだって信じられる相手には、できるかぎり言葉を尽くしていくことしか人間には残されていない。生きろ、生きる意味も死ぬ意味も宇宙真理のシステマチックに捉えてしまえばきっとない。でも連綿と連なっていくいのちの行先で、だれかが慈しんでくれたとしたら、その心をないがしろにしてはいけないって思うよ。生きるべきたった一つの理由を探すことほど無意味なことはない。好きなものや楽しいこと、じぶんに心や時間を割いてくれる人、まだ見ていない世界のあらゆる事象、そういう小さな鋲のようなものが無数にからだにまとわりついて、なんとかこの世に留まっているのだと思う。だれしもが。

法事はこぢんまりと、至ってしめやかに終わった。しまむら、AOKI、ドコモショップなどといった映画のセットみたいに見事に“あるべきものがある”国道を折れた先にある、小さな割烹で御斎。親族の集まりあるあるの、「そろそろ結婚だとかは」というジャブを打たれ、おっ、来たな冠婚葬祭クエストが……と思ったのも束の間、間髪入れずに父親が「そういう話は周りがとやかく言っていいことではないですから」とバッサリ斬り落としてくれて呆気にとられた。最高の父〜! と心の中で拝み倒しておいた。あまりそういうことを言うタイプでないと思っていたので、その場のみんなが面食らっていた。家族でも予想のつかないことはいくらでもある。まあ実際何を言われても特に気にならなくなったので、助け舟なくともへへへと不気味に笑うだけだったかもしれないが。

都心より少しだけ気温の低い土地のせいか、霊園の桜はまだまだ蕾だった。代わりに敷地の奥にひっそりと、でもはっとするような存在感でコブシの花が真っ白に咲き乱れていて、住職が帰ったあと、木の下まで歩いてしばらく眺めていた。いくぶん重たい花弁がはらはら肩をかすめていって、やけに感傷的になりそうだったので逃げるみたいに後にした。

献杯のため小窓に置いたビールグラスがやけに綺麗に見えて、持ってきたカメラで写真を撮った。ああ故人が連れてくる、こういうささやかな光を見るために法要というのはありますね。と、やはり思うので、律儀に出席することをきっとやめない。

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