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【生きづらさ】4.終わるもの、終わらないもの

 今や世界的な潮流になりつつもどういうわけか日本ではいまひとつ盛り上がりに欠ける「#MeToo」運動であるが、ハリウッド業界から追放された人々のなかには数年から数十年前の性的暴行などで訴えられたケースも少なくない。告発にかかった時間がこの問題の根深さを表していることは言うまでもないが、このことについて、少しべつの視点から考えてみたい。
 ところで、「生きづらさ」の話をするとき、「『生きられない』生」などと言うとき、必ず現れるのが、誰でも「生きづらさ」を抱えている、誰でも「死にたい」と思ったことがある、という類の言説だ。ここで想定されているのは、一時的にそのようなネガティブな気分に陥ることはあるが、それはあくまでも一時的なものであるので、通り過ぎてさえしまえばたいした問題にならない、ということだろう。そのためか、ひとが「死にたい」と思うことを「厨二病」のようなものだと認識しているひとがいる。しかし、ある種の人々にとってこれは明らかに誤りである。このような誤りが起きないためにも筆者は「生きづらい」ではなく、「生きられない」という表現を用いたい。
 誤解を恐れずに言うのであれば、「生きられない」というのは、HIVウイルスに感染するということであり、癌になるということである。若気の至りや、若さ故の感傷ではない。そしてこれは、ソンタグが『隠喩としての病い』のなかで述べ批判したような、神話としての比喩ではない[133]。たとえば、HIVウイルスに感染しても、今日では薬を飲み続ければエイズ(後天性免疫不全症候群)を発症ことなく生涯を終えることができる。とはいえ、検査を受けずに気付かなかったり、適切な治療を受けずに放置すればエイズを発症し、それが命に関わることもあろう。また癌も、早期発見さえできれば完治できる病になりつつある一方で、一度治ったらそれで終わり、というわけではなく、最低でも数年間は再発がないか検査を受け続ける必要がある。つまるところ、注意深く扱うことができれば致死的な事態には至らないが、致死的な事態を引き起こさないためには注意深く扱う必要があるのだ。それでもおそらく、癌が再発し亡くなるひとがいるように、命を落とすひとはいる。運と言ってしまうとあまりに無責任であるが、状況や状態のコントロールはそのくらい難しいものだと認識しなければならない。

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