見出し画像

1.パロディの効用

 子どもの頃の感覚では、男の子と女の子はまったくちがう生き物だった。世界には男か女しか存在せず、自分を除いては各々同性のグループに所属するのが常だからだ。そこから自分が除外されていたのは異性のグループにいたからではない。ただ、いずれとも「同性」にはなれなかったのである。こうしたことに気づいて以来、筆者は社会の単純化された枠組みに、批判的な眼をむけるようになった。
 ところで、本稿のはじまりにあるのは、以下のような仮説である。
すべての女性がそうであると一概に言えるわけではもちろんないが、一般に、女性は同調と共感のコミュニケーションを重んじ、話をすること自体やその場を成立させることが意思疎通の目的だといわれる。これをある側面から観察すると、個人より全体が優先され、弱い者や「敵」とみなされた者はコミュニティからの排除や相互密告、あるいは「生け贄」の対象となるのではないかと解釈することができ、それは多くの言説と広く共有される経験によって現実味を帯びてくるだろう。
 ここでいう「生け贄」とは、排除はされていないものの、都合良く使われる存在のことである。権力関係、カーストで言えば下位に位置し、人がよさそうだったり気が弱そうな者が「生け贄」に選ばれる。排除はされていないのでいじめに遭っているということではない。ただ、使われるだけの存在である。表面的には(薄っぺらい言葉で)褒めるのであるが、それは「生け贄」が断れない状況をつくって面倒事を押し付けているにすぎない。そして周囲はあたかも「生け贄」が主体的にその面倒事にコミットすることを自分の意志で選択したかのように振る舞うのである。断れば排除される可能性が高いことから、いじめと呼ばれる現象よりも巧妙かつ卑怯で、なにより見えにくい。「ねぇ、知ってる?友だちを選ぶとき、大事なことはただひとつ。その子が自分よりすこしだけ劣っている、ってことだけ。そうすれば簡単に支配できる[1]」。
 筆者はこの章を子ども時代の物語ではじめたが、これは寓話であって、なんらかの事実に還元できるものではない。実際に、本稿全体の目的は、ジェンダーの寓話がもたらした現実と折り合いをつけ、全体主義的視座で「女社会」を巡っていくことである。
 「すべての女性がそうであると一概に言えるわけではもちろんない」のであるなら、一般に想像される「女社会」を築く女性とそうではない女性を隔てるものは何なのか。何が彼女たちをそうさせる、あるいはそうさせないのか。そもそも「女社会」とは何であろう。排除の構造を内包し、全体主義性を生み出すものは何であろうか。
 ところで、お気づきの方もいるであろうが、本章はジュディス・バトラー『ジェンダー・トラブル』の序文のパロディになっている(本当に文字通りパロディになっているだけだが)。目を逸らしてはならない日本における女子コミュニティの諸問題を論じながら、「女社会」と、バトラーのいう「パロディ」的な行動を全体主義的な文脈で読み解くことの効用を本稿で提示したい。

________________________________

[1]『ユリ熊嵐』(EPISODE 3「透明な嵐」)、TOKYO MX。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?