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【神聖かまってちゃん】2 − 5.致死的な風景【2.ひとと人間の境目から】

 社会と関わるということ、社会のなかで生きるということ、そこから漏れ落ちてしまうということは、「生きづらさ」を生む。しかし、理由や事情はどうであれ、社会から漏れ落ちることに苦痛を感じるということは、「じつはどうしようもなく『この社会の一員』[107]」だということを示しているのである。そのような意味で、「生きづらさ」は社会性がある証拠になる。社会のなかで生きていくことに興味がなければ、とりあえず文字通り生きていけるだけの物質的な豊かさのなかにいられるか否かにしか関心が向かず、「生きづらい」という表現には結び付かないだろう。
 そして、社会から漏れ落ちることのどうしようもない痛みを「生きづらさ」として感じることは、健康な反応と捉えることができるのではないか。たとえば、初期の不登校運動において大きな役割を担った精神科医の渡辺位は登校拒否について以下のように述べる。

登校拒否は子どもが危機を感じている学校状況に対して無意識にとる防衛的な回避反応であり健康な反応であって異常や病的なものではないと考えてよい。それはちょうど、腐ったものを気づかず食べたときに生じる下痢にたとえることができる。このさいの下痢は、誤って食べた腐敗による毒物を、からだのなかに吸収してしまわないうちに一刻も早く体外に排出して、生命を危険から守ろうとする本能的な防衛機能によるものである。つまり、身を守るために腐敗物を拒否しようとして生じてくるこの下痢の症状は、病的なものでなく健康的な反応である。その意味からも、登校拒否は現在の学校状況がどんなに子どもにとって不当であり、危機的な状況となっているかを示すものでもある。[108]

このように考えると、痛みとしての「生きづらさ」は、もうそこを離れるべきであるという防衛的な回避反応と見て取ることができる。逆説的なことだが、たとえば発達障害における二次障害、のみならず生活障害とされる発達障害の症状も、健全な反応なのではないだろうか。社会と不適合があったり、周囲から適切な対応がされないことで症状が出る、あるいは悪化するというのは、そのひとに防衛的な回避反応を求めるような痛覚があることを示している。
 これといった理由を明確に示すことができなかったとしても、なんとなく「生きづらさ」を感じるひとは少なくない。そのような違和感は、何かが違うということ、このままでいいかを問いかける契機、社会や自分を問い直す契機になるだろう。その一方で、先の、いじめの存在を肯定するような学生の生存戦略に見られる価値観を内在化していると、この社会にあって「生きづらさ」を感じるのは人生のどこかで躓いたということになりかねず、「敗者」とみなされかねないということになる。そうしたためか、「生きづらさ」を覚えるのはどこか不名誉なことだと捉えられがちだ。そうでなければ、「生きづらい」人々は沈黙しないし、無謬でなかった自分を責めたりもしない。「生きづらさ」を叫ぶひとへの冷ややかな視線も生まれないだろう。
 日常的な言論空間では、「生きづらさ」を主張するようなひとは、「甘え」と罵られたり、「メンヘラ」、「構ってちゃん」などと揶揄されることも珍しくない。日常で散見される似たような事例として、何らかの困難を訴えるひとに対して叫ばれる、「みんな我慢している(故に我慢しろ、我慢できないのは甘えだ)」という言い方がある。そもそも、その「みんな」がしているという理由で個々人がそれに従わなければならないという理屈自体、危険なものであるが――幼児などはこのロジックが持つ妙な説得力を逆手にとって、「みんな」がしていることをしたがり、持っているものを持ちたがるものなのかもしれないが――、こうした判断を可能にする前提は、さらに危険なものである。このような発言がなされるとき想定されている「みんな」は、極めて同質なものだ。同質性を前提としなければ、このような発言はできない。しかし、一億総ナントカの時代は終わったのである。
 とはいえ、「俗に、他人にほめられたい、親切にされたいなどの気持ちが強く、周囲の人の気を引くような言動を繰り返す人[109]」──たいていは解決しなければならない問題があると表明しているだけで、それ以上の部分は受け取り手の被害妄想的な解釈だったりするのだが──に対していつでも寛大な気持ちで対応できるかと言えば、そうではない。おそらくそれについては、『パンセ』のなかでパスカルが述べているようなところにヒントがあるのではないだろうか。

びっこの人が、われわれをいらいらさせないのに、びっこの精神を持った人が、われわれをいらいらさせるのは、どういうわけだろう。それは、びっこの人は、われわれがまっすぐ歩いていることを認めるが、びっこの精神の持ち主は、びっこをひいているのは、われわれのほうだと言うからである。そうでなければ、われわれは同情こそすれ、腹を立てたりなどしないだろう。[110]

しかし、こうした見方には欠点がある。どちらかが正しいときにはもう一方が間違っているという二分法的な感性もさることながら、それ以上に、世界の現状が心地よい人間にとっては適応できない人間のほうに問題があるとする発想は自然であるものの、適応できているからといって必ずしもそれは客観的であることを意味しない、ということである。また、黒子のバスケ脅迫事件の最終意見陳述に際してあれほど社会を問い直しているように感じられる分析をしていながら、以下のように述べている。

誤解して頂きたくないのは、自分は決して社会を批判しているのではないということです。あくまで自分なりの社会の現状認識を示し、どうして自分がそれに適応できなかったのかを説明しているだけです。価値判断は一切しておりません。[111]

パスカル風に言えば、事件を起こしたほうが「びっこの精神」を持っているのにも関わらず、われわれのほうが「びっこをひいている」と言われている、ということになるのかもしれないが、実際に、われわれのほうが「びっこをひいている」と思うひと、社会の認識のし方の異なるひとがいる以上、どちらが「びっこをひいて」いようがいまいが、新幹線殺傷事件が起きたように、現実に影響を及ぼし得るのである。正直なところ、痛ましい事件を防ぐということに主眼を置くのなら、どちらが正しいとか間違っているとか言っていても仕方がない。
 それに、「構ってちゃん」も黙ってはいない。「神聖かまってちゃん」という「カルト的な人気を博し、ライブのチケットが即日完売するほど[112]」のバンドが今年十周年を迎えているのだが、バンド名のみならず全体的に攻めた人々となっている。さまざまな精神科医がそれぞれ一曲を選び、「精神現象の比喩として[113]」論じる『ポップスで精神医学』では、取り上げる「友達なんていらない死ね」という曲への感想とともに以下のように述べられているが、もう、本当に自由なのである。

なにかもう吹っ切れたような無茶なタイトルに思わず微笑がこぼれるが、かまってちゃんの楽曲やアルバムには、こんなタイトルが結構ある。「友だちを殺してまで。」とか(……)、ひたすら「死ね○○(誰かの名字)」を繰り返すだけの歌(「夕方のピアノ」)もある。いわゆる中二病ではない。むしろネットカルチャーのダークサイドを煮詰めた煮こごりのような場所から生まれたバンドなのだ。[114]

 特に、作詞作曲、ギターボーカルを担当する「の子」は、かまってちゃん上等、といった塩梅で、インターネット上での自演行為のみならず、ライブでファンに「死ね」と言って憚らず、性器を露出することまであるほどだ。『ポップスで精神医学』のなかで「の子」は「無敵の人」か、という議論があったが、本来の意味で「無敵の人」にあたるかはともかく、行動の大胆さに目を見張るものがあるのは事実だ。そして、ライブで下半身が露出されるようなことがあっても迷うことなく応援し続けるファンが存在する──というかおそらく、そんな些細なことがいちいち気になるようではファンにはなれない──のもなかなか興味深い。
 ところで、「神聖かまってちゃん」についてはあとで立ち戻るとして、自閉症とディスレクシアの研究を専門とする研究者であるウタ・フリスの言葉を引用したい。

想像するのは難しいことです。社会感覚がないということはどんなことなのか。他人に対して、他人の行動や反応に対して、あるいは人に向かって発信したり、お互いに発信し合う信号に対してうまく波長を合わせることができないというのは、どういうことなのか。(……)彼ら〔自閉症の子どもたち〕が身につけた知識は、私たちがみな当たり前のことと思っている、ごく普通の「ぴたっと波長の合った」知識ではありません。もし、ある人が色覚異常だとしても、色についての知識や色の名前は正しく知ることができるでしょう。しかし、その人の色についての経験は、依然として色覚に問題がない人とは違ったままでしょう。まさにそれと同じことが、自閉症と社会的コミュニケーションについての経験に対しても言えるのです。[115]

このようなケースに加えて、研究者であり児童精神科医でもある山崎晃資が日本の大学におけるアスペルガー症候群の学生について述べた著書には以下のような記述がある。

本人が、友達がいないことをさみしく感じていることは多くあります。なぜか自分が人とうまくやれないこともわかっています。なぜ、こんなに生きにくいのか、悩みは深いのです。どうも自分は変わっているのではないかということが、うすうすわかっていきます。ほかの人と波長が合わない。
そういうとき、周囲がサポートできればよいのですが、なかなかそうはいきません。無理解から、怒ったり、あきれたりしているからです。
「おまえがわるいんだ」、「もう少し、人の輪の中に入っていかなくてはならない」などと言われるのがふつうです。[116]

このような、どんなによくとも短期的な利益にしかならない省エネ的対応を長期的な視点で捉えたときの滑稽さはともかくとして、おそらく発達障害に限らず、空気が読めない、浮いている、馴染めない、「波長が合わない」ひとというのは存在する。
 ところで、そうした「波長の合わない」人々が時折「宇宙人」と表現されることがあるのをご存知だろうか。それは愛称かもしれないし、揶揄かもしれないし、ニュアンスは状況によりけりなのかもしれないが、社会で打ち解けることができていない、地球人とは思えないほどに異質な存在だという状況を「宇宙人」という言葉が表現していると考えると、一般的にあまりハッピーでないことは明らかである。
 そしてそのような、基本的にはアンハッピーな存在の「宇宙人」であることを自ら掲げた曲が「神聖かまってちゃん」には存在する。「宇宙人」であることそのものには悲観的でなく、むしろ受け入れているように思えるこの曲は「Os-宇宙人」というタイトルなのだが、これは、大島亮介という本名の「の子」のことで、「大島宇宙人」の略である。「の子」は学生時代ひどいいじめに遭っており最終的に高校を中退しているため、この曲はそうした「の子」の経験をもとにしたものだという解釈が一般的なようで、「大島宇宙人」というあだ名も、いじめに際してつけられたものであるという[117]。テレビアニメ『電波女と青春男』のオープニングテーマ曲として制作されヒロイン役を務めた声優が歌ったが、のちに「の子」が歌ったバージョンも「の子」ソロ名義の『神聖かまってちゃん』というアルバムに収録されている。

2年生、バカは一人
ここの町の、空見上げる
サボり学生、パジャマ着てる
夏休みが、来ずに中退

地球で宇宙人なんてあだ名でも
宇宙の待ち合わせ室には
もっと変なあなたがいたの

受信してるかなと
接続してみると
みんなが避ける中で
ぱちくり見ている
あなたがいたから
テレパシる気持ちが、電波が違くても
きっとね何か掴んでくれてる
あなたの事が好き

こら不安定、バイトできない、
会話できない、空見上げる
サボり学生、パジャマ着てる、
夏休みが、来ずに中退

社会で宇宙人なんてあだ名でも
宇宙の待ち合わせ室で
メイビーまた巡りあえるよね
愛してくれるかなと
狂ったりしてみると
みんなが避ける中で
ぱちくり見ているあなたがいたから
テレパシる気持ちが
電波が違くても
きっとね何か掴んでくれてる
あなたの事が好き

受信してくれるのかなと
心配もしてるんです
なんだかんだで側にいてくれてる
あなたが好き

そんなあなたの事が好き
そんなあなたの事が好きなんです
あなたの事が好き
そんなあなたのことが好きです

きっとあなたしか受信できないの[118]

「地球で宇宙人なんてあだ名」であるのみならず「社会で宇宙人なんてあだ名」であることは、端的に言えば、地球のみならず社会において「人間」とはみなされていないということである。そのような状況において、誰もが「生きづらさ」を抱え得る、集合的な足場を持てないときだからこそ、「宇宙の待ち合わせ室」は意味を持つのではないだろうか。本稿が「『生きづらい』生」ではなく「『生きられない』生」を扱おうとしているのは、「影」がない人々の「宇宙の待ち合わせ室」を構築する試みに他ならないのである。

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[107]同上、一五八頁。
[108]渡辺位『登校拒否・学校に行かないで生きる』、太郎次郎社、二五〇〜一頁。
[109]【構ってちゃん】『デジタル大辞泉』、<http://dictionary.goo.ne.jp/jn/262963/meaning/m0u/>(最終閲覧日2018/06/26)。
[110]ブレーズ・パスカル「パンセ」『世界の名著パスカル』、中央公論社、九九頁。
[111]前掲書、『生ける屍の結末』、三〇〇頁。
[112]斎藤環「『無敵』のロックンロール!『友達なんていらない死ね』」『ポップスで精神医学』、日本評論社、九九頁。
[113]前掲書、山登敬之「はしがき」『ポップスで精神医学』、日本評論社、五頁。
[114]前掲書、「『無敵』のロックンロール!『友達なんていらない死ね』」『ポップスで精神医学』、八五頁。
[115]ウタ・フリス『ウタ・フリスの自閉症入門 その世界を理解するために』、中央法規、五頁。
[116]山崎晃資『キャンパスの中のアスペルガー症候群』、講談社、五七頁。
[117]前掲書、「『無敵』のロックンロール!『友達なんていらない死ね』」『ポップスで精神医学』、八七頁。
[118]の子作詞、の子『神聖かまってちゃん』、「Os-宇宙人」。

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