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【犯罪と社会】2−3.ある狂気の青年の正気のとき【2.ひとと人間の境目から】

 ところで、新幹線殺傷事件から三週間が経過した今日〔※執筆時〕に至っても、被疑者が反省や謝罪をしたという報道はない(今のところ反省した態度は見せていないという報道ならある)。むしろ、社会を恨んでいるとか、出所したらまた事件を起こすなどといったことを話しているという報道が当初からなされていたわけだが[54]、そこで、一般には理解されないような論理飛躍を見せ、「反省も謝罪もしない[55]」と明言できるような事態はどのようにして起こり得るのか、黒子のバスケ脅迫事件[56]を起こした経緯などを綴った『生ける屍の結末 「黒子のバスケ」脅迫事件の全真相』を紐解くことで明らかにしたい。そうした犯罪者のロジックには耳を貸さずただただ非難することに終始すべきだという意見もあるかもしれないが、一見自分勝手なようで、極めて示唆的かつ社会にとっては有用なものだと信じてやまないのである。
 とにもかくにも、新幹線殺傷事件を受け、インターネット上では、十年前に2ちゃんねる[57]創設者のひろゆきがブログに書いた「無敵の人」についての記事が改めてクローズアップされているという[58]。
 「無敵の人」の端的な説明として、黒子のバスケ脅迫事件裁判の冒頭意見陳述を引用したい。

死にたいのですから、命も惜しくないし、死刑は大歓迎です。自分のように人間関係も社会的地位もなく、失うものが何もないから罪を犯すことに心理的抵抗のない人間を「無敵の人」とネットスラングでは表現します。[59]

冒頭意見陳述自体はのちに「自分の本当の心象風景からズレて[60]」いたことを理由に撤回されているのだが、「無敵の人」の定義自体は有用であろう。とはいえ、著者が言うように、「犯罪の動機も犯人の来歴も十人十色」であり、個別具体的な検証が必要不可欠とされる犯罪の分析において「その作業をサボタージュできる便利なキーワード」として「無敵の人」が濫用されることは避けなければならない[61]。
 そこで、自身の人生を振り返ったうえでなぜ事件を起こしたのか改めて自己分析した最終意見陳述では、「社会的存在」、「生ける屍」、「努力教信者」、「埒外の民」、「キズナマン」、「浮遊霊」、「生霊」など独自の用語が使われているため、それぞれの意味を整理しながら、丁寧に論じていきたい。
 まず、「社会的存在」は、「社会と接続でき、自分の存在を疑うことなく確信できている[62]」ひとのことであり、それは物心がついた頃に「安心」できているかで決まるという。著者はここでの「安心」を幼少期の養育者とのやり取りを例に説明しているが、これは日常的な文脈で用いられるような「安心」でない。
 心理学における愛着理論を参照すれば、「自分にとって大事な人間との間に形成する情愛の絆をアタッチメント[63]」と呼び、泣いている赤ちゃんのそばに飛んでいき「どうしたの?」と声をかけるなど、乳幼児期、ニーズに合うような行動が返ってくることによって、大事なひとは子どもにとって「安全基地」のような存在になるという。そして、そのような「安全基地」たるアタッチメント対象は子どもが成長してくると内在化され「子どもが新しい世界を探索するときの拠り所となる。何か怖いことがあってもここに帰ってくれば大丈夫、という気持ちが(……)世の中に出ていく際の命綱になる[64]」のである。
 「社会的存在」が持つとされる根源的な「安心」は、「安全基地」のようなものだと捉えることができる。乳児期のアタッチメント形成がその後の人生を全面的に決定付けるわけではないものの、安定したアタッチメントがあることで社会に適応する能力が高くなる傾向があることは否定できない[65]。
 それ以外にも、子どもが泣いたりしたときに、親などの養育者がそれを「痛かったね」などと言語化することで、子どもはさまざまな感覚をどう表現するかを覚え、感情を共有できるようになるという。また、感情を共有できるようになることによって、「けがをすると痛いから走らないでね」などの注意を理解し守ることができるようになる「規範の共有」が可能となる[66]。そのうえで思春期になると、それまで与えられてきた規範の問い直しや自己の定義付けなどが行われ、「社会的存在」が完成するという。
 そうした「社会的存在」の対になるのが、これまで述べてきたような「社会的存在」となるプロセスがうまくいかなかった「生ける屍」であり、以下のような特徴を持つという。

・自分の存在感が希薄なので、自分の感情や意思や希望を持てず、自分の人生に希望が持てない。
・対価のない義務感に追われ疲れ果てている。
・親の保護を経ての自立ができない。代わりに生まれた時から孤立している。
・常に虚しさを抱え、心から喜んだり楽しんだりできない。
・根拠のない自責の念や自罰感情を強く持っている。[67]

「生ける屍」は虐待を受けて育った子どもに多くみられるタイプだというが、適切なアタッチメント形成ができず「安心」を得られなかったり感情や規範を共有できずに育つことで、社会とうまく繋がることができずいじめに遭うか協調性のない問題児になるなどして、より生きづらさを悪化させた存在だと言える。
 次に「努力教信者」であるが、著者は、自身の起こした事件への反応として「努力しなかったお前が悪い」という趣旨の批判が多くあった[68]ことを明かしたうえで、努力すれば報われる(少なくとも報われる可能性はある)、という世界観をこの世の人間すべてが持っているという前提に疑問を呈している。
 「努力教信者」の定義自体はいたってシンプルで、「この世のあらゆる出来事と結果は全て当人の努力の総量のみに帰する[69]」という教義を信仰する人々のことである。表現は些か極端であるかもしれないが、経済や教育、あらゆる格差を肯定する言説が氾濫する現状を鑑みればあながち否定もできまい。
 世の中で「勝ち組」と呼ばれる人々は言うまでもなく「努力教信者」であるという。一方「負け組」と呼ばれる人々は、努力したものの報われなかった人間、自らの意思により怠けた人間、不可抗力により努力しようがなかった人間、努力するという発想がなかった人間の四種類にわけることができる。一般に「負け組」と認識、分類される前者ふたつはともかく、後者ふたつはどうであろうか。
 まず、不可抗力により努力しようがなかった人間は想像しやすい。重い病気により闘病生活を送っていた人が具体例として挙げられているが、そうして本人や周囲が理解し納得できる特段の事情を持った者と定義できよう。そのような事情があると、努力することが叶わなくても(その結果達成できないことがあっても)責められることはないし、理由があるので本人も納得しやすい。そのため、「負け組」と言われる人々の大半も、努力して報われなかったり、努力しないことを(その帰結含め)選んだり、努力できないがその結果も受け入れられるため、「努力教信者」となる。
 努力するという発想がない人間が、努力教的な世界観を持っていない「埒外の民」である。著者によればひとが努力をするためには、自らの人生に興味を持ち、自分にも可能性があると信じることができるような「肯定的な自己物語[70]」が必要になるという。
 ではなぜ、「埒外の民」は、自分には可能性がないと思い込んでしまうのか。これは、シーナ・アイエンガーが『選択の科学』のなかでカート・リクターとマーティン・セリグマンの実験をそれぞれ紹介しつつ示したように、選択の前段階としての認識の問題がヒントになるだろう。

わたしたちが「選択」と呼んでいるものは、自分自身や、自分の置かれた環境を、自分の力で変える能力のことだ。選択するためには、まず「自分の力で変えられる」という認識を持たなくてはならない。[71]

 たとえば、アメリカの心理学者であるマーティン・セリグマンが一九六五年に行った実験[72]では、二匹の犬を一匹ずつ箱に入れ、無害なものの不快ではある電気ショックを与えた。このとき、パネルを押すことで電気ショックをとめることができた犬は、状況を変えた実験でもすぐに壁を飛び越え電気ショックから逃れることを学習した。一方で、最初の実験で電気ショックから逃れる術を持たなかった犬の三分の二は、続く実験でも逃げようとはせず、他の犬が壁を飛び越える姿を見ても、研究者たちに箱の向こう側まで引き摺られ、電気ショックが回避できるものだと教えられても、結局は苦痛に耐えるだけであった。
 人間でも、何をしてもしょうがない、選択肢がないと感じるような状況に置かれていれば、何をする気もおきずただただ苦痛に耐えるばかりになってしまうだろう。こうした学習性無力感の視点で考えれば、努力するという発想がない「埒外の民」のメカニズムも理解できる。
 しかしながら、そのような認知の歪みがあることに自覚的でない「埒外の民」は、周囲からの評価と自己認識の乖離に苦しむことになるという。つまり、本人としては怠けて努力ができなかったわけではないものの、そのようになってしまった理由をうまく説明できないために、周囲からの批判や社会的な低評価に苦しむことになるのである。
 著者は自身がいじめられた経験を述べたうえで、客観的状況と社会的評価のズレを説明するため、酒場で仲間を見付けてパーティを組むタイプのゲームにたとえているが、ポケットモンスターシリーズをプレイする筆者としてはポケモンで失礼したい。
 基本的な設定から説明すると、ポケットモンスターの世界では、最大六匹のモンスター(通称ポケモン)を持ち歩くことができる。通常、最初の一匹は博士からもらうが、それ以外は草むらや海などさまざまなフィールドに出没する野生のポケモンを捕まえるなどしてパーティを組んでいくことになる。もちろん自らが所持しているポケモンの経験値をあげるために野生のポケモンを倒すこともできる。また、ゲームを進めていくうえで避けて通れないのがポケモンバトルだ。ポケモントレーナーと呼ばれる人間がお互いのポケモンを戦わせるのだが、バトルに勝つことで金銭が得られる。
 このように、野生のポケモン相手にせよ、トレーナーのポケモン相手にせよ、ゲームの攻略上どうしても自らのポケモンを戦いに出すことが求められるわけであるが、当然、傷付いたポケモンを回復させながらでないと旅は続けられない。とはいえ、家に帰るといつでもママが回復してくれる他、ポケモンセンターでジョーイさん[73]に依頼すれば無償で回復してもらうことができる。
 それ以外にも、チュートリアルを担当する博士は懇切丁寧に説明してくれて、ポケモンを捕まえるためにモンスターボールまでくれるし、路上や町で初めて会う人々も何かアイテムをくれたり、アルバイトをさせてくれることがある。レベルをあげゲームをクリアするという努力がしやすい環境なのである。
 けれども「埒外の民」はそうした支援を受けることができていないという。博士からはポケモンやモンスターボールをもらえず、ママには帰宅を拒否され、ジョーイさんからは相手にされない。見知らぬ住人には石を投げられ、道行くポケモントレーナーも目を合わせてくれない。それでは四天王に勝つどころか、ジムバッジも集められないし(SM[74]、USUM[75]では試練を達成できない)、そもそもポケモントレーナーとしての冒険はほとんど始まらないだろう。何より、このような状況でもレベルをあげてゲームをクリアしようと思うひとはなかなかいない。「めのまえがまっくらになった!」というやつである。
 しかしながら、「埒外の民」は自分だけゲームの設定が異なることを認識できていない。途中で設定が変われば気付くが、初期設定から狂っていては気付かなくて当然である。そして、通常通りのルールでゲームをプレイしている人々からはただ怠けていてクリアできないとみなされる。ネットスラングで言えば文字通りの「無理ゲー[76]」であり、クリアできるような設定になっていないにも関わらず、である。
 ここに、「埒外の民」が有害化する可能性を見て取ることができる。主観的には対人恐怖や社会への恐怖を抱えて生きているために心労の度合いが高く、漠然と「自分だけが悪いのではない」と思いつつも、それがうまく説明できないでいる。さらに、周囲からは怠け者と評価されるが、心的には疲労しており、その矛盾に苦しむことになる。

さらに実際に努力をしていませんから、ティーンの時代に使われるべきだった肉体的なエネルギーが不完全燃焼な状態で残っています。このような状態では自分の「負け組」としての運命をスムーズに受容できず、茫漠たる不満や復讐願望を心の奥底に貯め込むことになります。[77]

 これまでが、成人期以前のパーソナリティ形成にまつわる分析なのだが、独特の用語を使用しているもののどれも学術的に位置付けることができる概念であり、極めて妥当性の高いものだと言えよう。ここからは、成人期以降の精神的な安定に繋がる概念を見ていくことにする。
 「キズナマン」は、端的に言えば、他者をはじめとして社会や地域と繋がりのある人間を指す。ここで問題になっているのは物理的な距離ではなく、あくまでも心理的に繋がりを感じられるか、ということだ。著者はこれを糸にたとえ、「この糸は鋼鉄管のように太くて硬い糸から絹のように細い糸まで強度は様々[78]」と述べ、家族などの血縁的な紐帯が丈夫な糸になる可能性が高いものの、友人や恋人などあらゆる他者と糸で繋がれ得るとしている。
 たとえば、上京して遠く離れていても実家の親を悲しませるようなことはできないと思うのであれば、それは実家の親と糸で繋がっているということであり、友人や先生を裏切ることはできないと感じるのも、友人や先生と糸で繋がっているということである。また、この糸は物理的な距離によるものではないため、両親、きょうだい、親戚が一切おらずたった一人(一匹)の家族であったペットを亡くしたとしても、天国にいる愛犬が心配しないように生きようなどと思うことができるのであれば、それは天国にいる愛犬と糸と繋がっていると解釈できる。
 すなわち、「社会的存在」は自動的に「キズナマン」になる。

この世は凄まじい風が吹き荒ぶ空間です。人間は風に飛ばされては生きられません。しかし大半の人は糸でつながっているので風が吹いても飛ばされることはありません。もし瞬間的に糸が切れてしまっても「安心」を持っていれば簡単には飛ばされません。「安心」は人間の魂を重くする効果があります。重量物は風が吹いても飛ばされません。[79]

 そうした「キズナマン」の対義語が「浮遊霊」であり、浮遊と表現されているように、社会や地域と繋がりがなく糸の切れた凧のように漂っている存在である。とはいえ、基本的に漂っているだけの「浮遊霊」は無害な存在だ。
 それに、人間は風をやり過ごす薬を服用している。薬は、オタク化とネトウヨ化の二種類あるという。どちらも一般に想定される狭義のオタクおよびネトウヨではなく、広くゆるいものなのだが、前者は酒やタバコ、ギャンブルや性的行為も含み趣味に没頭するということであり、後者は政治的価値観によるもののみならず、SNSにいたずらで不適切な写真をあげた人物を炎上させるなど、他人を叩くことに腐心するということであるが、整理すると以下のようになる。

・客観的には搾取されているが、主観的には幸福な人間=オタク
・客観的には搾取されていて不満も持っているが、その不満をシステム以外の場所にぶつける人間=ネトウヨ
・客観的に搾取されていて不満も持っているが、ただひたすら自分を責める人間=「努力教信者」、即ち潜在的な自殺志願者[80]

 説明し難い不満を抱えていることの多い「埒外の民」には、これらの薬が効くという。ただし、一時的な捌け口を得ることができたとしても、抱えた不満への根本的解決にはなっていないため、いつか薬が効かなくなる可能性もある。その一方で、常に虚しさを抱えている「生ける屍」には、薬の効果は出ないことがある。虐待レベルで娯楽を禁ずるタイプの親などを内面化している場合は顕著だ。
 そして、「浮遊霊」の大半は引きこもりや自殺といった方法で社会からの退場を選ぶため、「浮遊霊」だということだけで犯罪に繋がることはない。しかし、この時点で不発弾のような状態と化した「埒外の民」だと、「浮遊霊」が「生霊」となってしまう可能性があるのだ。「生霊」は「浮遊霊」が悪性化した存在で、著者自身、事件直前には「生霊」化していたという。秋葉原無差別殺傷事件の被告の著書も読み解きつつ「生霊」になるのは「脳内のスイッチとでも表現するしかない[81]」と言うが、著者曰く、秋葉原の事件もおそらくそうであるように、実際に何がきっかけになるのかは当人にもそのときまでわからないとのことである。
 ちなみに、「無敵の人」は「浮遊霊」と重なるところが多いが必ずしもイコールではなく、問題はむしろ「無敵の人」のなかに「埒外の民」がいることにある。たしかに「無敵の人」は罪を犯すことに心理的抵抗はないかもしれないが、「罪を犯すことに心理的抵抗のないことと実際に実行することには大きな隔たり」があるからだ。
 では、われわれはどうすべきなのか。「無敵の人」が「生霊」と化すか否かが運によるものだからといって傍観しかできないわけではない。それは、「無敵の人」が抱えることになった認知の歪み、対人恐怖や社会への恐怖を取り除き、個々人の「原因を究明して本人に納得させ、自己物語を肯定的なものに再編集させ[82]」、生き直しの機会を図らせることだ。しかし、

現在の日本社会は手間と費用と思いやりが必要なこのような方法を「無敵の人」の生き直しに施すことを許容しません。普通の人たちが普通に議論するといつも必ず「厳罰化と防犯体制の強化」という結論に至ります。[83]

失うものがなくて犯罪を犯しているタイプの人々は実刑判決を受けて刑務所で生活するほうが快適であるという場合も少なくないし、死刑を恐れるどころか進んで死刑になりたいというような人々に対して厳罰化を叫ぶというのはいかにも滑稽なことである。また、新幹線殺傷事件という社会へのインパクトの大きい事件があったのちでも新幹線の利便性を維持するには保安検査は困難だと判断せざるを得ない現状において、役に立つだけの防犯対策ができるのかは些か疑問だ。
 ひとを殺しておいて、あるいは何らかの犯罪を犯しておいて反省も謝罪もしないような人物は非難されるべきという感覚は真っ当であるし、遺族や被害者の感情を第一に配慮すべきであり加害者の理論は検討される価値を持たないという考えも結構であるが、こうしたことについては、プリーモ・レーヴィの言葉を借りるのであれば、「しばしば見られることだが、現実主義者は理論家よりも、客観的にはより良い存在になるという例[84]」ということになるのだろう。ただし、本稿においては踏み込まないものの、これまでのような議論とはべつに、遺族や被害者の救済制度の充実を図るべきだという主張には同意だということを明確に示しておきたい。
 それから、死刑にせよと言うのは簡単だが、これまで論じてきたような「無敵の人」の場合には、簡単に死刑になると思えば復讐を兼ねた間接的自殺の手段として選ばれる可能性も高くなるだろう。自殺したいならばひとりで勝手にすればいいと思うひともいるかもしれないが、「自殺未遂」という言葉はあっても「死刑未遂」という言葉はないように確実かつ苦痛が少ない方法が、社会への復讐込みでできるのに、むしろ選ばない理由があるのだろうか。
 理不尽なことだが、このように、事件が起きないようにする責任は犯人側ではなくこちら側にある。われわれは問われている。これはわれわれの社会の問題であり、どこかの「異常者」の問題ではない。
 黒子のバスケ脅迫事件は「人生で正常かつ適正な欲望を持つことすらできなかった人間が最後に目に入った相手に不幸や損害をばらまくだけの行動に出る[85]」という「欲望欠如型犯罪」だったと著者自身が表現しているが、まさに、このタイプの犯罪を犯す人々を責め立てたとしても、反省することにはならないだろう。

自分は小1の時にいじめられてから約30年間にわたって檻に監禁されていたようなものでした。大暴れして何とか脱出に成功して最近やっと自由の身になれました。ところが外に出た自分に誰も同情してくれず、自分をいたわってもねぎらってもくれません。それどころか脱出時に暴れたことだけを問題として取り上げられ、誰もが自分を非難し、自分に謝罪を要求して来ます。これが現在の率直な心象風景です。
自分は、
「確かに自分は暴れたよ。だけどその前に自分の30年の苦しみはどうなるんだよ。自分が普通の人と同じように自由の身でいたのに暴れたってのなら、それは自分が全面的に悪いよ。せめて自分を30年も監禁した奴らを批判してから自分のことを責めてくれよ」
と言い返したいのです。[86]

このような認識においては、表面的には何も関係もないように見える他者を傷付ける犯罪のように理不尽な行為をする前に、そもそも社会が理不尽な存在であるという前提のもと、社会は理不尽であってもいいのに自分は理不尽なことをしてはならないと言われてもそれこそ理不尽だ、となるが、社会の無責任さを棚に上げて非難したところで聞く耳を持たれないのは当然のことであろう。
 それだけではない。自殺はいいけど他殺は困るという態度が百害あって一利なしであることはさまざまなところで言われている。マリサ・ランダッツォの発言として、スー・クレボルドは以下のようなメモをとっている。

「自殺をする人間と殺人をする人間の間には、しばしばはっきりとした境界線があります。自殺をする人のほとんどは殺人をしませんが、殺人をする者の多くには、自殺傾向が原因にあるのです。」[87]

アメリカなどの銃撃犯を調べてみても、明確に自殺願望があったかどうかはともかくとして、犯行後に逃げることができた銃乱射犯は1%しかおらず、こうした類の生き延びる可能性の極めて低い犯行を計画すること自体が「生命に無頓着」な状態を示していると言える[88]。
 と、このような議論を延々としていると、殺人事件が頻発しているような気分になってしまうかもしれないが、じつを言うと、日本における殺人事件の認知件数は減少傾向にあり、そのうちおよそ半数は家族など身内の犯行によるもので、新しく刑務所に入ってくる殺人犯はその年の受刑者全体の1%程度だという[89]。それを少ないと考えるか、それとも多いと考えるかはべつとして、秋葉原無差別殺傷事件や新幹線殺傷事件のようなタイプの犯罪は深刻な被害を引き起こすために見過ごすことができないというだけで──そのような意味では、死傷者がでなかった黒子のバスケ脅迫事件は稀有なものなのかもしれない──、殺人事件そのものが増加しているという事実はない。
 しかしながら、これまで論じてきた社会に居場所がない人々やその帰結との関連で、「刑務所の福祉施設化」という一見奇妙な現象について簡潔に述べておきたい。
 さて。じつは、前節の最後で引用した言葉には続きがある。

現在の日本社会で最大の福祉施設は刑務所です。刑務所を終の棲家としている障害者やホームレスの老人は多いです。娑婆で福祉につながれず最後のセーフティネットとしての刑務所とつながっているのです。現に自分が勾留されている拘置所の独居房は、自分が今まで暮らした部屋の中では最も設備は上等です。[90]

具体的な数字を見よう。受刑者数が七万人超だった二〇〇六年に三十二億円だった刑務所の医療費は、受刑者数が五万人を切った二〇一六年には六十億円になったうえに刑務作業によって得られる収入は減り続けており、これは、受刑者の総数は減っているものの「お金になる作業ができない、障害者や病気の受刑者が増えた[91]」ことを示している。
 とはいえ、発達障害について述べたところで明らかにした構造と同じで、病気や障害があるから犯罪を犯しやすいということではない。たとえば、知的障害者では、被害額の小さくすぐに露見してしまうようなやり方での窃盗罪が多くみられるというが、飢えをしのぐための万引きや無銭飲食であり、障害のために仕事に就くことができないといった理由で困窮状態にあることが少なくない[92]。それ故、仮釈放が決まっても身元引受人がおらず出所できなかったり、刑期満了で出所が決まっても住むところがないということがある。これは、障害のある子どもの身のまわりの世話をするためは人手が必要で、その役割を果たす親は仕事に専念することができず、結果的に貧しい家庭で育った障害のある受刑者が多いということにも由来する。出所後の面倒をみることができるほどの余裕のない家庭は少なくない。
 そのような背景により、たとえば知的障害のある受刑者では再犯率が高く、平均で三.八回の服役を経験しており、六十五歳以上に限れば五回以上がおよそ70%にもなるという[93]。また、約半数の再犯者は出所後一年未満に次の事件を起こしている。
 それ以外にも、反社会勢力に騙されて詐欺の受け子をやらされていたり、自らの置かれた状況がうまく説明できないために事実とは異なる刑罰が重くなるような供述調書になってしまっていたり、裁判で反省したような態度を示すことが難しく執行猶予が付かなかったり、さまざまなかたちで障害のあるひとに不利な現実がある。
 ほんの小さな、少なくとも仰々しい罪名がつくことに違和感を覚えるようなこと──たとえば、被害額が「三十円」のとき──でも、犯罪さえ犯せば寝床にも食事にも困らない。こういう言い方をすると、犯罪者に使うべき予算は減らすべきだというひとが出てくるかもしれないが、福祉が機能不全を起こした結果生まれた存在に、社会復帰への支援を含め、適切な対応を取ろうとしないことこそ予算を引き上げているという事実を無視するわけにはいくまい。
 ここでは、加害者となってしまったひとがなぜ加害者となったのか、社会の構造との関係を論じてきた。繰り返しになるが、これは無関係な他人の話ではなく、われわれの住む社会の話である。われわれが引き受けなければ誰も引き受けないことになるこの問題を、放置していい理由がどこにあるのだろう。

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[54]「動機解明へ捜査続く=容疑者「また事件起こす」-新幹線3人殺傷から1週間」時事ドットコム<https://www.jiji.com/jc/article?k=2018061500981&g=soc>(記事掲載日2018/06/15)。
[55]前掲書、『生ける屍の結末』、二七七頁。
[56]漫画『黒子のバスケ』の作者である藤巻忠俊や二次創作を含めた作品関係先を標的とした脅迫事件。威力業務妨害で逮捕、起訴され、懲役四年六ヶ月の実刑判決となった。
[57]現在は「5ちゃんねる」に改称。
[58]「『脱落者は自棄起こしても不思議ない』『死刑にしても意味ない』新幹線殺傷事件でひろゆき提唱『無敵の人』がクローズアップされる」、ガジェット通信<http://getnews.jp/archives/2052521>(記事掲載日2018/06/12)。
[59]前掲書、『生ける屍の結末』、一七一頁。
[60]同上、二四〇頁。
[61]同上、二八六頁。
[62]同上、二四三頁。
[63]戸田まり『グラフィック性格心理学』、サイエンス社、九四頁。
[64]同上、九六頁。
[65]同上、一〇〇〜二頁。
[66]前掲書、『生ける屍の結末』、二四四頁。
[67]同上、二四六頁。
[68]同上、二四六〜七頁。
[69]同上、二四七頁。
[70]同上、四二九頁。
[71]シーナ・アイエンガー『選択の科学』、文春文庫、二九頁。
[72]同上、二七〜八頁。
[73]ポケモンセンターと呼ばれる施設に勤務し、ポケモンの体力を回復してくれる女性の名称。アニメ版での名前のようだが、一般にジョーイさんと言えばこの女性のことを指す。ナース服だが、女医さん。各ポケモンセンターに一人ずついるため複数存在するが、プレイヤーの感覚的には職業名というより固有名詞。
[74]Nintendo3DS用ゲームソフト、「ポケットモンスター サン」、「ポケットモンスター ムーン」の略称。
[75]Nintendo3DS用ゲームソフト、「ポケットモンスター ウルトラサン」、「ポケットモンスター ウルトラムーン」の略称。「ポケットモンスター サン」、「ポケットモンスター ムーン」の新バージョン。
[76]「無理ゲー(むりげー)」とは、「その苛酷な条件、設定の為クリアが非常に困難なゲームに対して言われる言葉」であり、「稀に、ゲーム以外でも同じ意味で使用される場合がある」。「無理ゲー」『ニコニコ大百科』<http://dic.nicovideo.jp/id/544363>(最終更新日2017/05/18)。
[77]渡邊博史『生ける屍の結末』、二五一頁。
[78]同上、二六〇頁。
[79]同上、二六一頁。
[80]同上、二九五頁。
[81]同上、二六八頁。
[82]同上、二八七頁。
[83]同上、二八八頁。
[84]プリーモ・レーヴィ『溺れるものと救われるもの』、朝日新聞出版、六六頁。
[85]渡邊博史『生ける屍の結末』、二九〇頁。
[86]同上、二七八頁。
[87]前掲書、『息子が殺人犯になった』、二三五頁。
[88]同上、二三六頁。
[89]前掲書、『刑務所しか居場所がない人たち』、二〇〜一頁。
[90]前掲書、『生ける屍の結末』、二八三頁。
[91]前掲書、『刑務所しか居場所がない人たち』、四三頁。
[92]同上、一八〜九頁。
[93]同上、二八頁。

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