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JOG(618) 武家の娘(上) ~ 千年の老樹の根から若桜

 武家という「千年の老樹」に生まれ育った娘は、若桜として異国の地に花を咲かせようとしていた。


■1.「どうして日本の着物を着て来たのですか」■

 1898(明治31)年、アメリカ東部のある町。大陸横断鉄道の列車が停まると、長袖の着物姿のうら若い日本人の娘が降り立った。プラットフォームの人混みの中では、一人の日本人青年が汽車から降りてくる乗客を熱心に見守っていた。お互いにすぐに相手に気がついた。青年の第一声は「どうして日本の着物を着て来たのですか」と不満そうな言葉だった。

 娘の名は稲垣鉞子(えつこ)、25歳。鉞子は明治5(1872)年、越後の長岡藩の城代家老を代々努めてきた稲垣家の6女として生まれ、アメリカで貿易商を営む杉本松雄と結婚するためにアメリカにやってきたのだった。

 鉞子が日本を発つとき、何を着ていくかが問題となり、親族会議まで開かれた。兄は洋服で行くことを主張し、東京の叔父も賛成したが、祖母は物静かに、しかし威厳をこめて言った。

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 絵で見ると、あの筒っぽ袖は品が悪くて、まるで人足の着る半被(はっぴ)のようですがの、私の孫が人足を真似るまでになる時節が来たかと思えば、情けないことですわい。[1,p181]
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 この席では一番偉い祖母の意見が通り、結局、洋服は米国へ行ってから夫の意のままにすることとして、花嫁の方では和服のみを用意することとしたのである。

 松雄は世話になっているウィルソン夫妻の手前を思って、着物に関して不満を言ったのだが、鉞子を連れて行くと、夫妻は真心を込めて温かく出迎えてくれたのだった。

■2.「お嬢様、そんな気持ちでは勉強はできません」■

 鉞子の育った稲垣家は家老職の家柄だけあって、明治維新後とは言え、鉞子は幼い頃から厳格な躾をうけた。

 数えで6歳、満で言えば4、5歳の頃から、家の菩提寺の僧が、3と7の日に家にやってきて、鉞子に四書、すなわち大学、中庸、論語、孟子を教えるようになった。

 広い明るい、埃一つなく掃き清められた部屋に文机が置かれ、お師匠様は優しい顔でそこに座って、2時間ほどは手と唇以外は、身動き一つせずに講義をした。

 数えわずか6歳の幼女が論語など分かるはずもなかったが、鉞子が時に何かを質問しても、お師匠様は「まだまだ幼いのですから、この書の深い意味を理解しようとなさるのは分を越えます」「よく考えていれば、自然に言葉がほぐれて意味が判ってまいります」と答えるのみだった。

 鉞子は何も理解できなかったが、音楽のような韻律のある言葉をあれこれと暗唱していった。後に成長するにつれて、よく憶えている句がふと心に浮かび、雲間から漏れた日の光の閃きのように、その意味が理解できることがあった。

 お師匠様と相対している間、鉞子は畳の上に正座したまま、微動だにも許されなかった。ただ一度、ほんの少し体を傾けて、曲げていた膝をちょっとゆるめたことがあった。

 すると、お師匠様の顔にかすかな驚きの表情が浮かび、やがて静かに本を閉じて、やさしく「お嬢様、そんな気持ちでは勉強はできません。お部屋にひきとって、お考えになられた方がよいと存じます」と言われた。

 恥ずかしさの余り、鉞子の小さな胸はつぶれんばかりだったが、どうしたものやら判らないまま、お師匠様にお辞儀をして、部屋を退出した。成人してからも、鉞子はこの時のことを思い出すと、古傷の痛みのように、心を刺される思いがした。

■3.極寒の朝の習字稽古■

 勉強している間は体を楽にしないということは僧侶の習わしであったので、それに従って寒三十日(1月5日頃の小寒から2月4日頃の立春まで)の間は、難しいことを、時間も長く勉強させられた。特に最も寒さの厳しい9日目の「寒九」の日のことは忘れられない。

 この寒九の日、東雲に暁の光がさし始めると、乳母のいしが鉞子を起こした。肌を刺すようなきびしい寒さだった。この日は習字の稽古をすることになっていた。硯(すずり)、筆、墨などの道具を揃える。学問は非常に貴いこととされていたので、用いる道具も、一つひとつ丁寧に絹の布で拭いてあった。

 用意ができると、いしに背負われて、庭に出て、庭木の枝から雪をとり、これを硯に入れる。庭は降ったばかりの真白い雪に一面覆われていた。時折、雪の重みに耐えかねた竹が、鋭い音を立てて折れると、灰色の空にぱっと粉雪が舞い上がるのだった。

 居心地をよくしては天来の力を心に受けることができないということで、火の気のない部屋で習字をした。精妙な筆のあやには、心の乱れや不注意は覆うべくもなく現れるので、一点、一画にも心をこめて筆を運ばなければならない。それを辛抱強く続けることによって、子供は自制心を身に付けていく。

 長い時間習字をしていると、すっかり指が凍えて、手が紫色になった。いしがそれを見てすすり泣きをしているので、鉞子は初めてその事に気がつくのだった。

 稽古が終わると、いしは温めてあった綿入れの着物に鉞子をくるんで、急いで祖母の部屋に連れて行った。祖母は温かくおいしい甘酒を用意しており、鉞子は冷え切った膝を炬燵(こたつ)に入れて、その甘酒をいただいた。

■4.ご先祖様をお迎えする悦び■

 正月やお盆などの年中行事も厳格なしきたりに従ってとりおこなわれたが、その中には家族との楽しい一時があった。

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 盂蘭盆はご精霊さまをお祀りする日で、数々の年中行事の中で、一番親しみ深いものでありました。ご先祖さまはいつも家族のことをお忘れにならないものと思い、年毎にみ魂をお迎えしては親しみを新たに感じさせられるのでありました。[1,p95]
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 ご精霊さまをお迎えする準備は、万事万端しきたりに従って、数日前から家中のものがたち働いた。爺やと下男は庭木に鋏(はさみ)を入れ、床下まで掃き清め、庭石を洗う。女中たちは柱や天井板までお湯で雑巾がけをする。母がお納戸から父の秘蔵の軸を出して、床の間にかけると、女中がその前に花瓶を据えて秋の七草を挿した。

 鉞子は祖母と一緒に、お仏壇の前に座り、飾り付けをする。ナスとキュウリで作った牛と馬をお供えした。

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 どこの子供も同じことで、私もご先祖様をお迎えするのは何となく心うれしく感じておりましたが、父が亡くなりました後は、身にしみて感慨も深く、家族一同仏前に集いますと、心もときめくのを覚えるのでありました。誰も彼も、召使達も質素ながら新調の着物を着ていました。黄昏の色がこくなりますと、みあかしをともし、障子をひらき入口の戸をあけひろげて、外からお仏壇への途をあけました。
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 それから大門の前に一同、打ち揃って、二列に並び、ご精霊様を待つ。ご精霊様は何処とも知れぬ暗黒の死の国から、白馬に乗ってやってくるものと、言い伝えられていた。

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 街中が暗く静まりかえり、門毎に焚く迎え火ばかり、小さくあかあかと燃えておりました。低く頭をたれていますと、まちわびていた父の魂が身に迫るのを覚え、遙か彼方から蹄(ひづめ)の音がきこえて、白馬が近づいてくるのが判るようでございました。[1,p99]
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■5.父は私共に平和をのこして行って下さった■

 それからご精霊様との楽しい2日間を過ごす。

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 家の中は心楽しい空気に満たされ、わがままな業をする者もなく、笑いさえ嬉しげでした。それも、皆が新調の着物を着、お互いに作法正しく、お精進料理を頂いて楽しみあうことをご先祖様も喜んでいて下さると思うからでございます。祖母のお顔はいろいろ穏やかに母の面は静かなやすらいに満たされ、召使いまでが笑いさざめき、私の心の中にも、静かな悦びが湧きあふれるのでございました。[1,p101]
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 16日の朝まだき、ご先祖様を送り出す。母は蓆(むしろ)を二つに折り、両端を蔓(つる)で結んで舟を作った。それにおにぎりや団子を入れ、皆で川に赴く。川岸には、み送り舟を流そうとする人々がたくさんつめかけていた。鉞子らは橋の上にいて、爺や一人が水辺に降りて、火打ち石で灯籠に火を灯し、舟を流れに浮かべる。朝日の光が山の端から差し出ると、人々は一斉にみ送り舟を放した。

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 あたりの明らむにつれ、浮きつ沈みつ、小さな蓆舟が流れ流れていく様を、はっきりとみとることが出来ました。朝日がいよいよ光をまし、山の端をのぼりきる頃、川辺に頭をたれた人々の口からは静かに深い呟きがおこるのでございます。「さようなら、お精霊さま、また来年も御出なさいませ。お待ち申しております。」
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 こうして人々は家路につく。

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 母も私も、浄福とでも名付けがたい、穏(おだや)かさを胸に湛えて、川辺を立ち去りました。・・・お盆を迎えて以来、にこやかにみえた母の面には、父を見送った後も、以前のような憂わしげな色は戻っては参りませんでした。それをみるにつけましても、父は、私共のところへ参って慰め、また舟出をされた今も、私共に平和をのこして行って下さったのだと、しみじみ感ぜさせられたことでした。[1,p102]
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■6.「お前の嫁入り先が定まりました」■

 鉞子の家にアメリカからしきりに便りが届くようになった。アメリカで商売をしている兄の友人からである。そのうちに叔父たちも集まって、親族会議が開かれた。

 長い会議の間、鉞子は手習いに夢中になっていたが、ふいに皆が揃っている座敷に呼ばれた。母がやさしく「鉞子や、神仏のお守りあって、お前の嫁入り先が定まりました。兄上はじめ皆々さまのお計らい故、よくよくお礼を申し上げなさい」と言われた。

 鉞子は額を畳につくほど丁寧にお辞儀をして、また部屋に戻り、手習いを続けた。鉞子はまだ13歳だったが、当時の女子の常で、ごく幼い頃から自分もいつかは必ずお嫁にいくものと思っていたので、さほど驚きもしなかった。また婚姻は個人の問題ではなく、家全体が関わることと思っていたので、相手が誰か、聞いてみようともしなかった。

 相手はアメリカにいる兄の友人・杉本松雄で、数ヶ月後、その叔父が京都からやってきて、結納を済ませた。その日から妻として躾が始まった。それまでも料理や裁縫、家事、作法などは多少は仕込まれていたが、夫の家に入った妻として、それらを本格的に習い覚えた。

 祝日や松雄の誕生日には、まだ見ぬ夫のために陰膳を据えるのも鉞子のつとめだった。兄から聞いた松雄の好物を、自ら作り、陰膳にお給仕をした。

■7.「女も男も、武士の生涯には何の変わりもありますまい」■

 ある日、媒酌人を通じて、松雄が米国で西部から東部に移って、独力で商売を始めることにしたので、数年は日本に帰れないから、鉞子に渡米するようにと言ってきた。武家として遠国に嫁を出すいうこともよく行われていたので、鉞子が海を渡ってアメリカに行くことは大した問題とは思われなかった。

 祖母は、ある夜、鉞子と炬燵に入って、こんな話をしてくれた。ちょうど60年前のその晩、祖母は14歳にして稲垣家に嫁入りするために、生家を出発したという。それは京都よりも遠い国で、この越後の長岡に辿り着くのに1月もかかった。

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 こちらへ来てみると、お国とはすっかり違い、習慣も言葉も奇妙に思われ、まるで異国にいるような心持でしたがの、それでの祖母(ばば)はこの頃異国へゆくお前のことが気になってなりませんがの。これ、エツ坊や。
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 そして、やさしい声でこう結んだ。

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 住むところは何処であろうとも、女も男も、武士の生涯には何の変わりもありますまい。御主に対する忠義と御主を守る勇気だけです。祖母のこの言葉を思い出して下され。旦那さまには忠実に、旦那さまのためには、何ものをも恐れない勇気、これだけで。さすればお前はいつでも幸福(しあわせ)になれましょうぞ。[1,p119]
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■8.「千年の老樹の根から若桜」■

 米国へ行く準備として、鉞子は東京の学校で英語を習うことになった。父の旧友の家に寄宿し、ある宣教師の経営する学校に通い、英語や国語、歴史、聖書などを一心に学んだ。ことに旧約聖書は一番好きで、その中に出てくる英雄の生き方は日本の古武士と同じように思われた。

 学校の校門をでると田畑が広がっており、天気の良い日には先生に連れられて田舎道へ散歩に出かけた。八幡宮の苔むした玉垣のところで、先生は立ち停まって、葉のよく茂った桜の若木を指し示した。その若木は老い朽ちた大木の洞(ほら)から生え出ていた。その傍らの立て札には「千年の老樹の根から若桜」という句が書かれていた。先生は微笑みながら言った。

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 この桜の木はちょうどあなた方のようなものですね。古い日本の立派な文明は今の若いあなた方に力を与えているのです。ですから、あなた方は勢いよく大きくなって、昔の日本が持っていたよりも、もっと大きい力と美しさを、今の日本にお返ししなければなりません。これを忘れないようになさいね。[1,p172]
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 鉞子は武家という「千年の老樹」の根から生え育った若桜として、異国の地に移り、そこで根を張り花を咲かせようとしていた。 (文責:伊勢雅臣)

■リンク■

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■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)

1. 杉本鉞子『武士の娘』★★、ちくま文庫、H6
2. 櫻井よしこ『明治人の姿』★★★、小学館101新書、H21

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