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JOG(672) 百人斬り裁判(上)~ 遺族の苦しみ

父がなぜ、虚報を教え込まれた小学生に「日本の恥」と言われなくてはならないのか。


■1.「百人斬りの虚報を正す 向井少尉の次女 向井千恵子」

 穏やかな顔の老婦人が近づいてきて、稲田朋美弁護士に差し出した名刺には、こうあった。

「百人斬りの虚報を正す 向井少尉の次女 向井千恵子」

「百人斬り」とは、昭和16(1941)年、南京を目指す日本陸軍で、向井敏明少尉と野田毅少尉が、どちらが先に中国兵を100人斬るかで競争した、という東京日日新聞(毎日新聞の前身)の戦意昂揚記事を、戦後、朝日新聞の本多勝一記者が、一般市民を対象にした殺人ゲームに書き換えて報じた事件である。

 この事件については、弊紙28号{a]で紹介したが、

・日本刀は三人も斬れば刀身は折れ曲がり、刃こぼれしてしまう。100人も斬るなど物理的に不可能。
・向井少尉は砲車小隊長、野田少尉は大隊副官であり、勝手に持ち場を離れて100人も斬るなど、ありえない。

 などの強力な反証が挙がっている。また記事を書いた浅見記者は、話を聞いて書いただけで現場を目撃したわけではないと証言しており、さらに両少尉の写真を撮った佐藤振濤カメラマンは「100パーセント信じていない」と断言している。

 こんな虚報が両少尉を戦犯裁判で死刑に追いやり、また遺族のその後の人生を大きく狂わせたのである。

■2.「たった一人で、父の無実を晴らすために闘っている」

 名刺を差し出した向井さんを目の前にして、稲田さんはこう思った。[1,p27]

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 苦労をしただろうに、悲しい思いをしているだろうに、この人はこんなに穏やかな顔をして、たった一人で、たった一枚の名刺をもって、父の無実を晴らすために闘っている。

 胸の動機を押さえながら、「鈴木明さんの『「南京大虐殺」のまぼろし』を読みました。この問題はもっと国民にアピールしなければならないと思います」というと向井さんは「よろしくお願いします」と頭を下げた。

 とはいえ、このときはどうしたら彼女の力になれるのかわからず、ただただ、たった一人で闘っている向井さんの姿に感動した。そして向井さん一人の闘いにしてはならないと思った。彼女の不幸を見て見ぬふりをすることは日本人として許されないと思ったからだ。
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 これが稲田弁護士の虚報との闘いの出発点であった。向井さんら遺族は、稲田弁護士などの協力を得て、本多勝一記者と出版社である朝日新聞、柏書房を被告として、彼らの広めた虚報が両少尉の名誉を毀損し、遺族らの人権を侵害しているとして、総額3600万円の損害賠償の支払いと「百人斬り競争」を記述している部分の出版差し止め、そして謝罪広告を求める裁判を起こした。

 裁判の経過では、まず「百人斬り」の虚報により、両少尉の遺族がどのような苦しみを味わったのか、が明らかにされた。

■3.夫に「人殺しの娘」と呼ばれた

 向井少尉は復員して、一年足らずの昭和22(1947)年、米軍憲兵に連行され、南京の戦犯裁判所でたった一日の審理で死刑宣告され、刑場の露と消えた。その後の向井千恵子さんは、自分の受けた苦しみを、裁判の中で次のように陳述した。

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 法廷で、向井さんは自分の生い立ちから話し始めた。向井さんのお母さんも戦後亡くなり、祖母と二人暮らしとなった。生活保護を受けるほど生活は苦しかった。小さい頃「あの子、向井という戦犯の子よ」と言われ、「戦犯って何?」と祖母に聞いて困らせた。

 祖母は、いつも向井さんに「浅見という記者が書いた記事で千恵子のお父さんは、死刑になった。作り話だったのに」と悔やんでいたので、中学三年生の頃、向井さんは想いきって、浅見記者に手紙を書いた。「どういう気持ちであんな記事を書いたのか」と「なぜ嘘を書いたのか」と。浅見記者からは返事はこなかった。
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 そんな向井千恵子さんにさらに追い打ちをかけたのが、本多勝一記者だった。[1,p65]

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 昭和46年、朝日新聞で「中国の旅」が連載された。千恵子さんは「戦犯の子」といわれながら、貧しかったがまじめに努力して公務員となり、幸せな家庭を築いていた。夫には結婚前に父が戦犯で処刑されたという話はしていたが、詳しいことは話していなかった。

 向井さんは朝日新聞をとっていなかったので、記事自体は読んでいなかった。ある日職場の同僚から「見たよ、あれあんたのお父さんのことだろう」と言われ、朝日新聞の記事を取り寄せて「競う二人の少尉」という記事を読んだ。最近夫の様子がおかしい理由が分かった。

 その後単行本『中国の旅』が出版され、名前が本名で記載された。家にかえるとテーブルの上に『中国の旅』が置かれている。毎晩口論になり、次第に夫婦仲はうまくいかなくなった。

 夫は、「戦争だって何だって人を殺すのは絶対に悪い」といい、やがて会ったこともない向井さんの両親の悪口をいうようになり、向井さんを「人殺しの娘」とまでいうようになった。向井さんは子供と家を出た。
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 両親を亡くしても懸命に生きてきた向井千恵子さんの家庭を、一つの虚報が破壊してしまったのである。

■4.「千恵子をかわいがって、良い子で待っていなさい」

 向井千恵子さんの姉が、エミコ・クーパーさんだ。アメリカの軍人と結婚して、アメリカで暮らしていた。エミコさんも来日して、裁判で次のような陳述を行っている。[1,p114]

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 戦後一ヶ月も経たない1945年9月10日に私(当時9歳)と4歳の妹千恵子は母を失いました。その後2年半で父を36歳の若さで失いました。私たち姉妹は孤児となり、人生、世の中の荒海に放り出されました。
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 世の中の荒海にあって、常にエミコさんの心を支えてくれたものの第一は、亡き父母たちが残してくれた言葉だったという。

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 父の言葉は、5年生だった私に「何も悪いことはしていないからすぐに戻れるだろう。心配するな。おばあちゃんの手助けをして、千恵子をかわいがって、良い子で待っていなさい」。そういって二人の私服の刑事さんたちと汽車で東京に向かった。それが私が最後に生きている姿、顔を目にしたときのことでした。
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 この2年後に、エミコさんは父の死刑判決を新聞で知った。

■5.父がなぜに死後もムチ打たれ続けなくてはならないのか

 その後、エミコさんは長じて米軍の軍人と結婚し、アメリカで暮らしていた。昭和47(1972)年、夫の部隊が神奈川県座間の米軍基地に駐屯となり、最低3年間は日本で暮らせるということで、エミコさんは喜んで母国に向かった。

 ところが日本で待っていたのは、本多勝一記者による朝日新聞の「百人斬り」の連載だった。あまりの悲しみと怒り、悔しさで押しつぶされそうになったという。そのときの衝撃をエミコさんは「寝ているところをバットでぶん殴られた・・・」と表現した。

 エミコさんは、父がなぜに見も知らぬ本多に死後もムチ打たれ続けなくてはならないのか、そして間違ったことを教え信じ込まされた小学生に「バカヤロー」と書かれ「日本の恥」と言われなくてはならないのか、父は無念で死んでも死にきれないはずだという。

 楽しみにしていた3年の母国滞在は悪夢に変わり、エミコさんは1年でアメリカに戻った。その後20年間エミコさんは日本の土を踏まなかった。

 しかし「悪夢」はアメリカまで追ってきた。1997(平成9)年、アイリス・チャンの『ザ・レイプ・オブ・ナンキン』が出版された時のことである。

 エミコさんはいつものようにABCテレビの「グッド・モーニング・アメリカ」をつけた。すると突然、テレビ画面いっぱいに「百人斬り」の記事に囲まれた父と野田氏の写真が出てきて、驚きとショックで危うくひっくりかえりそうになったという。

 アイリス・チャンの本は、出版当時、弊誌でも紹介したように[b,c]、素人でも分かる誤りが多く、日米の専門家から批判されていた。その後、2004(平成16)年に、ピストル自殺を遂げている。

■6.「中国と日本の架け橋になればよいと思って死んでいったのに」

 野田少尉の妹・野田マサさんも、遺族として味わってきた苦しみを裁判で語った。

 マサさんは鹿児島県の田代町という人口3千人の小さな町(現・錦江町)で、野田少尉の実家を継いでいる。陸軍士官学校に進んだ野田少尉は田代町の誇りだった。戦後一転して戦犯として処刑されたことは、敗戦国の悲哀であり、気の毒な存在だと思われていた。

 しかし、本多勝一記者が「百人斬り」を殺人ゲームとして報道してから、様子が変わった。鹿児島市で南京大虐殺の展示会が新聞社、テレビ局、教職員組合などの後援で開かれた。マサさんは「みんなでよってたかって兄を殺人犯と決めつけ、南京大虐殺の犯人としている」とショックを受け、胸が締め付けられる思いがした。

 マサさんのお嬢さんが展示を見に行き、主催者に抗議をした。主催者側の答えは「平和教育のためです。個人攻撃ではありません」だった。

 百人斬り裁判でマサさんが泣きながら次のような原稿を読む姿は聴衆の心を打った。[1,p98]

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 優しく、男気があって、人気者だった兄が無実の罪で処刑され、虐殺犯として歴史に残ることが残念です。兄は自分がしたことで中国と日本の架け橋になればよいと思って死んでいったのに、その気持ちが踏みにじられていることが残念でなりません。
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■7.「一方的にあの写真を出されたことはすごく迷惑です」

 向井、野田両少尉が並んで立っている写真をとった佐藤振濤カメラマンは、遺族ではないが、虚報の被害者の一人と言えるだろう。91歳になる佐藤氏は、車椅子に乗って、看護士と息子さんに付き添われて裁判で証言をした。

 佐藤氏のとった両少尉の写真は、穏やかな顔をした二人の将校が、軍刀を杖代わりに立てて、並んで立っているだけの写真である。

 北京の中国人民抗日戦争記念館では、薄暗い館内にこの写真が大きく飾られ、その横には「殺人を競う日本軍将校は試合後軍刀についた血をぬぐっている」とキャプションがあり、その後ろには虐殺され、血を流して折り重なって倒れている母親と子供たちの蝋人形が展示されている。あたかも二人の少尉が親子を虐殺したように演出してあるのだ。

 こんな形で、自分の写真が使われていることに対して、佐藤氏はこう語った。[1,p123]

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 私にも毎日新聞にもあれを出すよというような了承を何もなしに出されて、一方的にあの写真を出されたことはすごく迷惑です。私は、あれ中国通の人に、中共とけんかするつもりだと。何けんかするんだって。

 実はあの二人の写真は、全然おれの許可なしに、あたかも30万人の虐殺の張本人のように扱っているから、これは不本意であるし、しかもそれが原因で銃殺されたということだから、遺族に対しては誠に申し訳ないということで、あの写真が出るたびに私は内心忸怩(じくじ)たるものがありました。
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■8.「少女が憎しみのこもった目で私たち日本人の一団をにらんで」

 佐藤氏の写真は南京大虐殺記念館にも飾られている。稲田さんは、その様子を次のように書いている。[1,p43]

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 南京大虐殺記念館に行った。館内に入ってすぐに、数える事の出来ないほどの白骨がガラス張りの状態で展示してあった。日本軍に虐殺された中国人の骸骨であるというのだ。

 そして最も目立つところに「百人斬り」の二人の少尉の写真が等身大に展示されていた。身なりのよう中国人の母娘が見学にきていた。その少女が憎しみのこもった目で私たち日本人の一団をにらんで、後ろから足蹴にするまねをしていた。私は愛国主義教育という名の反日教育の効果に暗澹たる気持ちになった。
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「百人斬り競争」は江沢民の愛国主義教育の一環として、中国の小学校の国語と社会の教科書で取り上げられ、中国の少年少女の憎しみの対象となっている。

 そして、日本の教育現場でも南京大虐殺の具体例として「百人斬り競争」を教材としている学校がある。

 こうして自国への誇りを奪われた日本の子供たちも、また隣国への無用な憎しみを駆り立てられた中国の子供たちも、被害者であると言える。

 本多記者、朝日新聞などへの告訴という形で、裁判によって「百人斬りの虚報を正す」戦いに、稲田さんは立ち上がった。

(続く、文責:伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(028) 平気でうそをつく人々
 戦前の「百人斬り競争」の虚報が戦後の「殺人ゲーム」として復活した。

b. JOG(060) 南京事件の影に潜む中国の外交戦術
 中国系米人の書いたベストセラー "The Rape of Nanking"は日米同盟への楔。

c. JOG(079) 事実と論理の力
 南京事件をめぐる徹底的な学問的検証、あらわる。

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
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1. 稲田朋美『百人斬り裁判から南京へ』★★★、文春新書、H19

2. 向井千恵子他『汚名 B級戦犯 刑死した父よ、兄よ』★★、WAC、H20

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