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JOG(349) 山田方谷 ~「正直安五郎」の国作り

 藩士藩民に「誠」を発揮させる事が政治の大本だと信じて、方谷は藩政改革に取り組んだ。


■1.「山だしがなんのお役に立つものか」■

__________
山だしがなんのお役に立つものか
へ(子)のたまわくのような元締お勝手に
孔子孟子をひきいれて
なおこのうえにカラ(唐)にするのか
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 嘉永2(1849)年4月、備中松山藩(岡山市の北西30キロほ
どにある現在の高梁[たかはし]市)。新藩主・板倉勝静(かつ
きよ)が農民出身の山田方谷(ほうこく)を元締並びに吟味役
に命じた時に、こんな戯れ歌が作られた。「山田氏」と山奥か
ら出てきた「山だし」をかけて、菜種油売りの農民が多少学問
があるからといって、藩の台所に「孔子孟子」を持ち込んで、
藩の財政をさらに空(唐)にするのか、というのである。

 板倉家は徳川家譜代の名門であり、家来たちも気位が高かっ
た。方谷は菜種油を売っていた農民の出だったが、学問がある
という評判を聞きつけて、先代・勝職(かつつね)が10石ば
かりの武士に取り立てて、世子・勝静の教育掛をさせていた人
物である。いくら藩の財政が窮乏したからといって、新藩主に
なったばかりの勝静が、なみいる重臣たちをさしおいて、方谷
を藩の全権を握る元締に取り立てるとは専横もはなはだしいと、
新藩主にも非難が集中した。

 この思い切った抜擢人事は、勝静にとっても方谷にとっても
も退路のない船出であった。「孔子孟子」の学問で、現実の藩
の財政を立て直せるのか、この戯れ歌は方谷の挑戦すべき難題
を悪意を込めながらも正確に見通していた。

■2.父母の教え■

 方谷は通称を安五郎と言った。文化2(1804)年に生まれ、5
歳にして隣の新見藩で藩政参与まで務めた丸川松隠の学塾に入
れられたが、師から我が子のように可愛がられた。翌年には新
見藩の藩主から「幼年なれどその学問の精進ぶりがめざましい」
と表彰状を貰っている。一国の藩主が他藩の子どもを表彰する
など例のないことであった。

 14歳にして母の梶を亡くす。母親が病気になったと聞いて、
安五郎が学塾から急いで帰郷すると、「おまえはなにをしてい
るのです。早く塾に戻って勉強しなさい。私は大丈夫です。」
とひどく叱って、泣き悲しむ我が子を塾に追い返した。まもな
く母の病気が悪いと聞いて、深夜に馳せ帰ると、母はもう息が
絶えていた。

 翌年、今度は父の五郎吉が死んだ。死ぬ直前に安五郎に残し
た「訓戒十三条」には、「朝は六時に起き、その日の用向きを
それぞれ定め、すんだら自分の修行を怠らないこと」「郷里の
困窮した人や病人は、ねんごろに尋ね交誼を篤くして睦み合う
心がけを忘れないこと」などとある。

 孔孟の教えは、書物を通ぜずとも、日本の草深い山里の家庭
に息づいていたのである。安五郎の学問はこのような家庭や恩
師のもとで生み育てられたものであった。

■3.「正直安五郎」■

 両親を亡くした安五郎は幼い弟などを養うために、塾をやめ
て、家業の菜種油作りを継いだ。まだ17歳であったが、人手
がいるので妻も迎えた。しかし学問への思いはますますつのり、
一日の仕事が終わると、夜遅くまで書物を読みふけった。

 19歳になった頃には「正直安五郎」と呼ばれるようになっ
ていた。油を売るには、升や秤を使って量目を正しくする知恵
と技術が必要だが、安五郎は絶対にごまかさず、また他の商人
がごまかそうとしても、すぐに見破って「そんなことをしちゃ
いけませんよ」と穏やかにたしなめるのだった。

 同時に怠りない学問修行で「安五郎さんはただの油売りでは
ない、学問がある」という評判がたっていた。藩主の勝職が評
判を聞いて呼び出すと、大変な達筆で、質問にも明確に答える。
勝職は喜んで二人扶持を授け、「これより折々は学問所へ出頭
し、なおこのうえもとも修行し、ご用に立つよう申しつける」
と告げた。文政8(1825)年、安五郎21歳であった。身分に関
わらず、学問に打ち込むのは尊いことだという観念が、すでに
当時の社会には広まっていたようだ。

 親戚一同もこの大変な名誉に、「安五郎を家業からはずし、
もっと勉強させてはどうか」と考えて、京都留学を許した。そ
の甲斐あって、文政12(1829)年には、名字帯刀を許され、八
人扶持でいきなり藩校・有終館の会頭(校務主任)に抜擢され
た。

■4.「誠は天の道なり、誠ならんとするは人の道なり」■

 しかし、安五郎はこの地位に甘んぜず、さらに学問を深める
ために京都留学を藩主に願い出た。藩主は快く聞き入れ、27
歳から32歳までの5年間、京都だけでなく江戸にも留学して、
多くの学者と交わった。今も有名な「言志四録」を記した佐藤
一斎から陽明学を学んだ事で、後の藩政改革の根幹になる考え
方を得た。

「誠は天の道なり、誠ならんとするは人の道なり」という「中
庸」の言葉から、人間が天から授かった「誠」を発揮させる事
が政治の目標だと考えたのである。これは「正直安五郎」と呼
ばれた自らの経験からも得心のいく考え方であったろう。

 天保7(1836)年、留学から戻った安五郎は有終館の学頭に任
ぜられ、「これからは学業をもって君恩に報いよう」と決心し
た。天保13(1842)年、勝職が桑名藩主松平定永の八男勝静
(かつきよ)を世子として迎えると、安五郎はその指導を命ぜ
られた。

 安五郎は「誠をもって天の理を実現する藩主に育てたい」と
勝静に講義し、かつ領内をともに巡回した。菜種油作りをして
きた安五郎は民衆の苦しい暮らし向きをよく知っていた。農民
たちが一生懸命に働いて納めた米も、藩の借金で毎年数万両に
およぶ利子で消えてしまう。農民も藩も疲弊しきっていた。

 安五郎は勝静を名君に育てるべく、こういう状況をどう改革
するか、二人で議論を繰り返した。財政が疲弊しているからと、
多くの藩が税を重くしたり、役人の俸給を減らしたりしている
が、何十年たってもますます貧乏になっているだけである。そ
れでは農民はごまかしても税を逃れようとし、役人は賄賂をと
るようになる。政治に「誠の道」がなければ、健全な財政も築
けない。経済の根底にもまず「誠」がなければならない、とい
うのが二人の結論であった。「正直安五郎」を藩政全体で実現
すること、を目標としたとも言えよう。

■5.大坂商人たちの信頼■

 嘉永2(1849)年4月、藩主・勝職が病気のために、家督を勝
静に譲り、方谷を「元締並びに吟味役」として全権を与えて、
藩政と財政の改革を命じた。前例のない大抜擢に冒頭のような
妬みと非難が方谷ばかりでなく、新藩主にも向けられたが、勝
静は「山田方谷に対して滅多なことを申すことはいっさい許さ
ぬ」と全面的に方谷への批判を禁じた。方谷は感動した。しか
し、それに奢らず、方谷は一つ一つ手を打つ際に、かならず藩
の重役たちに相談した。

 方谷が最初に取り組んだ問題は大坂の商人たちからの借金を
どうするか、という事であった。方谷が考えたのは、藩の収入
が表高5万石と称しながら、実収は2万石に過ぎないことをはっ
きり伝え、その実収では到底現在の負債を約束した年限で返す
ことは不可能なので、10年賦や50年賦にしてもらえるよう
頼む、ということであった。

 方谷は自ら大坂に出かけて、商人たちに自ら頼んだ。表高と
は幕府が検地によって定めたもので、それを自ら誤りであると
言い放った藩はなかった。気骨ある大坂商人は方谷の率直な態
度にこう応じた。

__________
 お話はよく分かりました。率直なお申し出に感動いたし
ました。どうぞ、お家の再建までわれわれの方は10年賦、
あるいは50年賦でも結構でございますから、ご努力下さ
い。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 方谷が手をついて「かたじけない。ご恩は決して忘れない」
と頭を下げた。商売は正直にやっていかなければ長続きしない、
と大坂の大商人たちは経験上、よく心得ていただろう。方谷の
「正直安五郎」ぶりは、ともに手を携えてやっていける相手と
して、一目で彼らの信頼を得たのである。

■6.藩士・藩民の信頼確立■

 次に方谷が打った手は、藩士・藩民の倹約の徹底であった。
そのために勝静に対して、「率先垂範して、その例をお示し下
さい。ただしそのことを下に強要してはなりません」と申し入
れた。強要して短期間で成果を上げるのではなく、上下の信頼
関係を育てつつ、倹約の実をあげていこうとしたのである。

 方谷のついた元締も、従来は賄賂の多い、人のうらやむ役職
である。方谷も口ではきれいな事を言っても、陰では賄賂で儲
けるに違いない、と見る者もいた。そこで、方谷は藩の会計を
すべて塩田仁兵衛という武士に任せ、自分ではいっさい関与し
ないこととした。時折、自分の財産を持ち出すこともあった。

 そのために、方谷の家は家族8人の生活も非常に苦しく、荒
れ地を開墾してようやく食い扶持を稼ぐ始末であった。はじめ
は「恰好をつけている」「見栄を張っている」などと陰口を叩
く輩もいたが、方谷の一貫した誠実そのものの姿勢を見て、
「山田様はお気の毒だ。自分の身銭を切って、藩のためにお尽
くしになっている」と受け止めるものが次第に増えていった。

 こうした方谷の姿勢に、もっとも素直に共鳴していたのが、
大坂の商人たちであった。ある年、江戸の藩邸が焼失すると、
大坂商人たちは方谷のもとにやってきて、再建の資金を出させ
て下さい、と申し出たほどであった。彼らとしても信頼する方
谷の藩政改革をぜひ成功させたいという気持ちがあったのだろ
う。

 こうして藩主以下の率先垂範を示しつつ、方谷は藩士藩民に
倹約令を出して、年限を限って藩士の俸給を下げる事、役人は
あらゆる贈り物をすべて役所に差し出すこと、役人の領内巡回
のさいの饗応を止めること、などを徹底させた。贈り物や饗応
を止めさせたことで、領民の藩政に対する信頼は大きく回復し
た。

■7.「これは信義の問題だ」■

 次に方谷が取り組んだのが、藩札の信用確立だった。藩札と
は、当時、各藩が発行していた紙幣である。松山藩でも百年ほ
ども前から独自の藩札を発行していた。当初は準備金を用意し
ておいて、要求があればすぐに小判などの正貨と交換すること
で信用を維持していたのだが、藩財政が窮乏するに従って、準
備金を赤字補填に使ってしまい、そのうえ大量の藩札を発行し
たので、「松山藩の藩札は、まったく信用できない」という悪
評が定着してしまった。

 貨幣が額面通りの価値を持つという信用が失われれば、売買
に支障を来し、藩経済も停滞してしまう。方谷は現在の藩札を
すべて回収し、正貨との交換を約束した新しい藩札で信用を確
立しようとした。

 そこで藩内で使われている藩札をすべて回収せよ、と役人た
ちに命じた。役人たちは驚いて「回収するには、それに見合う
正貨を与えなければなりませんが、藩の蔵はカラです。」と反
対した。しかし方谷は耳を貸さなかった。

__________
 これは信義の問題だ。藩札を発行する時に、これをもっ
て来ればかならず正貨に換えると約束したのだ。その約束
を破り続けたから結局、藩札の信用がなくなってしまった
のだ。正貨はなんとしてでも私が集めるから、お前たちは
とにかく旧藩札を全部引き上げろ。
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 方谷は、必死に正貨を集め、ある程度たまった段階で、「旧
藩札をもっている者は、至急役所に来て正貨と取り換えるよう
に」との触書を出した。たちまち多くの藩民が押し寄せてきた。
役人たちは、いつ正貨がなくなるかとビクビクしながら、交換
した。方谷は自らの決意を示すためにも、高梁川の河原で山と
積み上がった旧藩札を焼き捨てた。これを見ていた藩民たちは、
ヒソヒソと相談しあった。

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 山田様はこのお国にとって大切な方だ。いま山田様にも
しもの事があったら、困るのはわれわれだ。どうだろう。
交換していただいた正貨を山田様に差し出して、お城のお
役に立てていただこうではないか。
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 たちまち賛同者が数多く出て、代表者が方谷に「交換は新し
い藩札で結構です」と申し出た。方谷は思わず立ち上がり、目
頭を熱くして、大きく頷いた。

■8.「正直安五郎」の教え■

 信用を得た新しい藩札は、藩内で自在に流通するようになっ
た。方谷は、この新しい藩札を藩内の投資に使って、産業振興
に努めた。

 まず鉄山の開発。三室、吉田、鋳長山を開発し、そこで掘り
出された鉄を使って、刃物、鍋、釜、鋤、鍬、釘などの生産を
始めさせた。林産では、杉、竹、漆、茶などの栽培を奨励した。
特に「松山きざみ」という煙草を増産させ、江戸から九州まで
宣伝をして、販売を拡げた。さらに地域名産の菓子や、和紙、
陶器、茶道具などの生産を奨励した。

 これらは藩が生産者から買い上げて、他国に販売する。買う
ときは藩札で払うが、すでに絶大な信用を得ていたので、生産
者は喜んで受け取った。他国に売るときには、正貨で取引する。
藩の金蔵はみるみるうちに豊かになり、一時削減されていた藩
士の俸給ももとに戻された。

 安政4(1857)年8月、藩主・勝静は寺社奉行に任ぜられ、以
後、幕末の10年ほどを幕府の最高幹部として務める。その間、
方谷は藩政を司りながら、勝静の助言役として助けた。過激な
攘夷派から「無道の西洋諸国が武力で押しつけた条約は即座に
破棄すべきだわない」、という「破約攘夷論」が唱えられた時
は、「相手国のやり方が強引だからといって過去に遡り条約を
破棄するなどということは国際信義にもとる。日本国として行
うべきことではない」という意見を、勝静から将軍後見職
・一橋慶喜に伝えさせ、これを退けた。明治新政府もこの立場
をとり、江戸幕府が結んだ条約を誠実に守りつつ、50年以上
もかけて条約改正を成功させたのである。

 政治も財政も、そして外交も、その根底には信義がなければ
ならない。「正直安五郎」の藩政改革はこの教訓を長く歴史に
残したのである。
(文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(130) 上杉鷹山 ~ ケネディ大統領が尊敬した政治家~
 自助、互助、扶助の「三助」の方針が、物質的にも精神的 に
も美しく豊かな共同体を作り出した
https://note.com/jog_jp/n/nfe3ad35584c8

b. JOG(144) 細井平洲~「人づくり」と「国づくり」
 ケネディ大統領が絶賛した上杉鷹山の「国づくり」は、細井
平洲の「人づくり」の学問が生みだした
【リンク工事中】

c. JOG(262) 恩田杢 ~ 財政改革は信頼回復から
 性急な増税で農民一揆を招いた前任者の後で、恩田杢は農民
との対話集会から改革を始めた。
https://note.com/jog_jp/n/n54888566d0df

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

  1. 童門冬二、「山田方谷」★★★、学陽書房人物文庫、H14

//////////// おたより ////////////
■ハマダさんより

政治も財政も、そして外交も、その根底には信義がなければ
ならない。「正直安五郎」の藩政改革はこの教訓を長く歴史に
残したのである。

 こちらが信義を守っていても、相手が平気で信義違反を犯し
たら方谷さんはどう対処したでしょうか。例えば1945年の
日ソ不可侵条約。尖閣や竹島を侵略されながら日中、日韓の基
本条約を守る日本。平壌宣言も、とっくに先方が反故にしてい
るのに日本は守っています。米国の、友邦らしからぬ侮日、背
信行為の数々も有名なところ。

 こちらが信義を守るだけではなく、NOを突きつける気概でも、
相手を畏怖させる武力でも良い、相手にも守らせる力がなけれ
ば、国益も主権も損なわれてしまいますね。

■ 編集長・伊勢雅臣より

 山田方谷は藩の財政を立て直した後、屯田兵式の農兵隊を育
て、また西洋の大砲を導入する軍政改革を志しました。自分が
信義を守る事と、他国が信義を守ってくれると空想する事は別
の事です。

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