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JOG(130) 上杉鷹山 ~ ケネディ大統領が尊敬した政治家

 自助、互助、扶助の「三助」の方針が、物質的にも精神的にも美しく豊かな共同体を作り出した。


■1.Uesugi Yozan, who?■

 1961年、第35代米国大統領に就任したジョン・F・ケネディは、日本人記者団からこんな質問を受けた。「あなたが、日本で最も尊敬する政治家はだれですか」

 ケネディはこう答えた。「上杉鷹山(ようざん)です」[2,p3]

 おそらく日本人記者団の中で上杉鷹山の名を知っている人はいなかっただろう。鷹山公は江戸時代に米沢藩の藩政建て直しに成功した名政治家で、財政危機に瀕する現代日本にとっても、学ぶべき所が多い。戦前は、小学校の修身教科書にも登場し、青少年に敬愛されてきた人物である。

 上杉鷹山とは、どのような人物なのだろうか。そしてなぜケネディは鷹山を尊敬していたのだろうか。

■2.破綻していた藩財政■

 上杉鷹山は宝暦元(1751)年、日向(宮崎県)高鍋藩主の二男として生まれ、数え年10歳にして米沢藩主上杉重定の養子となった。

 上杉家は関が原の合戦で石田三成に味方したため、徳川家康により会津120万石から米沢30万石に減封された。さらに3代藩主が跡継ぎを定める前に急死したため、かろうじて家名断絶はまぬがれたものの、さらに半分の15万石に減らされてしまった。

 収入は8分の1になったのに、120万石当時の格式を踏襲して、家臣団も出費も削減しなかったので、藩の財政はたちまち傾いた。年間6万両ほどの支出に対し、実際の収入はその半分ほどしかなく、不足分は借金でまかなったため、その総額は11万両と2年分近くに達していた。ちょうど、現代の日本のような深刻な財政破綻におちいっていた。

 収入を増やそうと重税を課したので、逃亡する領民も多く、かつての13万人が、重定の代には10万人程度に減少していた。武士達も困窮のあまり「借りたるものを返さず、買いたる物も価を償わず、廉恥を欠き信義を失い」という状態に陥っていた。[2,p26][3上,p46]

■3.民の父母■

  受次ぎて国の司の身となれば忘るまじきは民の父母

 鷹山が17歳で第9代米沢藩主となったときの決意を込めた歌である。藩主としての自分の仕事は、父母が子を養うごとく、人民のために尽くすことであるという鷹山の自覚は、徹底したものであった。後に35歳で重定の子治広に家督を譲った時に、次の3カ条を贈った。これは「伝国の辞」と呼ばれ、上杉家代々の家訓となる。

・ 国家は、先祖より子孫へ伝え候国家にして、我私すべきものにはこれなく候
・ 人民は国家に属したる人民にして、我私すべきものにはこれなく候
・ 国家人民の為に立たる君にて、君の為に立たる国家人民にはこれなく候

 藩主とは、国家(=藩)と人民を私有するものではなく、「民の父母」としてつくす使命がある、と鷹山は考えていた。しかし、それは決して民を甘やかすことではない。鷹山は「民の父母」としての根本方針を次の「三助」とした。すなわち、[1,p153]

・ 自ら助ける、すなわち「自助」
・ 近隣社会が互いに助け合う「互助」
・ 藩政府が手を貸す「扶助」

■4.武士たちの「自助」と「互助」■

「自助」の実現のために、鷹山は米作以外の殖産興業を積極的に進めた。寒冷地に適した漆(うるし)や楮(こうぞ)、桑、紅花などの栽培を奨励した。漆の実からは塗料をとり、漆器を作る。楮からは紙を梳き出す。紅花の紅は染料として高く売れる。桑で蚕を飼い、生糸を紡いで絹織物に仕上げる。

 鷹山は藩士達にも、自宅の庭でこれらの作物を植え育てることを命じた。武士に百姓の真似をさせるのかと、強い反発もあったが、鷹山自ら率先して、城中で植樹を行ってみせた。この平和の世には、武士も農民の年貢に徒食しているのではなく、「自助」の精神で生産に加わるべきだ、と身をもって示したのである。

 やがて、鷹山の改革に共鳴して、下級武士たちの中からは、自ら荒れ地を開墾して、新田開発に取り組む人々も出てきた。家臣の妻子も、養蚕や機織りにたずさわり、働くことの喜びを覚えた。

 米沢城外の松川にかかっていた福田橋は、傷みがひどく、大修理が必要であったのに、財政逼迫した藩では修理費が出せずに、そのままになっていた。この福田橋を、ある日、突然二、三十人の侍たちが、肌脱ぎになって修理を始めた。

 もうすぐ鷹山が参勤交代で、江戸から帰ってくる頃であった。橋がこのままでは、農民や町人がひどく不便をし、その事で藩主は心を痛めるであろう。それなら、自分たちの無料奉仕で橋を直そう、と下級武士たちが立ち上がったのであった。「侍のくせに、人夫のまねまでして」とせせら笑う声を無視して、武士たちは作業にうちこんだ。

 やがて江戸から帰ってきた鷹山は、修理なった橋と、そこに集まっていた武士たちを見て、馬から降りた。そして「おまえたちの汗とあぶらがしみこんでいる橋を、とうてい馬に乗っては渡れぬ。」と言って、橋を歩いて渡った。武士たちの感激は言うまでもない。鷹山は、武士たちが自助の精神から、さらに一歩進んで、「農民や町人のために」という互助の精神を実践しはじめたのを何よりも喜んだのである。

■5.農民たちの「自助」と「互助」■

「互助」の実践として、農民には、五人組、十人組、一村の単位で組合を作り、互いに助け合うことを命じた。特に、孤児、孤老、障害者は、五人組、十人組の中で、養うようにさせた。一村が、火事や水害など大きな災難にあった時は、近隣の四か村が救援すべきことを定めた。

 貧しい農村では、働けない老人は厄介者として肩身の狭い思いをしていた。そこで鷹山は老人たちに、米沢の小さな川、池、沼の多い地形を利用した鯉の養殖を勧めた。やがて美しい錦鯉は江戸で飛ぶように売れ始め、老人たちも自ら稼ぎ手として生き甲斐をもつことができるようになった。これも「自助」の一つである。

 さらに鷹山は90歳以上の老人をしばしば城中に招いて、料理と金品を振る舞った。子や孫が付き添って世話をすることで、自然に老人を敬う気風が育っていった。父重定の古希(70歳)の祝いには、領内の70歳以上の者738名に酒樽を与えた。31年後、鷹山自身の古希では、その数が4560人に増えていたという。[2,p181]

■6.天明の大飢饉をしのいだ扶助・互助■

 藩政府による「扶助」は、天明の大飢饉の際に真価を問われた。天明2(1782)年、長雨が春から始まって、冷夏となった。翌3年も同じような天候が続いた。米作は平年の2割程度に落ち込んだ。

 鷹山が陣頭指揮をとり、藩政府の動きは素早かった。 
・ 藩士、領民の区別なく、一日あたり、男、米3合、女2合5勺の割合で支給し、粥として食べさせる。
・ 酒、酢、豆腐、菓子など、穀物を原料とする品の製造を禁止。
・ 比較的被害の少ない酒田、越後からの米の買い入れ

 鷹山以下、上杉家の全員も、領民と同様、三度の食事は粥とした。それを見習って、富裕な者たちも、貧しい者を競って助けた。

 全国300藩で、領民の救援をなしうる備蓄のあったのは、わずかに、紀州、水戸、熊本、米沢の4藩だけであった。

 近隣の盛岡藩では人口の2割にあたる7万人、人口の多い仙台藩にいたっては、30万人の餓死者、病死者が出たとされているが、米沢藩では、このような扶助、互助の甲斐あって、餓死は一人も出なかった。それだけでなく、鷹山は苦しい中でも、他藩からの難民に藩民同様の保護を命じている。

 江戸にも、飢えた民が押し寄せたが、幕府の調べでは、米沢藩出身のものは一人もいなかった、という。[1,p603]

 米沢藩の業績は、幕府にも認められ、「美政である」として3度も表彰を受けている。

■7.自助・互助の学校建設■

 鷹山は、領内の学問振興にも心をくだいた。藩の改革は将来にわたって継続されなければならない。そのための人材を育てる学校がぜひ必要だと考えた。しかし、とてもそれだけの資金はない。

 そこで鷹山は、学校建設の趣旨を公表して、広く領内から募金を募った。武士たちの中には、先祖伝来の鎧甲を質に入れてまで、募金に応ずる者がいた。また学校は藩士の子弟だけでなく、農民や商人の子も一緒に学ばせることとしていたので、これらの層からの拠出金が多く集まった。子に未来を託す心情は、武士も庶民も同じだったのである。ここでも、農民を含めた自助・互助の精神が、学校建設を可能としたのである。

■8.アジアのアルカデヤ(桃源郷)■

 イギリスの女流探検家イザベラ・バードは、明治初年に日本を訪れ、いまだ江戸時代の余韻を残す米沢について、次のような印象記を残している。

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 南に繁栄する米沢の町があり、北には湯治客の多い温泉場の赤湯があり、まったくエデンの園である。「鋤で耕したというより、鉛筆で描いたように」美しい。米、綿、とうもろこし、煙草、麻、藍、大豆、茄子、くるみ、水瓜、きゅうり、柿、杏、ざくろを豊富に栽培している。実り豊かに微笑する大地であり、アジアのアルカデヤ(桃源郷)である。自力で栄えるこの豊沃な大地は、すべて、それを耕作している人びとの所有するところのものである。・・・・・・美しさ、勤勉、安楽さに満ちた魅惑的な地域である。山に囲まれ、明るく輝く松川に灌漑されている。どこを見渡しても豊かで美しい農村である。[4]
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 イザベラ・バードは、この土地がわずか100年前には、住民が困窮のあまり夜逃げをするような所であったことを知っていたかどうか。この桃源郷を作り上げたのは、鷹山の17歳から55年にもおよぶ改革が火をつけた武士・領民たちの自助・互助努力だったのである。

 美しく豊かなのは土地だけではない。それを作り出した人々の精神も豊かで美しい。病人や障害者は近隣で面倒をみ、老人を敬い、飢饉では富裕なものが競って、貧しい者を助ける。鷹山の自助、互助、扶助の「三助」の方針が、物質的にも精神的にも美しく豊かな共同体を作り出したのである。

■9.ケネディの問いかけ■

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And so my fellow Americans,
Ask not what your country can do for you.
Ask what you can do for your country.

それゆえ、わが同胞、アメリカ国民よ。国家があなたに何をしてくれるかを問うのではなく、あなたが国家に対して何ができるかを自問してほしい。
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 ケネディ大統領就任演説の中の有名な一節である。国民がみな国家に頼ろうとしたら、国家はもたない。それは社会主義国家の失敗や、福祉国家の行詰りで歴史的にも証明されている。現代日本の財政危機も、ひたすら景気浮揚のための政府公共投資、福祉充実のための予算膨張と、国民が国からの「扶助」のみに頼ってきたツケがたまりにたまったものだ。

 国家という共同体が成り立つためには、その構成員が、それぞれ国家のために、お互いのために何かをしよう、という自助と互助の精神が不可欠である。それがあってこそ、国が成り立ち、その中で国民は自由と豊かさを味わうことができる。ケネディが鷹山を尊敬したのは、自助・互助の精神が、豊かで美しい国造りにつながることを実証した政治家であったからであろう。

 しかし、我が国の戦後教育は、鷹山公をことさら無視してきた。それは「扶助」のみを訴える戦後の社会主義的風潮からは、「自助・互助」とのバランスをとる鷹山の姿勢は受け入れがたいものがあったからであろう。

 財政再建も、また教育や政治の改革も、「自助・互助」の精神の復活が鍵である。それを教えてくれている人物は、我々自身の歴史のすぐ手の届くところにいるのである。

■リンク■
a. JOG(091) 平和の海の江戸システム
 日本人は平和的に「自力で栄えるこの肥沃な大地」を築き上げた。

b. JOG(092) 「小さな水の惑星」に浮かぶ「庭園の島」
 近代世界システムを乗り越えて新しい日本文明を目指そう。

■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
1. ★★★「小説 上杉鷹山」、童門冬二、集英社文庫、H8.12
2. ★★ 「上杉鷹山に学ぶ」、鈴村進、三笠書房知的生き方文庫      H4.10
3. ★★「漆の実のみのる国 上下」、藤沢周平、文春文庫、H12.2
4. 「日本奥地紀行」、イザベラ・バード、平凡社東洋文庫、S48 (「文明の海洋史観」、川勝平太、中公叢書、H9.11より再引)

//////////// おたより ////////////
■「人物探訪:上杉鷹山」について                  高校生のRYOTAさんより

 このメールマガジンを読んでみるまで、上杉鷹山なる人物の事は知りませんでした。日本に住む自分が知らずに、大統領とはいえ、海外の人が知っているとは・・・何だか情けないと言うか。何と言うか・・・

 ところで、メール中に書かれていた「三助」ですが、 大変素晴らしいものですね。現代の世の中では、極々一部の人にしか実践されていないのではないかと思います。

 江戸時代。江戸における(現代で言えばの話ですが)「リサイクル」の徹底といい、この「三助」といい、 「教えてくれている人物は、我々自身の歴史のすぐ手の届くところにいるのである。」と書かれたのも肯けます。 現代の病んだ日本には、「発展」だけではなく、良き時代の「復興」が必要なのかもしれませんね。

■ 編集長・伊勢雅臣より

「三助」のように、我が国の歴史伝統を訪ねれば、そこに明日への革新の理想とエネルギーが見つかる、というのが、我が国のありがたい所です。

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