見出し画像

リズムと響き|俳句修行日記

 西洋のリズムは三拍子を基調としているという。それならば、日本ではどうなのだろうか?師匠に問うと、「三拍子は馬上にある者のリズムで、その者が文化的リーダーであったために社会にしみついたもんじゃろう」と。

「侵略される危険が小さかった日本では、古くからボトムアップの社会が形成された。そんな中で生まれた生活のリズムは、舟漕ぎや耕起に基づく、比較的ゆったりしたもんじゃった。」

「ただ、そのような力仕事の中に『歌』は生まれん。多人数でタイミングを合わせるために使われることはあるが、その歌は、あらかじめ準備されたもんじゃったと思われるぞ。」

「日本にも、末端には様々なリズムが存在する。和歌を生んだんは、おそらく機織じゃ。ワシがイメージするに、歌垣へと向けた機織りに勤しむ中で、和歌は五七のリズムを得たもんじゃろうて。」

 師匠が言うには、日本の歌は、リズムよりも響きを大切にしているのだと。思いが込められた音響は、日常の重労働に意味を持たせ、「繰り返し歌うたびに全身に気が満ちて、生きる苦しみを取り除いてくれるもんになったんぞ」と。
 こんな説、ネットに見当たらないから一句に流す。「織姫の言葉なくして涙雨」


 先日、「虫の音を聞くことができる日本人」という記事を見つけて、当たり前に思ってたことが特殊能力であることを知った。そのことを師匠に言うと、「最近では、虫の声を聞かん日本人も多い」と素っ気ない。
 師匠が言うには、聞く素地があるかどうかの問題で、意味を汲み取れない音響は、意識されることがないか、あるいは、騒音として認識されるだけのものなのだと。

 つまり、我々が聞いているのは「音」ではなく、「虫の声」だという。しかし、損得の中に暮らすとなると、これら、かすかな声に耳を傾ける余裕がなくなってしまう。

 協働社会では、競争社会で切り捨てられる小さな声も意味をなす。それらは反響しあって、誰もが絡み合う社会を形成する。そこに排他的思考を持ち込めば、個々はその者との間に適切な距離をとり、社会は持続性を保持するものだ。

「ここでは共鳴が社会基盤になっとるぞ」と、師匠のたまう。終わりの見えない仮想ゴールを目指す競争社会とは異なり、それぞれの居場所が存在するのが協働社会なのだと。たとえ対立があってさえ、つま弾かれた感情を慮る者がそこに現れ、綻びを綴る。この社会を紡ぐのは、ひとが夢想する『理』などではなく、『情』なのだと。

『理』には体系化された言葉が不可欠であるが、『情』は、声があれば他人に伝わる。だから、誰もが主役のこのクニでは、『あはれ』を歌う。
 師匠のたまう。「虫の声が聞こえなくなったら地獄じゃぞ」と。(つづく)