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吟行の心得|俳句修行日記

 デスクに向かって俳句を詠んでいても面白くはない。師匠に吟行の予定を聞くと、「金がないんじゃ」と、思わぬ返答を得た。「銀行じゃなくて、吟行ですよ」と言うと、「分かっとるわい。やから、金がないと言っとるんじゃ。そんな特別なことをせんでも、俳句は詠める」と。

「吟行なんかに頼りすぎると、日常を逸して言葉が宙に浮いてしまう。俳句とは、日常を大切にせんと生まれてこんもんじゃぞ。」
 しかし、特別な感慨の中にこそ俳句は得られるんじゃないかと疑問をぶつけると、師匠「ばかもん」言うた。
「特別を求める奴は、心が彷徨っとんのじゃ。そういう奴は目移りばかりして、決して得るものがない。」

「大切なんは、日常を丁寧に生きることじゃ。毎日の通勤路にも、日々の変化を発見できるほどにな。」

「季語というもんは、日常に潜む変化を、ヒントとして与えてくれる。その変化に気付く時、毎日が特別であるということを知るもんじゃ。」

「俳句は、日常をより良く生きるためのツールであって、宝探しのようなもんとは訳が違うんぞ。やから、句作を吟行に頼る必要などない言うとんのじゃ。」


 日が変わって、師匠が朝から「旅行したい」ばかり言っている。「どうしたんすか」言うと、「時には、非日常を味わうことも必要じゃ」とのたまう。昨日とは真逆になっちまった師匠に白い目を向けると、「悪いか!」と開き直り。
「遠遊も俳句修行じゃ。日常の句作が変化に目を向けるものなら、非日常の句作には不変を求める。」

「右も左も分からん無明の中に放り出されても、映える景色はあるもんじゃ。それは、己の根本部分に共鳴するがゆえに見えるんぞ。」

「その根本部分を知ることは、決して曲げてはならない自分自身、つまり己の存在意義にせまることになる。これは、自分の殻を脱してこそ、見つめることができるもんじゃ。そのためには、非日常に身を置かねばならん。」

 師匠のたまう。「日常と非日常の狭間で、注意深くものごとを観察すること。これこそが、実践『不易流行』なるぞ。」
 突然の言葉に面食らって、「笛吹の流行ですか?」と、法螺吹きのようなものをイメージすると、「勉強しろ!」と叱られた。(つづく)