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しおりのこと|俳句修行日記

 萎れた花を「捨てましょうか」と聞くと、師匠は大きな声で「分かっとらんな」と言った。
「それを捨てるなら、おまえの道はとざされる」と。首を傾げていると「しおりじゃ」と言うので、花の首を切って重しをのせた。

 きれいに出来あがった日、机の上にさりげなく置いて誉め言葉を待っていると、「なんじゃこれ」と師匠のたまう。「栞ですよ」と言うと、苦りきった顔。

「この世界で『しおり』と言えば、心構えを指す。おまえはあの日、花に一句献上せねばならなんだ。」

 散々しかられた挙句、大量の仕事を仰せつかって、気分はブルー。ちっとも作業がはかどらない中、こっそりとネットを開いてしおりを調べる。
『しおり』とは、芭蕉の高弟同士の『俳諧問答』に、『しほりと憐なる句は別なり。ただうちに根ざして外にあらはるるもの也』と説明される。

 師匠が言うには、『しおり』を『萎』と解釈してはならないのだと。それは『撓』であり、そこには、折れることのない瑞々しさが残されているという。俳諧問答に言うのはそのことであり、『憐憫』の情に溺れ萎びることへの戒めが込められているのだと。

 本来ならば『しをり』と書くところを、ここでは『しほり』と書く。それは『其掘り』であり、無常の世界に身を置き、己を追求していくことに他ならない。つまり、他者の発するメッセージによって自らを変質させるのではなく、「詩情に沿った求道を表したものじゃ」と、師匠のたまう。(修行はつづく)

しほり・さびは、趣向・言葉・器の閑寂なるを云にあらず。さびとさびしき句は異也。しほりは、趣向・詞・器の哀憐なるを云べからず。しほりと憐なる句は別也。たゞ内に根ざして、外にあらわるゝもの也。言語・筆頭を以て、わかちがたからん。強て此をいはば、さびは句のいろに有。しほりは句の餘勢に有。

許六・去来「俳諧問答」第三章抜粋