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ジョークのかおり|俳句修行日記

 ずっと感じていたことなのだが、師匠の俳句はなんか変。テレビで競い合っている俳句に比べると、臨場感に欠けるしナウくもない。そのことを遠回しに伝えると、師匠の眉間にしわが寄る。
「だから、ボクは夏井先生のやるような俳句を詠みたいわけで…」
 しかし、それを衝撃の言葉で否定する姿に、ボクはボーゼン…
「えっ、、、何もかもジョークだったんすか???」
 師匠のたまう。「俳句というのは座の文芸じゃ。顔をつき合わせて詠むもんぞ。」

 師匠がやっているのは独吟であり、厳密には俳句と呼べるものではないのだそうだ。それを師匠は「ジョー句」と言う。


 ある時「コレは!」というのができて、全国紙に投句しようとした。そんなボクに向かって師匠、「ジョークは自分に向けて発するもんぞ」と。
「どういうことっすか?」聞くと、「情を他人に委ねることは、自分を見失うことじゃ」と。
「それじゃあ喜びがないじゃないすか」と反発すると、「そんなことはない!」とのたまう。

 句を詠むこと、つまり、こころの内を文字に移しかえることは、己を見つめることなのだという。しかし、それを発表するとなると、他者の視点が紛れ込む。自分を見直すために敢えて場に臨むのは「可」であるが、誉め言葉を求めて投句するならば、もはやそこに意地はない。
「魂を売って評価を得ても、時流の中に浮沈して、目指す場所は遠ざかっていく。ひとというものは、こころの中を探訪する存在じゃからな。」

 なんかやるせなくなって一句。「鉦叩あたしのジョーの呻きかな」(修行はつづく)