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カリスマは仮住まい

カリスマは仮住まい

意味:カリスマでの人気は仮のものという意味

類義:虎の威を借る狐

(例)いやぁ、自分で言うのもなんだけど、俺にはカリスマ性があるのか、なぜか人が集まってくるんだよ。でも、いつの間にか人がいなくなってたんだよね。それって、本当の俺の魅力じゃなくて、仮のものだったって気付いたんだ。まさに「カリスマは仮住まい」ってことだね。

昨日、道楽舎noteにて「カリスマない道楽家」というコラムを配信致しました。

今更カリスマというものに言及するつもりはないのですが、道楽舎を立ち上げて、世の「カリスマ」「道楽家」という関係性で気になることがあったので、MAX個人のnoteでは創作ことわざでお送りしていきたいと思います。

今さらカリスマ?

「カリスマ」という言葉はもう古くなっていますが、「カリスマ性」そのものがなくなったわけではなく、言葉として使われないだけで、最近流行りのオンラインサロンなどのコミュニティは、カリスマ性のある人が中心になっています。

そして、今話題の映画『JOKER』も、「カリスマ性」を持つ者を描いていると思います。まだ観ていないのですが(笑)noteでも、色んな方がレビューにしていて、観たい気持ちはあるのですが、如何せん最近そこそこ忙しくて観に行けてないんですが、大体の予想はつきます。ただ、今これだけ『JOKER』が話題になっているということは、何か意味があると思うのです。

道楽舎noteでもそれについては触れているので、これ以上言及しませんが、「カリスマ性」というのは、出そうと思って出せるものではありません。そして、これが「カリスマ」ですというのは明言できませんが、「人の心を惹きつける特別な魅力」というようなもので、「他の人とは違う、その人のみの魅力」と言い換えられるかもしれません。

誰もが持つカリスマ性

昔と違い、今は個人の時代であり、「世界に一つだけの花」にあるように「オンリーワン」に価値が重きを置かれています。いかにして、「自分らしい価値」を高めていくことができるかということが重要ではないでしょうか?

インターネットは普及し、インスタグラムやYoutubeなど、「インフルエンサー」と呼ばれる人が多くいます。誰もがSNSのアカウントを持ち、発信源を持っています。そして、如何に人と違うものを発信するかということに、頭を悩ませているでしょう。それはこのnoteも同じことです。

今「カリスマ」という言葉が使われなくなっているのは、オリジナリティが強くなり、誰もがカリスマ性を持つようになったからだと思います。

しかし、それでも人よりカリスマ性の高い人はやはりいるものです。今、『Dr.STONE』というアニメが放送されていて、全人類が石化してしまい、3700年後に主人公が目覚める、というアニメです。超未来で、原始から人類が始まるという物語なのですが、原始においては、科学は「妖術」と思われています。科学を知っている人からすれば当たり前のことでも、それを知らなければ妖術、魔術だと思ってしまうのです。

今の私たちにとっても、UFOとか宇宙人を目の当たりにしても、理解はできるでしょう。しかし、私たちが想像もつかないほどさらに発展している科学をもっている人からしたら、原始人を見ているような感覚があるかもしれません。天動説の時代、地動説は考えも寄らず、地動説を唱える人は処刑されるほどでした。しかし今は、地動説が当たり前で、天動説はあり得ないですよね。でも、いずれ地動説も天動説のように成り果てる可能性はありあえます。

それほどの認識を持っている人がいるとしたら、私たちに理解することはできず、それはまさに強いカリスマ性を持った人となるでしょう。それが仮に正しくなくても。それが「カリスマ」の恐ろしいところでもあります。

カリスマになることで支配される

話が逸れてしまいましたが、「カリスマ」になることは、大きな人気を博する反面、危険性があります。それは、カリスマになると、そのイメージで過ごさなければならないということです。カリスマ性に惹かれる人というのは、その人の醜い部分や人間ぽい所を見ていないことが往々にしてあります。ある意味、人間を超越して「神懸かっている」部分と言えるかもしれません。その部分が「カリスマ性」と言えますが、そのカリスマ性ありきで生きていくと、カリスマ性を維持し続けなければなりません。人間の部分を見せてはならず、どこかで捨てなければなりません。

その状態が続くと、描かれたイメージに支配されて生きなければならず、本当の自分ではいられなくなり、カリスマを纏った姿で居続けるよう、支持者に支配されて生きることになってしまいます。

「カリスマ」とは、自分らしさではなく、他人らしさというか、人に求められるものと言えるかもしれません。「カリスマ」とは「仮住」という感じを当て字にしたいですが、実際にカリスマになってしまうと、仮住まいどころか仮では済まなくなるかもしれません。

道楽家とカリスマの一番の違いは、自分らしさを突き詰めたものを、魅力にしているということです。似て非なるものなのです。無駄なことも突き詰めていけば、魅力になると思いますが、それが仮のものではなく、自分自身ととことん向き合って、熱い鉄を打ってできた真剣のようなものを、楽しみながら出していきたいものです。

道楽舎noteはコチラから


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