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200日連続投稿記念! 「オイっす!とアイーンの関係」 by 金スマ

Noteを初めて200日連続投稿となりました!いつも読んで頂き、スキやコメントに励まされております。
どれだけ心に残るようなコラムができているかはわかりませんが、私にとっては多くの発見や学びを得ながら配信しておりますので(笑)、何かしらお役に立てていれば有難いものです。

先日放送された『金スマSP』での志村けんさん特集されていました。とても感慨深いものがあり、そんな今回は、200日連続投稿を記念して、コラムにさせていただこうと思います。

オイっす!!とアイーンの関係

志村けんさんといえば、御年69歳で、知らない人はいないであろうお笑い界のトップの一人です。
今ではもうほとんど活動していませんが、ザ・ドリフターズの一員ですが、元々は付き人から始まりました。

志村けん誕生秘話

志村けんさんを語る上で欠かせないのは、父親の存在です。初めて知りましたが、お父さんは教員をしていて、厳格な方だったそうです。その父が唯一爆笑したのがドリフターズだそうです。
教頭になる為に家でも勉強していた真面目な父とはあまり反りが合わなかったようですが、ある日父が、家の前で事故に遭ってしまいます。数日の入院で済んだものの、事故によって認知症になってしまい、当時では病名もわからず苦労したそうです。

そして、お笑いを目指していた志村さんは、高校を卒業する前、父が唯一笑っていたドリフターズのいかりや長介さんに弟子入り志願に行きます。当時のタレント名鑑には住所が載っていたので、直接訪問するも、奥様から「人は間に合ってるから諦めた方がいいわよ」と帰される。こんなことで諦めていたら叶えられるものも叶えられないと、真冬で雪が降るなか、12時間待ち続けました。

いかりやさんが帰ってきたのを見計らって、弟子入り志願すると、雪の中待っていた志村さんを見越して、

「一人辞めそうな奴がいるから、そいつが辞めたら連絡する」

と答えてくれた。とは言っても、半ば諦めていた一週間後、いかりやさんから連絡があり、「明日から巡業だから、すぐ用意しろ!」と言われる。卒業前にも関わらず、志村さんはすぐさま家に帰り用意して、その日から付き人になるが、父親のことだけが心残りだった。ただ、これを逃したらチャンスはないという一心だったそうだ。

付き人になるも、給料は無いも同然で、メンバーの食べ残しを、付き人達で食べていたそうです。付き人を約3年続けていた頃、付き人同士でコンビを組んで「マックボンボン」としてデビューすることになります。志村さんの本名は「志村康徳」というのですが、「けん」という名前は父親の「健」から取り「志村けん」という芸名になりました。その名前にも、認知症になった父親への思いが込められていたんですね。

人生の転機と試練の日々

付き人としてコントのいろはを盗んでいた志村さんは、早速頭角を現し、テレビのレギュラー番組を持つことになる。そんな最中、父が亡くなったとの連絡が入り、テレビの本番前に駆けつけたが、死に顔を見たらまともに仕事ができないと、手を合わせるのだった。

コンビも長くは続かずに解散することになり、再び付き人に戻ることになる。そこで、「文句あるかぁ」で有名のメンバーの荒井注さんが脱退することになり、ドリフは解散か継続で揉めていた時、いかりやさんの一声で、志村さんが24歳の時、3ヶ月間の見習い期間を経て、メンバーに加入することになった。

しかし、若くて誰ともわからない新メンバーに、観客は冷たかった。2年は厳しい反応で、辛い時期となった。その頃、コント55号の番組が始まり、『8時だよョ!全員集合』は低迷し始めていた。転機になったのは、会議で志村さんが口ずさんだ「東村山音頭」。いかりやさんが、「それをやれ!」と言うと、一気に志村けん人気が高まり、番組もまた盛り上がった。それ以降スターダムにのし上がった。

いかりやさんの弱音

それから7、8年、番組は大人気を誇ったら、徐々に人気が低迷していくと、いかりやさんは遅刻をしたり、発言をしなくなるなど、やる気が感じられなくなっていた。「らしくないじゃないですか」と志村さんが言うと、

「もう疲れたよ。子供がいるのに、嫌われ役でいるのはしんどい。これからはお前がドリフをまとめてくれ」

と伝えたそうです。

いよいよ「全員集合」が終わるとなった時、志村さんと加藤さんの二人が新番組を持つことになり、『カトちゃんケンちゃんごきげんテレビ』が始まりました。(個人的には、ごきげんテレビは子供の頃よく見ていて、お笑いを好きになるスタートになりました)

それ以降、ドリフは『ドリフの大爆笑』という特番くらいでしか見ることはなく、メンバーは別々に活動し、志村さんはお笑いの道を、いかりやさんは役者の道を進んでいった。いかりやさんにとって、特に志村さんのことはよく気にかけていたそうで、番組はよくチェックして、自分のことのように見ていたそうです。

いかりやさんの最期

2003年、ドリフ最後の番組になってしまいましたが、オープニングで、メンバー5人が後方から前方に歩いてくるシーンがあり、年齢や病気によって、ゆっくり歩くいかりやさんに対し、メンバーは皆バラバラに歩いていく。その中で、志村さんだけは、いかりやさんに歩調を合わせ、半歩後ろになるように位置どりしていました。志村さんにとっては、付き人からお世話になり、後ろをついていくのは当たり前のことだったそうです。ちなみにカトちゃんだけ、ノリノリで一番最初に前方に着きました(笑)

いかりやさんが亡くなる前、志村さんの舞台を観にいったそうですが、楽屋に寄ることもなく、「俺が言えることはない」と、そのまま帰りました。「しっかりとお前のことをみてるぞ」というメッセージだったのかもしれませんね。

そして、病床で最期の時を迎えると、意識も虚ろになりながらメモを取り始め、そこに書かれていたことは「加藤、偉いぞ。志村、偉いぞ。」という文面。直接は言えない言葉でも、思いを文字にして残したそうです。

二人だけの特別な関係

いかりやさんと志村さんは、不仲説がずっと囁かれていましたが、決してそんなことはなく、二人にしかわからない絆があったんだなと実感しました。志村さんにとって、いかりやさんがどんなに怖くて厳しくても、いかりやさん無くして自分はいない、と言うことを重々わかっているからなのでしょう。そして、いかりやさんにとってもドリフのオリジナルメンバーではなく、志村けんこそ後継者と思っていたのでしょう。

ドリフといえば、ビートルズが武道館で来日コンサートした際の前座を担当したような、コミックバンドでもありましたが、「笑い」については、志村さんの才能を見抜いており、志村さんがドリフに加入し、不遇の2年間の間も、毎週いかりやさん宅に泊まり込んで、話し合っていたそうです。それは長嶋監督と松井秀喜を見るような関係性を感じます。

師弟の関係でもありながら、お互いを認め合う関係は、親子のようでもあり、ライバルのようでもあり、同志のようでもあります。きっと、二人にしか分かり合えないようなものがあったんだろうなと思います。志村さんにとっては、父親の面影も感じていたのかもしれません。

意志は勝手に引き継がれるもの

志村さんは、音楽が全くできず、ピアノを特訓していたこともあったそうですが、コミックバンドとしてのドリフは、志村さんが加入したことで音楽活動することはありませんでした。しかし、今や志村さんは、三味線を弾き、定期的に披露されています。これは、ドリフとして音楽をやれなくなったいかりやさんの意志を引き継いだからなのかなと感じます。

芸人というキャラは、笑わせる立場なので、中々その本当の姿は見えにくいし見えない方が良いこともあるかもしれませんが、今回の『金スマ』からみられた志村さんの背景には、一本筋を通して付き人になり、お父さんの悲劇があったり、厳しい下積み時代があって不遇の時期もあり、お笑いに懸ける覚悟や、ザ・ドリフターズへのリスペクトを強く感じました。

今と時代は違うので、手段として、志村さんのように弟子入りして下積みを経てというのは参考にならないかもしれませんが、これだけ成功している人の歩んできた道には、様々な経験をして乗り越えてきたことがあり、父親やいかりやさんという、人生を変えるきっかけになった人との出合いがあったんだなと実感します。

「人に歴史あり」と言いますが、志村さんといかりやさんという二人のスーパースターの関係は、まさに歴史に残るような人とその生き様だと思うので、何かを伝えられるきっかけになれば幸いです。

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