見出し画像

「三浦春馬とHEROたち」(最終回)

三浦春馬と名もなきHEROES



名もなきファンがHEROES

「三浦春馬とHEROたち」を(1)から(8)まで書きましたが、ヒーローの定義をしていませんでした。
敬慕(尊敬してしたうこと)の的となる人(辞典)にくわえてわたしは、ひとつのことを突き詰めたときに見えるなにかを知っている人であり、それを表現してつたえ残す人としました。
 
以下は最終回にあたって、三浦春馬ファン当事者のひとりとして、怒涛のような時間を経験してきたことへのふりかえりになります。
 
 
1.あの日から
 
いやおうなく、感情が揺さぶられた
 
・涙が次から次へとあふれてくる。「どうしちゃったんだろう、わたし」の状態がつづき、春馬さんについて知りたいことはもちろんだけれど、こんなのはわたしだけなんだろうかという疑問をもち、おもにSNSから情報をさがしていった。
 「7か月経とうとしている時のつぶやきに、いいね♡が400件超え」との投稿もありました.

今日、息子に「ママ、1日の半分くらい春馬くんのことを考えてるでしょ?」と言われた。違うよ、1日のほとんどだよ。

 2021.2.11 note hoof 

―「亡くなってから、毎日がほんとうにつらいです」、「必死に生きてきた春馬くんにほかにどんな生き方ができただろうか、と涙がとまりません」、「魂の深いところでかなしい」、「生きざまと死にざまがあまりにも違う」ーなどはこころにズシンと響いて当時ひろったSNS上のコメントだ。
 
・さまざまな情報が飛び交い、一喜一憂してしまう
・膨大な出演作品を1つずつ観はじめて、その魅力にどんどん引き込まれる。専門家の評価にちからをもらう。
・コロナが気になりながらも、『天外者』が上映されているかぎり鑑賞しに行く。ことばは交わさなくても館内ではSNSにはない、生身のファンのリアルな空間があった。そして暗転したフロアに浮かびあがるたくさんの白いマスクはまるで、春馬さんを悼む灯ろうのようにかんじた。


悲嘆のプロセスをなんとか越えてきている
 
悲嘆のプロセスは、突然におきた納得できない出来事にたいする人間の5つの感情的反応だ。「否認―怒り―取引―抑うつ―受容」というものだが、かならずしも順番に通過するものではなく、くりかえすこともある。また費やす時間はひとそれぞれだけれどあせらずにいることでかならず、いつかは事実をうけいれ、前を向けるといわれる。だいじなことは、そのどれも避けて通らずつらくてもしっかりと味わうことだという。そうしなければけっきょく長く悲しみが続くことになってしまう。
 
ファンあるある(3QUESTIONS)
 
初期のころに映画館でとなりあったファンの方と、おもわず3つの質問をしあう。
1. いつからのファンですか?  2.『天外者』は何回みましたか?3.三浦春馬さんのどこが一番好きですか?
たいていの場合、1.は同じ日(2020年7月18日)からのファンであり、2.できるかぎり通った半券は勲章のようなものだし、3. では「容姿」・「人柄」・「演技」という選択肢があるとして、そのほとんどが迷わずに「人柄」をいわれる。ただしもちろん容姿も(どストライク)、もちろん演技もです。
 
ファンの同質性と異質性
 
これもあえてあげれば3つあってこころにしめているものがそれぞれに、1.追慕、2.なぜ(性格や環境)、3.責任追及。ファンと言っても当然、生きてきた道すじが違うのだからその「推しかた」も多様だ。そして年月が経つほどに個性化が進んできているように思う。
 
そのなかの1つを引用したい。ブログで書かれていて示唆に富む意見だと思った。

自らいなくなってしまうって、ほめられたことでは決してないけれど、そこにはなにかしらの理由が絶対にあるし、恥じることでもないし目を背けることでもない。功績はちゃんと讃えるべきだし、春馬くんのいなくなりかたに真摯にむきあう必要がある(スウェーデンのDJアヴィーチーのことを引きながら)。

2021.10.20 Amebaブログ haruri_0718


ネット上でファンの動向が注目されたこともあり、はやい段階でつぎのような専門家の指摘もあった。
ーネガティブな同一化のリスク(Yahoo!ニュース2020.7.21 心療内科医、産業医・海原純子)―つらいときは情報からはなれることも必要だとあった。客観的な言語化にたすけられながらも、さらにこのように判断されたかたもいた。

自分のくるしみの発生源がなんだかわからず、うつうつとしていたところに一つの回答をもらえたような気がする。(中略)ここはむりに春馬くんからはなれようとせず、時間をかけて消化していくのもよいことなのだとわかった。また、この気持ちを言語化することが実に大切だということも。

2020.8.23 note 垣公華子


2.同行二人(どうぎょうににん)―二人連れであること―

 
著名なユング心理学者の河合隼雄(『森の学校』の五男ハーチャンですね)は著書『こころと人生』のなかで、「二人でも一人で生きていける人、一人でも二人で生きていく人」に言及していて興味深く、いいことばだと思った。
わたしも、春馬さんとは同行二人で歩いて行きたい。ファンのなかでも「春馬さんと心の中でいつも語り合っている」、「胸の中にようやくおさめることができた」、などの声を聞くことが多い。
 
 
20年
 
20年間読み継がれてきた絵本のことを、「成人した絵本」といい確かな本であることの目安になる、ということをかつてきいた。
それとおなじように、わたしはあの日から数えて、ファンになっての20年間を見届けたいという気持ちをもっている。きっとその年月には情報の取捨選択がされ、本質にむかっていると信じるからだ。
それまでにしたいこともいくつかあって、それはほとんどが春馬さんがおしえてくれたワクワクすることだ。でも努力家の彼だからこその面があり挑戦はハードルが高いのだけれど、あたらしい一歩を踏み出したいし、いまとりくんでいることもさらに続けていきたい。
 
 
 
3.死とは、三浦春馬をみられなくなること

「死とは、モーツァルトが聴けなくなることだ」ということばは、「あなたにとって死とは?」との問いに対し、物理学者のアインシュタインが答えたというのが通説のようだ。ここでいうモーツァルトとは、語るに値するものの代表だという。さらにモーツァルトの妻の妹が記した死の直前のようすを引用し、つぎのように述べている。

「彼自身も、実際たいへん快活で元気のようにみうけられた。心の底に深い悲しみとあきらめを秘めながら、それをおくびにも出さず、愛する人たちには快活・明朗にふるまってみせる。それが、軽薄だと受け取られようが、度が過ぎる冗談だとおもわれようが、かまうことなく。
モーツァルトは、つねにそのように生きてきた。かれの音楽もまた、そのようなものではなかったか。
そしてここに「死とは、モーツァルトが聴けなくなることだ」、というしん言(格言)が、死のリアリティと結びつくことを解くカギがあるようにおもえる。

2021.12.7 ブログ「一握の知力」


誰しもが天外者になれるよ、と相手をかがやかせる人
 
全国(世界)のファンは、春馬さんにちからをもらっていることは確かだ。それは三浦春馬の生き様を知る機会がもてたからこそだ。それを知り得たからファンは悲しみもあるけれど、いま前をむいている。ほんとうに大切なものは、なくさなければ見つけられないのかもしれない。
今年の誕生日に、FIGARO.jpの編集KIMさんが書かれた文章にこうあった。「三浦春馬の(演じたtouristの)真は、出会う人たちに自身の運命と向き合うことを促してくれる」と。

 
 メイキングの 士気あがるさま 伝わりて 
    「だれもが天外者(てんがらもん)」と いいし君いて

※つたない一句をよみました。「天外者」とは鹿児島弁ですさまじい才能の持ち主、さらには子どもがうまれたときに祝福して言うことばでもあるといいます。

 
 
さいごにわたしのHERO、春馬さんへ
 
あなたのちからはやはり「すごい」です。あなたがかかわった多くのひとを「よりよい」方向に突き動かしていると思うからです。

五代の活躍を追っていると、彼を演じる三浦さん自身とどこか重なるものも感じた。両者の共通点を一言でいえば、周囲を魅了して止まず、変えていく点である。

2020.12.26 NEWSポストセブン 折田侑駿


映画王チャップリンが「あなたの最高傑作は?」と問われ、「ネクスト・ワン!(次の作品さ!)」とこたえた。

だから、春馬さんにきいてみたい。「あなたの最高傑作は?」。そうしたら「僕の最高傑作は、ファンさ!」といってくれるだろうか。

 
 
 
追伸
最初の3回の登場人物にかんしては、近況報告代わりに知人に送っている個人通信のなかでふれていたものです。春馬さんのことを、春馬さんをしらないひとに伝えたいというきもちで綴っていました。
それ以降の人物たちは、共通点を感じてはいたもののそのままになっていたのが、この機会に向きあう時間をもてました。
短期間にいきおいで書いたという面もいなめず、しかし書いたものは良くも悪くも残るという現実にもつきあたりました。
それでも自分の人生のなかで三浦春馬さんがおおきく関わっていることは事実なので、これからも「推し活」のなかで、惹かれる理由をさがしていこうとおもっています。
 
長文になりました。おつきあいいただきありがとうございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?