シェアハウス・ロック2310下旬投稿分

【Live】太田金山 子育て呑龍1021

 翌23日は「呑龍上人像の修復でわかったこと」という講座であった。今度は文系。
「上毛かるた」というものがある。いまはどうか知らないが、昔は、正月に小学校で「上毛かるた」の競技会があったという。もちろん、群馬県での話だ。
「あ」行は、
  
あ 浅間のいたづら鬼の押し出し
い 伊香保温泉日本の名湯
う 碓井峠の関所跡
え 縁起だるまの少林山

 つまり、群馬県の名所、歴史、ここにはないが有名人、産業等々を折り込んだかるたである。戦後にできたという。
 あるときの飲み会で、群馬県人がふたりいたことがある。そいつらは、傍若無人に「上毛かるた」ネタで盛り上がる。私は、悔しいのでネットで調べ、暗記を試みた。暗記までしなくてもいいのに、バカだから仕方がない。バカでも、群馬に関してはそこそこ詳しくはなった。
 暗記はしたものの、まったく意味不明のものがあった。

お 太田金山 子育て呑龍

 太田市は知っていた。そこに金山という地名があるのだろうか。そこまでは、おぼろげに見当がつく。だが、「子育て呑龍」が皆目わからなかった。
 それで、「呑龍上人像の修復でわかったこと」という講座に申し込んだわけである。場所は、八王子市のひよどり山のふもとと言っていい位置にある大善寺。
 結論を言えば、「子育て呑龍」と「呑龍上人」は同一人物であった。「呑龍さん」は、大善寺住職の後、大光院(太田市)の住職となり、そこで禁制の鶴を捕った若者をかくまったため幕府の勘気に触れ追放のうきめに遭ったものの、後に大光院へ戻り、そこで1623年に没した。
 だが、肝腎の「子育て伝説」は、どうも明治時代(!)の「つくり」であるようで、講師の方によれば、「禁制の鶴を捕った若者をかくまうくらいの人だから、子育てくらいはしたでしょう」と、はなはだ頼りない話であった。
 でも、昔のお寺は地域コミュニティのセンターといった機能も担ったから、孤児などを保護し、その子を育てるくらいのことをした可能性は十二分にある。
 長年の謎が解けたので、シェアハウスに戻り、夕飯時に我がシェアハウスのおじさん(群馬県人)に報告したが、興味がないような反応しかなかった。残念。

いい音楽、悪い音楽の前にいい歌唱1022

 定義も説明もなしに「いい音楽」などと何回も言ってきたが、わかりにくかったと反省している。    
 まず、「いい」の反対語は、普通「悪い」である。悪い音楽などいう言葉は聞き慣れないだろうが、これがあるのである。
 いい音楽、悪い音楽という前に、いい歌というか、いい歌唱についてまず言っておきたい。これをご理解いただければ、私の申しあげたいことも、見当をつけやすくなるのではないかと思う。こういう話はとても伝えるのがむずかしく、私などがいくら一生懸命お話ししても、なかなかわかっていただけないのではないかという懸念があるからである。
 百聞は一見にしかず。百読は一聴にしかず。
 youtubeにあるはずだが、『ミッチー音頭』(青山ミチ)という曲を聴いていただきたい。
 この歌は曲がサイテー、詞がサイテー、編曲がサイテーというサイテーずくしであるが、歌っている14歳の青山ミチは、そんなことには負けていない。歌唱だけ取り出してみれば、相当の水準にいっていると思う。
 だが、青山ミチの歌手人生は残念ながら平坦なものではなかった。本当にくだらない歌しか歌わせてもらえなかった。涙が出てくる。
 これは、サム・クックでも同様だ。サム・クックも時代の制約があり、くだらない歌をずいぶん歌わせられたが、やっぱり、まったく負けていない。
 いい歌唱について、もうひとつ、是非とも言っておきたいことがある。
 イタリアの歌手で、ミルバという人がいる。もともとは可愛い子ちゃん歌手みたいな人だったが、80年代くらいからピアソルの曲を歌ったり、クルト・ワイルの曲を歌ったりしだした。それで注目していたのだが、コンサートツァーを今後やらないと宣言し、最後のワールドツァーを行なった。
 で、当然行った。場所は渋谷の文化村だった。
 いい音楽を聞いて泣くということがある。私は音楽には敏感なほうなので、けっこうコンサートで泣くほうである。だが、ミルバ最後のワールドツァーでは、『ウナセラディ東京』で私は泣いた。もちろん、悪い歌ではないけれども、いい歌というほどのこともない。正直に言わせていただければ、どちらかと言えば凡庸な歌である。その凡庸で、私は泣いたのだった。ミルバの歌唱が、その凡庸を乗り越えて素晴らしかったからである。
 行ってよかった。バンドなどは解散しても、再結成などと言ってまたやったりするが、ミルバは再結成しなかった。個人だからね。再結成しようがないし、再だけもなかった。それが本当に最後の機会だったのである。

ダメな音楽1023

 いい音楽、悪い音楽のついでに、ダメな音楽について述べておく。これは簡単である。
 スーパーマーケットで流れているような音楽。あれはダメな音楽だ。以上。終わり。
 これで終わったらいくらなんでもなんなんで、若干の解説をする。
 ジャン・ジャック・パーネル(ザ・ストラングラーズのリーダー)は、そういう音楽を毛嫌いしていたという。打ち合わせの喫茶店なんかでこのテの音楽がかかると、「ミュザック!」と吐き捨て、打ち合わせ途中でも外に出てしまったという。これは津島秀明という我が友人の証言である。津島は、映画『ROCKERS[完全版]』の監督であり、これにはストラングラーズも出てくるので、親交もあったし、信用していいだろう。正確に言えば、津島の死後、行方不明だったフィルムが発見され、再編集されたものが上記の作品であるようだ。原題は『東京ロッカーズ』だったような気がする。そのころ出てきたパンク・ロックの連中が出演するドキュメンタリーっぽい作品だった。
 ブルース→ロックンロール→ロックという系譜の最後に出てきたのがパンク・ロックである。この系統樹は、ここで途切れてしまったというのが私の見立てである(※)。
 なんだかパンク・ロックに対して否定的に聞こえるかもしれないが、ニルバーナ、ザ・クラッシュなんかは好きなバンドだ。ザ・ストラングラーズも同様。落ち着いて考えてみれば、出雲の阿国も、出てきたときは相当なパンクだったはずだ。約400年後に、歌舞伎が式楽化してしまうなどとは、阿国さんは夢にも思わなかっただろう。
 ああ、横道にそれてしまったな。
 ダメな音楽は、別の言い方をすれば、あってもなくてもいい音楽である。
 前に言及(大げさな!)した寒空はだかさんに『東京タワーの歌』(かな。正確なタイトルは知らない)があり、「タワー、タワー、タワー、東京タワーに行っタワー」というフレーズがある相当にくだらない歌だが、この歌を称して、ご当人は「心には残らないが、耳に残る」と言っている。なかなかの名言だと思う。本当に耳に残る。初めて聴いた人は、夢を見てうなされるかもしれない。
 これから言うと、ダメな音楽は、心にも耳にも残らないということになる。
 そういう音楽を作曲したり、制作したりしている人たちに対して、私がなにか含むところがあるように、これを読んでくださっている方々が思われるとしたら、それは違うと申しあげておく。
 心にも残らず、耳にも残らない音楽をつくるのは、一種の才能だと思うからだ。
 (※)の続きは、いずれ書くと思う。音楽の話になったら、私は際限がないのである。
 
 
センチメンタルぎりぎりまで接近する1024

 つい最近聴いたアルバム『マリアンヌ・フェイスフル・シングス・クルト・ワイル』のライナーノーツで前島秀国という方が、クルト・ワイルの音楽を「ドラマティックでセンチメンタリズムぎりぎりまで接近する」と言っておられる。私も同感するし、だから私はクルト・ワイルが好きなわけだが、「センチメンタルぎりぎりまで接近する」のがいい音楽の条件のひとつであると言える。
 センチメンタルまで行ってしまって、どっぷりとそれに浸かってしまった音楽は、おおむね「悪い音楽」である。
 私が知っているなかでは、『太陽がいっぱい』『鉄道員のテーマ』(両方とも映画音楽)『マドンナの宝石』(いわゆるホームミュージック)がそれに該当する。
 一緒に借りてきた『ワイマールの夜』(これもマリアンヌ・フェイスフル)のライナーノーツを書いているのは早崎えりなという人だが、前島さんのそれと比べると相当見劣りがする。と言って、早崎さんのライナーノーツがだめだと言っているわけでは決してない。早崎さんのライナーノーツは、優に水準以上である。だから、それだけ前島さんのライナーノーツが素晴らしいということだ。ライナーノーツに参考文献を挙げてあるのを、私は初めて見た。
 それによると、マリアンヌ・フェイスフルがはじめてクルト・ワイルの曲を歌ったのはハル・ウィナーの勧めによってであり、勧められた場所はコロラド。マリアンヌ・フェイスフルはそこの夏期講座で作詞を教えており、彼女をその講座に招いたのはアレン・ギンズバーグだったという。
 クルト・ワイルはベルトルト・ブレヒトとコンビで、『三文オペラ』など数々の名作を世に出し、後にアメリカに亡命し、ブロードウェイで活躍した。『セプテンバー・ソング』『アラバマ・ソング』などは、亡命後の作品である。
 ハル・ウィナーは、ハル・ウィナー・プロジェクトと銘打ったアルバムを、私が知っている限り3作出している。コンピレーション・アルバムである。1作目が『眠らないで』、2作目が『星空に迷い込んだ男』、3作目がセロニアス・モンクの作品集。1、2は、私のCD棚にあるはずだ。3は聞いていない。
 2で、マリアンヌ・フェイスフルは『ballad of the soldier's wife』を歌っている。ルー・リードが歌う『セプテンバー・ソング』が、なんともイカレた感じでかっこいい。アルマジロ・カルテットという、いかがわしい名前の人たちが演奏する弦楽四重奏が、「センチメンタルぎりぎりまで接近する」にもほどがある名演奏である。
【参考文献】(これは前島秀国さんのマネ)
・『星空に迷い込んだ男 - クルト・ワイルの世界』 - Lost in the Stars: The Music of Kurt Weill (1985年)
・『眠らないで - 不朽のディズニー名作映画音楽』 - Stay Awake: Interpretations of Vintage Disney Films (1988年)
 上記は、ネットで拾ったものだが、年が間違っているような気がする。私の記憶では、逆で、『眠らないで』が先である。

センチメンタルの周辺1025

 トム・ウェイツという歌手がいる。「酒場の酔いどれ吟遊詩人」と称されることがある。曲もつくる。「どこかで聴いたことがある」という作風であり、初めて聴いてもどこか懐かしい感じがする。ここから、「ノスタルジック」というのが大方の評だが、トム・ウェイツの自己評価では、「俺は、ノスタルジックなんじゃない。センチメンタルなんだ」である。
 ことほどさように、センチメンタルの定義は難しい。
 コンサイス英和辞典によると、「感傷的な、情緒的な、感情的な」である。これでもまだ、いまいちわからない。
 武満徹は次のように言う。
「美しいもの、あるいは美しい音楽って、どうしていつも悲しいんだろう。美しいものはいつも悲しい。それは人間存在の悲しみそのものだ」
「私には、音楽のよろこびというものは究極において悲しみに連なるものであるように思える。ぞの悲しみとは、存在の悲しみというものであり、音楽することの純一な幸福感に浸る時、それはさらに深い」
 後者は、武満の著作『樹の鏡、草原の鏡』のなかの言葉だ。これは間違いない。前者もそうかもしれない。
 これは、センチメンタルの説明と言っていいと思う。
 だが、イーゴリ・ストラヴィンスキーは、武満の音楽を「こんな小さな男から、あんな厳しい音が出てくるのか」と評した。武満の発言と、ストラヴィンスキーの発言を合わせると、武満徹の音楽も、「センチメンタルぎりぎりまで接近する」ということになるだろう。だから、私は武満徹も好きである。
 小林秀雄は、モーツァルトを「透明な哀しさ」と言っていた。「哀」を使っていたと思う。残念ながら、いま手元にないので確かめることができない。
 よって、いい音楽は、どことなくセンチメンタルであることになるが、逆は必ずしも真ならず。センチメンタルであってもよくないものはたくさんある。
 では、楽しく、明るい音楽でいい音楽はないのか。ありにくいが(ヘンテコな日本語だなあ)、あることはある。カリプソ・ローズという人なんかはそうだ。楽しい、陽気といったところをややツン抜けてしまって、能天気というのに近い。が、いい音楽だ。この人はトリニダード・トバゴの人である。あと、カッサヴというバンドも同傾向で、なかなかよろしい。こっちはマルティニークで、比較的近い。ツン抜ける地域なのかね。あんまり地じゃないから、海域かな。なんだか海上保安庁みたいだ。
 日本では、前に紹介した『ミッチー音頭』(青山ミチ)が相当いい線につけている。
 

【Live】もうひとつの季節の移りを感じること1026

『シェアハウス・ロック1017』で、コーヒーを淹れるときと、メダカの餌の食いで季節の移りを感じると申しあげた。あのころよりもう少し涼しくなって、もうひとつあったことを思い出した。と言うか、直面した。
 ライターの火がつきにくくなるのである。オイルライターを使っているからだ。オイルはケロシンで、ガソリンと灯油の中間くらいのものだ。常温では揮発点ぎりぎりなのだろう。これからは、戸外ではポケットに入れ、体温で温めておかないとつきにくくなる。
 銘柄はジッポだ。
 昔々、私が若いころ、自分の生まれ年に製造されたジッポを持つことが流行ったことがある。私は1949年生まれなので、「Patent 2032695」と底に刻印されているものがそれに該当する。ただ、この刻印は1937-1949製造に押されるものなので、多少は不正確になる。1958年からこっちは、毎年刻印が変わるので、製造年は一目瞭然になる。
 20歳前後、新宿のジャズ喫茶で与太っていると、よく米兵から声をかけられた。そいつらとはジャズの話をした。あいつらも、わけのわからないところから、さらにわけのわからないところへ来て、心細かったんだろうと思う。だいたい同い年か、せいぜい二つ三つ上だった。ジャズの話なら、私は一晩中でも平気だったので、よく彼らに付き合ったわけである。
 別れ際、ジッポのライターをくれた。必ずと言っていいくらいくれた。ヴェトナム帰休兵のくれたものには、絵や言葉が掘ってあった。いわゆるヴェトナム・ライターである。
 私はあげるものがないので、ロングピースのパックをあげた。ロングピースってのがいいでしょ。あげるとき、「死ぬなよ。殺すなよ」と言った。これも必ずといっていいくらい言った。
 後年、大がひとつでは足らない大親友のタダオちゃんがオイルライターを集め始めたので、このときのライターも含めて相当数あげた。古いジッポがなかなか手に入らないので、タダオちゃんは大喜びしていた。そのタダオちゃんは7年前に死んでしまった。私より二つも若いのになあ。自分の人生を、半分ぐらいもぎとられた感じがした。
 2年ほど前、それまで彼らが住んでいたところを引き払うハメになり、奥さんから、引き取り手のないライターをもらってくれないかと連絡があった。
 そのとき受け取ったなかに、私があげたヴェトナム・ライターも2点あった。30年くらいして、私の手元に戻ったわけである。
 タダオちゃんは凝り性だったので、ジッポを飾る棚も持っていた。たぶん、コレクターズショップみたいなところで売っているのだろうと思う。その棚ももらってきた。
 いま、これを書いているテーブルの横の棚の最上段に、その飾り棚と、そこに収まったジッポが40個弱ある。

40代以下には決してわからない話1027

 投稿を始めた時点では73歳だったが、誕生日を過ぎ、74歳になってしまった。それなりに自戒はしているが、年寄り臭いことを書いていると思う。年寄りの話は、あたりまえだが年寄り臭い。私だって、これでも若いころはあって、そのころはそう思っていたのでよくわかる。
 ただ、これだけ歳をとっちゃうと、自分ではどこが年寄り臭いのかがわからなくなる。困ったもんだが、しかたない。
 自戒とは、もし若い人が読んでくれた場合に、少しでもわかりやすいように書くといったことである。「これで?」などと言われると耳が痛いが、今回は若い人には絶対わからない話を満載にしてみる。フルに年寄り臭くするとこうなるという見本である。
 ニール・セダカの『One Way Ticket (To The Blues)(1959)』(邦題『恋の片道切符』)を初めて聴いたときは小学生だったが、中学生になり、「あっ、これは、ようするに柳亭痴楽だ」と思った。平易な英語の歌なので、中学生になれば、だいたい言ってることはわかる。
 歌詞のなかに、流行歌のタイトルを折り込んでいる。『Gotta Travel On』(ビリー・グラマー)、『Bye Bye Love』(エヴァリー・ブラザーズ、後にサイモンとガーファンクルがカバー)、『Lonely Teardrop』(ジャッキー・ウィルソン)、『Lonesome Town』(リッキー・ネルソン)、『Heartbreak Hotel』(エルヴィス・プレスリー)、『a fool such as I』(ハンク・スノウ)、『I cry a tear』(ラヴァーン・ベイカー)などなど。
 一方、柳亭痴楽には、「痴楽つづり方狂(教)室」という、あれはなんと言えばいいのか、演目シリーズみたいなものがあり、そのなかに『恋の山手線』というものがあった。これは、山の手線の駅名を折り込んでいる。電車、trainという共通点もあるしね。
 そのへんでゴチャゴチャんなって、小林旭の『恋の山手線(1964)』(これも折り込みソング)は柳亭痴楽が本名で作詞したものだと、長い間思っていた。ところが今回調べてみて、こっちは作詞が小島貞二、作曲が浜口庫之助であることがわかった。小島貞二は、記憶では、相撲の解説記事なんかを書いていた人である。古今亭志ん生の本や、演芸関係の本もけっこう出している。
 井上孝之は2009年1月6日、公式サイトで引退することを表明し、引退ライブはNHKで放映された。ミッキー・カーチスが『One Way Ticket (To The Blues)』を歌い、井上孝之がやや長いソロを弾いたが、これが出色の出来だった。
 ふたりとも、「片道切符でここまで来ちゃったなあ」という感慨にひたったのかもしれない。そう思わせられるほどの出来だった。あれはまた聴いてみたい演奏だ。
 40代の人、それ以下の人で、今日の話がわかる人は、60年代あたりの音楽の研究家か、もしくはお爺ちゃん子で、その爺さんの強い影響下で育ったか、いずれにしても相当ヘンな人だと思うが、そんなに大勢はいないと思う。

愛読するという行為について1028

 長年にわたって疑問だったことがある。
 音楽は気に入ったら何回も聴く。そして、相当聴いても飽きない。本はそうではない。これはなぜだろうとずっと思っていた。これは、自分だけのことなのだろうか、とも思った。というのは、雑誌などに著名人対象のアンケートが掲載されたりするが、質問項目に「愛読書は?」というものがよくあり、彼らはおおむね答えている。だから、この世には愛読書というものがあるということを理解してはいた。それでも、私は「なんで何回も読むのだろう」と不思議だったのである。20代くらいまではそうだった。
 30代にはいったあたりで、半分くらいはわかってきた。まず、音楽は時間なのである。つまり、音楽は時間の流れの芸術であって、もっと言えば、音そのものも時間だ。単位時間あたりの振動数の多寡が音の高低である。音色はどうしてくれるんだとお思いかもしれないが、音色は単なる合成である。サインカーブ(音叉の音)で、ほとんどの音色は合成可能だ。
 人間は、3次元まではわかるが、4次元になるとアップアップである。だから、音楽は繰り返しに耐える。4次元目(時間)は、本質的には、人間にはわからないものなのかもしれない。
 40代に入ったあたりから、本にも時間があることがわかり始めた。論理には時間がない。論理は時間的には凍りついているものだ。だから、ギリシャ時代、春秋時代の論理はいまでも通用する。
 だが、純粋に論理だけで書かれた本などはない。そこにはまず語り口があり、語り口には時間が大きく影響する。たとえ、論理のかたまりのように見える数学書であっても、それを著述するのは人間だから、人間である以上、必ず語り口はある。愛読行為は、まず、その人の語り口に付き合うことだ。
 別の言い方をすれば、本を読む行為は、その本を書いた人の時間性に寄り添う行為なのだろう。書かれている内容、そして表現はもちろん重要だが、それと同時に、その人の時間に寄り添う、あるいは、その人が書いた時間を追体験する。それが読書という行為なのではないだろうか。これは、50歳を超えてわかったことである。遅いにもほどがある。
 もうひとつ、これがわかるためには、私は時間性を媒介にしなければならなかった。ようするに、私が音楽人間であるということなのだろう。
 私がわかるのは、実は音楽だけで、あらゆることはそれを梃子にしてわかったような気がするか、わかったつもりになっているのかもしれない。
 ただし、論理は別。これは、上述した。

日本の旋律は二度死んだ1029

 Cと#Cの間には、実は無限の音がある。だが、西欧音楽は、この無限の音を捨てるところから始まったと言っていい。
 ピアノは平均律で調律されている。これは、1オクターブを均等に12分する。音律には他にピタゴラス律、純正律、中全音律などがある。
 音律は、音階とはちょっと違ったもので、どの音を何Hzでチューニングするかという、物理的なことである。だから、音階と音律とは違うものだ。音律が先で、それによるドレミファソラシが音階である。
 日本の旋律は、二度死んでいる。一度目は、明治維新後の教育制度のなかの唱歌によって。ただ、このときは瀕死ではあったが、完全に死んではいなかった。
 日本の旋律に陰旋律と陽旋律がある。この音律は、平均律が導入されたことにより、瀕死にはなった。だが、死ななかった。私らの年代の人間は、おおむね生まれ育った地域の言葉と、いわゆる標準語のバイリンガルである。これと同じ構造で、おそらく小学校の唱歌と、もともとあった日本の歌と、少なくとも私の母親(母は大正6年生まれ)の世代くらいまでは、バイ音律だった。つまり、平均律と日本旋律はかろうじて並立していたのである。
 昔々は、歌謡曲を芸者さんあがりの歌手が歌うことがよくあったが、全部が全部ではないものの、やはり日本旋律で歌う人がいた。そういった歌を歌うまでの素養が、日本旋律によるものだったのだろう。
 私の母の歌ってくれた子守唄(江戸子守唄)は、「ねんねんこ(ろ)りよ おこ(ろ)りよ」の(ろ)が、ほんの少しだがフラットしていた。ただ、母が歌う唱歌などの、普通の平均律の歌ではそんなことはなかった。
 日本旋律が殺された二度目は、ラジオの普及によってである。平均律による音楽がラジオからガンガン流され、これによって日本の音律は完全に死に絶えたと言っても過言ではない。
 一方、日本音階は、西欧音階からファ(根音ドから4度)とシ(同7度)を抜いたものである。それで、よくヨナ抜きと呼ばれる。ヨナ抜きだから、6音目で1オクターブ。実質5音だから、これをペンタトニックという。世界中の音楽で、ペンタトニックは割合普通だ。むしろ、7音のほうが少ない。このあたりは、一神教と多神教の関係とよく似ている。
 私の世代になると、平均律以外の音律で音楽をやることは相当困難になっている。
 平均律は、鍵盤楽器の発達とともに普及したが、それまでは純正律で演奏されることが多かった。そのため、和音がきれいに響く。平均律は、純正律から見れば近似値である。だから、出たてのときは相当評判が悪かった。純正律だけを聞いていた人からは、和音が濁るのが我慢できなかったのだろう。
 純正律で演奏されたバロック音楽のアルバムがたまにある。でも、普通に聴いただけでは、区別がつく人のほうが少ないだろうと思う。
 これは、普通の日本人が、英語のなかのrとlの音の区別がつかないのとよく似ている。私も言いわけることはできるが、聞きわけることはかなり困難である。

写真記憶ならぬ、録音記憶1030

 写真記憶を持っている人がいる。その名の通り、カメラでバシャッと撮り、そのまんま記憶する能力である。『数の天才たち』という本に出てくるある人は、たとえばモンゴルの広大な草原にいる羊の数を、大きな位から一の位まで数えられたという。「どうやるんだ?」という問いに、前述のバシャッをやった後、その「写真」のなかの羊を端から数えていくのだと答えたそうだ。
 これは、写真記憶とサヴァン症候群との複合能力と思われる。
 人の記憶のメカニズムと、記憶のための方略は、本当に不思議である。
 我がシェアハウスのおばさんは、複雑怪奇な漢字をよく書ける。聞けば、画像として記憶しているという。写真記憶には至らないまでも、画像記憶というものもありそうである。私は、漢字は、実際に書いてみるまでは、その漢字が書けるかどうか、自分ではわからない。たぶん、運動でおぼえているのだろう。
 私には、写真記憶はおろか、画像記憶もたいしてないようだ。だが、録音記憶というものはある。これは、相当優れているのではないかと思う。
 たいていの音楽は一度聞けばおぼえるし、音色までもおぼえられる。だから、再現ができる。多少記憶違いがあっても、おおむねは再現できる。
 しかも、人生の重要な分節点の言葉などは、通常、その言葉を発した相手の声音までおぼえている。もし私に声帯模写の才能があれば、録音記憶から再現できるのではないかとすら思うが、残念ながら声帯模写の才能は皆無である。
 将棋、囲碁などは、有段者クラスになると、初手から終局まで再現できる。これも特殊な記憶力であると言える。
 たしか羽生善治だったと思うが、「よくそんなに複雑な展開の一局をおぼえられますね」という問いかけに対し、「ストーリーとしておぼえているから」と答えたのを読んだことがある。だが、これにしても、論理としておぼえたり、運動としておぼえたり、人により様々なのだろう。
 共感覚者という人たちがいる。聴覚、嗅覚、味覚、触覚などの感覚が、「越境」するというか、別の感覚として把握する人たちである。私が聴いたなかで、一番「激しいなあ」と思ったのは、味覚が、線による多面体のように「視える」人の話だ。思うに、レーダーチャートが折り畳まれたようなものなのだろう。
 ダニエル・タメットが書いた『ぼくには数字が風景に見える』 (講談社文庫)という本は、サヴァン症候群である本人が書いた本であることで、一時期相当な話題になった。彼は、何万桁という数が素数であるかどうか、一瞬にしてわかると言う。「どうしてわかるんだ」という問いに対し、彼は「素数はツルツルしている」と答える。これは、サヴァン症候群と共感覚の複合だろう。
 音楽のことを言えば、私は日本の音楽をコブクロ以降憶えられなくなった。これは、羽生さんの言う「ストーリー」が私にはわからなくなったのか、彼らが「ストーリー」を無視(少なくとも軽視)しているかのどちらかではないかと思っている。
 いずれにしても、人の記憶のメカニズムと、記憶のための方略は、本当に不思議である。

エア・チェック1031

 ジャズ喫茶の話をした折に、金のないジャズ小僧は、当時としては高額なコーヒー代を払い、ジャズ喫茶に通いつめ、いらぬ修業までしてジャズを聴いたと申しあげた。その後、金のない元ジャズ小僧がどうなったかと言えば、エア・チェックを始めるのである。YouTubeが当たり前の時代の人たちには、なんで手間暇かけてそんなことをやるのか不思議だろうが、FM放送を録音するのである。
 音源がなかったんだよ。あっても、高かったんだよ。爺さん、泣いてるのか?
 当時、『週刊FМ』『FMファン』『FMレコパル』などというエア・チェック専門誌まであったくらいだ。その程度はエア・チェックをする人間がいたのである。
 これらの雑誌は、(確か)2週間分のFM放送の番組表がウリで、エア・チェック小僧はそれを頼りにエア・チェック計画を練る。だから、『週刊FМ』以外は隔週刊だったはずである。そもそも、誌名自体がだいぶあやしい。ああ、あやしいのは誌名ではなく、私の記憶ね。50年も前だし、こんなこと思い出すのも40年ぶりくらいだから。『週刊FМ』なんて、実際にはなく、実は私の妄想かもしれない。だが、『FMファン』『FMレコパル』の2誌は間違いない。間違いはないけれども、もしかしたら『FMファン』の正式名称が、『週刊FМファン』だったのかもしれない。なんだか、このへんは、90歳を超えたあたりの武者小路実篤の文章みたいだ。
 その文章は、『週刊文春』の小林信彦さんのコラム中の引用で読んだ。これは確か。終わるかなと思うと終わらず、前の文章がまた出て来て続く。今度こそ終わるだろうと思っていると、またぞろ前の文章が出てくる。信彦先生は、「まるで壊れたレコードみたいだ」とおっしゃっておられたが、なんだか古今亭志ん生っぽい、ひとつの芸のようだった。あの文章はまた読んでみたい。
 当時、FM放送はNHKのものと東京FMしかなかったが、貴重な音源をずいぶん流していた。
 私がクラシックを本格的に聴くようになったのも、エア・チェックがきっかけだっのである。
 その貴重な音源のひとつは、バッハの『無伴奏チェロ組曲』で、録音日は72年3月2日、4日。録音場所は虎ノ門ホールだった。放送はそれから一週間後くらいで、2回に分けて放送したと思う。演奏は、ピエール・フルニエ。番組のスポンサーはTDKだった。TDKは当時録音テープメーカーの雄であり、方やこういう番組を流し、こなた録音テープを売り、していたのだろう。
 なかなかかしこい戦術である。そのかしこさのおかげで、私はクラシック(というよりもバッハだな)に目を開かれたのである。

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