狐の嫁入り

ある日のことだ。
縁側で庭を眺めていると、雨が降ってきた。
陽は高く上り、青々とした空が広がっている。雲はそれほど多くない。
にもかかわらず、雨がぱらり、ぱらりと降ってきた。
天気雨だ。
雨は次第に本降りになり、庭の草木を濡らしていく。
草木に付いた水玉が陽の光に照らされて、輝く様はまるで真珠のようだ。
私は着物の袖に落ちた雨粒をそっと払いのけ、空を見上げた。
「天気雨とは、珍しいこともあるものだ」
一人呟く。
それから不意に、先日出会った女のことを思い出した。

その女は、私は狐だ、と言った。
女は近所の団子屋の娘だった。
つい先日にも挨拶を交わした近所の娘が、実は狐だと言うのだから、私はたいそう驚いた。
しかし、そんな私に、その娘は言う。
「あまり驚かれないのですね」
「そんなことはない。驚いている」
以前から感情が顔に出ないとはよく言われるが、これほど驚いてもまだ足りないらしい。
そんなに変わっていないのだろうか、と自分の頬を撫でさすっていると、娘が伏し目がちに言った。
「やっぱり、信じられないですよね」
私は手を止めて、娘をじっと見つめた。随分と思い詰めた様子だ。
「いや。……何故、私にそんなことを話す?」
そう答えると、今度はその娘が驚いた顔をする。
「信じるのですか」
「なんだ、嘘なのか」
「いえ」
娘は曖昧に口を濁した。そして、困惑を含んだ眼差しでこちらを見つめて言う。
「あの……聞いて頂けますか?」
私が頷くと、その娘はぽつぽつと語りだした。
初めはどこから話していいのか要領を得ない、といった様子の娘だったが、話し始めると溜まっていた何かを吐き出すように喋り続けた。
なんでも、団子屋にふらりと足を伸ばす後藤家の嫡男と、恋仲になってしまったという。
後藤家とは近隣に屋敷を構える由緒正しき武士の家柄である。
武家である以上、団子屋の娘と夫婦になるなど許されない。そして不運にも、ほんの数日前、遂に後藤家に知られることとなった。
「『この女狐が!』と罵られてしまいました」
苦笑いしながらその娘は語る。
なるほど、先程の狐とはそういうことか、と私は思った。
私がそんなことを思っている間にも娘の話は続く。
そして、これで会うのはこれっきりにしよう、と別れを告げに行った際に、後藤家の嫡男から駆け落ちを持ちかけられたと言う。
そこまで聞いて、私は驚いた。
身分違いの恋仲になることは時折噂でも耳にすることであり、特段珍しいことではない。
しかし、武家の家督を投げ捨てて駆け落ちしようとは、只事ではない。
「私は、どうしたらいいのか分からなくなりました。駆け落ちだなんて。……あの方は私のような女狐と添い遂げるということがどういうことか、まだ分かっていないのです」
その娘は俯き、呟くように言った。しかし、不思議とその声に自嘲の響きは見られない。
私はその話を聞いて、何故私にこのような相談を持ちかけたのかを考えた。
自慢ではないが、私はこのような話にはとんと疎い。
「何故私にこの話を?」
その問いに、娘は一度口を開こうとして、首を振る。
「……分かりません」
「分からない?」
本当に困惑した様子の娘を見て、ふと、誰でも良かったのではないかと気付いた。
誰にも吐き出せず、張り裂けそうな胸を抱えているのは苦しい。
誰でもいいから、何でもいいから話してしまいたい。
ただ、その一心だったのではないだろうか。
「お前は、どうしたいのだ」
「……私は」
娘に躊躇いが生まれる。その気持ちは察するに余りある。
だから、私が言えるのはこれだけだ。
「後悔のないように選べばいい。例えそれがどんな結末になろうとも、悔いの残らぬように、決めればいい」
それを聞いて、その娘はゆっくり顔を上げた。その眼差しにはまだ不安の色がある。
しかし、私にはその不安を取り除いてやる言葉を持ち合わせていない。
「お前がどうしようと、おそらく誰かは不幸になるだろう。その時に悔いることのないよう、せめて覚悟は決めておくことだ」
口に出してから、我ながら辛辣な助言だと思い、思わず娘から視線を逸らした。
娘は私の言葉に少し怯んだようだったが、しばらくしてふふっと笑った。
「不器用なんですね」
「生まれつきな」
その答えに、娘は頬を緩ませた。
「ありがとうございます。こんなに楽になるなんて。あなたに話して良かった」
そう言って、娘は微笑んだ。
未だ憂いの混じった笑顔は儚げで美しくて、吸い込まれそうだった。
その笑顔を見て、私は駆け落ちを決意した後藤家の嫡男の気持ちが、少し分かった気がした。

その後の顛末については、私は何も知らない。
ただ言えるのは、あの日以降、私は団子屋にあの娘の姿を見ていない。
娘がどう決意したのか、その後どうなったのかは定かではない。
ただ、この雨を眺めていて、ふと、あの娘は本当に狐だったのではないかと思った。
下駄を引っ掛け、雨の下に出てみる。
日差しを浴びながら、雨に打たれ、不思議な心地がした。
なんとなく遠くの空を見ると、七色に輝く虹が見えた。
それはまるで、駆け落ちする二人を祝福しているようにも見えた。
と、縁側の方から、家内の呆れた声が飛んできた。
「旦那様、またなんで雨の中に。ほら、さっさと中に入ってくださいな」
そう言って、縁側から手招きをする。
「さて、上手くいくといいが」
私は、縁側に戻りながら思わず呟く。
「何の話ですか?」
家内は首を傾げる。
私は泣き笑いする空を見上げて言う。
「なに、狐の嫁入りの話さ」
少しでもこの雨が長く降り続くことを願いながら、私は屋内に引き上げた。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?