2022 10/28(金)
 
21時55分頃、俺は西武池袋線の池袋駅のホームに上がった。
自宅の練馬に向かう為である。目の前には電車がやって来ており、ひとつは「快速」ひとつは「普通」だった。
「快速」の方が3分位早く出発するようだったが、ぱっと見で混雑しているのが分かった為、ぱっと見で座れそうな「普通」に乗ることにした。
予想通り、車内は、ぱっと見通りの空席だらけだった。
22時前とは思えないその雰囲気は、懐かしのゴートゥトラベルで温泉地へ向かうような、のんびりとした雰囲気を醸し出していた。
俺は座って、すぐに鞄から本を出した。
小泉武夫の「奇食珍食」である。読むのは二度目だが、食に関する随筆では日本一の名著ではないかと思っている。
勿論、内田百閒の「御馳走帖」や池波正太郎の「散歩のとき何か食べたくなって」も捨てがたいが、今の所のベスト１は、この「奇食珍食」である。
栞を挟んだページを開けた頃には、先に、快速は走り出していた。
やっぱり、混んでいてもあっちに乗った方がよかったかな、とは微塵も思わなかった。座って帰れる方が、断然良い。
普通電車はゆっくりと動き出した。
車内は、先ほどより人が乗って来てはいるものの、混んでいるということもなく、ソーシャルディスタンスがとれていて安心感抜群である。
本の中では、慶応時代に実際にあった、酒合戦、という酒豪たちが集まる大会のエピソードが細かく書かれており、酒対決の前に、余興で醤油一升を飲む強者などの、嘘か誠か分からない伝説が描かれている。
中には、対決前にまずは余興で酒一升を飲んだ男など、その分をどうして本戦にとっておかなかったんだ、そんなツッコミを入れながら読んでいると急に辺りが静かになった。どうも電車内の様子がおかしい。
本から顔を上げて周囲を見回してみると、ドアが開いたままで、東長崎駅に止まっている。
途端にアナウンスが流れた。
「東久留米駅で人身事故が発生した為、西武池袋線、全線で運転を見合わせています、再開までしばらくかかりそうです」
車掌の申し訳なさそうな声に、一瞬、車内は軽いざわつきを見せたものの、ああ、また人身事故かと、すぐさま冷静沈着、乗り換え検索、が始まった。
ああ、しまった、快速に乗るべきだった。
俺のゴートゥトラベルは、ゴートゥトラブルに早変わりした。
だが、後悔しても遅い。
俺は「奇食珍食」を放り出してスマホで検索を始めた。
だが、付近に別の路線はない。
練馬駅に向かうには、ここで下車して池袋まで歩き、山手線に乗って新宿で乗り換え、地下鉄で練馬駅、もしくは豊島園駅に行くルートがある。
電車を使った方法はそれしかない。
アプリによれば、ここから池袋まで歩くのには３３分かかる。
そこから山手線に乗り換え、地下鉄だと、自宅に着くには１時間位かかる。今、この電車が１時間以内に再開すれば待っていた方がいいが、どうなのだろうか。
気分転換の為に、いったん俺はトイレに行くことにした。
改札口付近では、ルートに迷っている仕事帰りの人々が大勢いた。
トイレに入ったら、隣にいた酔っ払った若者二人がロレツの回らない口調で大声で喋っていた。
「うぃ～再開まで１時間はかかるようぃ～」
「うぃ～マジかよ１時間かよ、なんで分かるんだようぃ～」
「うぃ～俺知ってるんだよ、前にもあったから、人身事故は１時間はかかる、常識だべうぃ～」
「うぃ～じゃあ歩けるとこまで歩くかうぃ～」
酔っぱらいの言うことなので信じていいものかどうか分からないが、歩けるとこまで歩くという言葉に、ふと、そういえば、この東長崎から練馬駅までの時間を検索してないことに気づいた。
すぐに俺はグーグルマップで経路を調べた。
東長崎から練馬駅、３８分。
あれっ、ちょっと待て、ここから池袋まで３３分だったぞ。
これは盲点だった。
あと１時間は待つかもしれないのであれば、３８分歩いた方がいい。
このあと、山手線や大江戸線も事故が起こらないとは限らないが、俺自身の足で歩けば、３８分で確実に練馬駅に着く。
もし、俺に起こるであろう人身事故があるとすれば、考えたくはないが、車に轢かれたり、可能性の高さでいえば、猛烈な下痢に襲われたり、可能性は低いが、車に轢かれるより高そうなのは、なぜか、めちゃくちゃ嫌いな奴にバッタリ会ったりしたり。悪いことはいくらでもイメージできる。
下痢は、コンビニなどのトイレに駆け込めばよいが、めちゃくちゃ嫌いな奴に会った場合、そいつと路上で喋りたくもないのに会話せねばならず、最悪な流れは、そいつがテンションあがってきて、道端ではなんだから、どこかお店でも入ってゆっくり喋りましょうよ、などと、親切のつもりで俺を居酒屋などに誘導、そのまま終電まで、拉致監禁に近い状態となり、当然、支払いも割り勘で、きっと相手の方が盛り上がっているゆえ、酒を飲みまくるので、金額が完全に割り勘負けした俺はこんな時間に歩いて帰りさえしなければ、こんな目に合わずにすんだのに、などど、怒り、そもそもの西武池袋線の人身事故を恨み、負の連鎖がローリングストーンしていく。
と、随分長めの妄想を思いっきり頭に描いてみたが、結論は、もちろん、
ここから、徒歩３８分東長崎～練馬駅コースがベスト１の移動手段である。
仮に、このまま待ち続けても３８分で再開する可能性は低そうである。
よし、歩こう。３８分など余裕のよっちゃんイカである。
俺は、急にハイキングに行くような、実に楽しい気分に変わって、改札口を出た。
※続きは後日