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人生に絶望した時に読みたい本(「それでも人生にイエスという」レビューV.E.フランクル)


お久しぶりの投稿になってしまいました。

最近は原因不明の微熱とひどい倦怠感、動悸や吐き気、睡眠障害、抑うつ、情緒不安定、被害妄想などの症状でほとんど家から出られず、意欲も出ず、一時は死んだようにベッドで寝ることしかできませんでした、、。

今はだいぶ体調の方は良くなってきてきましたが、引きこもりや社会から隔離された存在になってしまうんじゃないかという、恐ろしさと不安との戦いでした。

これではただ寝ているだけの人生になってしまう。。
この人生にどんな意味があるのか。。

そう考えた時に読んだ本を紹介したいと思います。

少し重く堅苦しい内容になってしまうかもしれませんが、
興味がある方に読んでいただけたら嬉しいです!


うつ・適応障害オススメ度★★★★☆

◎人生の意味や価値について考えている方に
◎哲学などが好きな方に
◎希死念慮のある方に
△少し苦しい言葉に感じてしまう人がいるかもしれない部分もある
△哲学的な内容なので症状の重い方は読むのが難しいかもしれない


人間の尊厳とは

作者のフランクルはユダヤ人の精神科医で
ナチスの強制収容所に収容され、
そこで妻を始め家族の多くを
失った経験をします。

人間としての極限状態の中
人間が虫けらのように殺されていく
ような状況の中で
人間として生きることに
果たして意味があるのかと
問いかけました。


あらゆる事物は価値をもっているが、人間は尊厳を有している。人間は、決して、目的のための手段にされてはならない。

カント

この本の冒頭にあるこのカントの言葉です。

人間には他の物質や動物にはない人間としての「尊厳」があるはずです。そのため、物質や動物のように何かの手段として用いられるということはあり得ないことです。

しかし、現代は経済活動の中で人間は「尊厳」を奪われて、経済活動の単なる「手段」にされてしまったとフランクルは主張しています。

人間とその生、その生きる力、その労働力は経済活動のいう「目的」のための「手段」になってしまいました。

収容所では、人間を労働力として徹底的に利用し、人生の最後の瞬間まで、なおその労働力を役立てようとしました。生産的ではなくなった生命はすべて「生きる価値がない」と殺されました。

しかし、そのように生きる意味がないと思われる状況の中で、ただ一つ問題とされたのは「その人がどんな人間であるか」ということ、最後の最後まで問題であり続けたのは、「裸の」人間だったと言います。

全ては、「創造性」を発揮し、「言葉」だけでなく「行動」によって、生きる意味をそれぞれ自分の存在において実現するかどうかにかかっていると主張しています。


人間は楽しみのために生きているのではない

本文の中に死刑囚が最後に何を食べたいかと聞かれ、そんなことはどうでもいいと答えたらという例があります。

けれども、すべての生は、死に面しているので、この死刑囚の言葉(そんなことはどうでもいい)が事実であれば、すべての人の一生も無意味だということになるとフランクルは主張しています。

もし、私たちが、できるかぎりたくさんの、できる大きな楽しみを求め、楽しみを得ることだけを追求するなら、苦しみの多い人生を生きるのは無意味です。

私は眠り夢見る、
生きることがよろこびだったらと。
私は目覚め気づく、
生きることは義務だと。
私は働くーーーすると、ごらん、
義務はよろこびだった。

タゴール

フランクルは、生きると言うことは、ある意味で義務であり、たったひとつの重大な責務だと言いました。喜びや幸せを得ようと努めることはできず、欲することもできない。喜びや幸せは、目標ではなく、結果にすぎないと主張します。
そして、幸せは決して追い求められないものなので、幸せを得ようとすれば、いつも失敗すると述べています。

人間は幸せや喜びのために生きているのではない。それでは、一体何のために人間は生きていると言うのでしょうか。



人生が出す問いに答える

「人生にもうなにも期待できない」
「私は生きる意味があるのか」
と問いかける時、そこにはコペルニクス的転回が必要だとフランクルは言います。

つまり、
「私は人生にまだなにを期待できるか」
という問うのではなく、

私たちは

「人生は私になにを期待しているか」

と問うことが必要であり、

私たちは人生から問われている存在だというのです。

私たちが生きていくことは
人生がたえずそのときそのときに出す問いに答え、そしてそれは
生きていることに責任を担うことだとフランクルは主張します。

なので、生きる最後の瞬間まで私たちは意味ある人生を生きることができるし、どんな重大な時間が、唯一の行動をする一回きりの機会が、自分を待ち受けているかは誰にもわからないと言うのです。

そして、その問は「今」「ここ」において問われているものであり、その答え方には様々な方法があるとフランクルは主張しています。

①活動、余暇
なにかをすること、作品を創造することで問いに答えることができる。
何をするか、どんな職業かよりも自分の持ち場でどれほど最善を尽くしているか、生活がどれだけ「まっとうされて」いるかということが重要だとしている。
各人の具体的な活動範囲では、ひとりひとり、だれもがかけがえなく代理不可能であり、各人の人生が与えた仕事は、その人だけが果たすべきものであり、その人だけに求められているもの。

②体験
愛する存在として、美しいものや偉大なもの、善いものを愛しそれに身を捧げること。

③苦悩
たとえ様々な人生の可能性が制約を受け、行動と愛によって価値を実現することができなくなってもらそうした制約に対してどのような態度をとり、どう振る舞うか、そうした制約をうけた苦悩をどう引き受けるか、ということで価値を実現することができるのです。

運命によって、不幸によって私たちは精神的に成長できるとフランクルは述べています。


そして、人生は、「最後の息を引き取るときまで」意味のあるものに形作ることができると主張しています。


自殺に意味があるのか

人生はいつも、意味を持つことが可能であり、たえず変化する意味に満たされるかどうかは、そのつどそのつどの意味を実現することは、私達の責任であり、私達の決断だと語っています。

そして、チェスの例を用いてこのように語っています。
チェスの選手が、チェスの問題に直面してわ回答が分からず、盤の石をひっくり返したとしても、チェスの問題の解決にはならない。

それと同じで、自分の人生を放り出して、解けないように思われた人生の問題を解決することはできず、それは人生のルールを違反することだとしています。

人生のルールは私達に、どんなことをしても勝つということを求めてはいないが、決して戦いを放棄しないことは求めているとフランクルは主張します。

そして、人間は唯一の存在であり、その唯一性を社会に発揮する時にその真価を発揮することができるとしています。



生きる意味と価値

「生きるとは、
問われていること、
答えること、
自分の人生に責任を持つことである。」

とフランクルはまとめています。

そして、生きることはいつでも課せられた仕事だと主張してきます。

そのため、生きることが困難になればなるほど、意味あるものになる可能性があるということを語っています。

人生それ自体がなにかであるのではなく、
人生はなにかをする機会である!

ヘッベル

私はやっと、自分の人生が何かわかりました。私の人生は、もっといい人間になるために特別に猶予してもらっているものだったのです。

85歳6ヶ月の女性の手紙


第一章の最後に紹介されていたこの二つの言葉が印象的でした。


私が今後実践したいこと

☆「今ここ」で自分が価値を感じることを知る。そして、今できる最大限のことが何かを考え、行動する。

☆人生はマラソンでもあるので、(苦しくなった時に主人が言ってくれた)ずっと走り続けるのではなく、何かを成し遂げるため、休むことも時には必要。

☆自分が今ここで何を問われているのかを考える。(何に一番価値を置いて選択しているか、一時的な感情に左右されず目的を中心として行動しているかなど)

☆苦しむことは何かを成し遂げること。
 苦しみ抜く。

☆リスクがあっても価値があると思ったこと、意味があると思うことをやってみる。


☆自分に与えられた唯一性が周りにどう貢献できるかを考える。




哲学要素があり難しい本ではありますが、もし紹介されている言葉や体験もとても素晴らしいものばかりなので、興味がある方はぜひご一読ください。




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