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擬古典体の愉楽 トマス・ピンチョン「メイスン&ディクスン」 

  のっけから凡庸な説明が許されるのであれば、現代文学の金字塔の評判高いトーマス・ピンチョンの一冊である。その全貌は、何度と齧りながら消化するに至っていないが、なぜかこの小説については2回も購入してしまった。一つには擬古典調の文体での書き出しが、十八世紀の米国の世界へと一気に没入させてくれるからだった。これも言葉の使いまわしの妙にだまされているだけなのかもしれないが、固有名詞ふんだんの風俗描写がタイムマシンの機能を発揮し、二百年前の世界が目の前にあるような感覚を味合わせてくれるのだ。引用では省略しているが、ここにルビがついていて更に楽しい。

雪玉がすうっと弧を描いて飛び、納屋の壁に雪の星を鏤め、いとこ達の体も雪塗れ、帽子はデラウェアの川から吹付ける風の中へと飛ばされる、——橇を家に入れて、滑走部は丹念に拭いて脂を塗り、靴を奥の廊下に仕舞ってから、靴下を履いた足で広々とした台所へ下りてゆけば、朝からざわざわ忙しないことこの上なく、各種各様の釜や煮込鍋の蓋がコトコト鳴る音も合間に挟まって、薄皮焼菓の香料、皮を剝いた果物、牛脂、熱した砂糖等々の香りが振り撒かれる、——子供等は一瞬たりともじっとしておらず、捏ね物を入れた鍋に匙を突っ込みぴしゃぴしゃ調子好く叩く隙にこっそり味見してから、この雪深い待降節のあいだ毎日午後そうしてきたように、家の裏手の心地好い部屋へ向う。もう何年も前から、彼等の過激な攻擊に耐える任を帯びてきたこの部屋には、余生を送るべくランカスター州側の家系から辿り若いた傷だらけの細長いX脚の食卓、これに不揃いの小型長椅子が二つ伴っている、——その他、二番通で仕入れたチッペンデール数点の中には彼の有名な中国風寝椅子の模造品などもあり、紫の生地を何碼も用いて高い大蓋を設え、これをぐるっと引けば快く薄暗い天幕に半変り、更には戦前に英国から送らせた半端な椅子数脚、大抵は松か桜で桃花心木は少く、例外と云えば禍禍しいほど見事な遊戯札卓で、

トーマス・ピンチョン「メイスン&ディクスン」

 今日多くの英国人・米国人も忘れているようであるが、1761年メイスンとディクスンは英国王立協会の命を受けて太陽面の金星通過の天文観測の旅に出る。行先はフランスとの戦争の渦中にある島々。シーホース号には敵船の砲火も待ち受けている。天文観測から帰ってきた二人は今度はアメリカのペンシルバニア植民地とメリーランド植民地の境界線を測量して策定するよう命を受けて再び出かける。この間に1769年の太陽面の金星通過の天体観測があり、二人も候補になるが、選ばれたのはチャールズ・グリーン、その船の船長はキャプテンクックだった。

 珍道中をお笑い満載で描いている小説の方は、読み進めても文字に目を通したに留まるところ少なくなく、著者の期待どおりの謎解きはできていないように思うことしきりであるが、再読を諦めさせない背表紙が今日も本棚で待ち続けている。同好の士の未踏の旅への同行を待ちたい。

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