カズト・コバヤシ

三度の食事のように本を読んできました。澁澤龍彦、種村季弘を先達とする幻想文学の洗礼を受…

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三度の食事のように本を読んできました。澁澤龍彦、種村季弘を先達とする幻想文学の洗礼を受け、栗本慎一郎先生のパンツをはいたサルで評論に開眼。好きな評論家は四方田犬彦、荒俣宏、池田清彦、高山宏、鹿島茂の各先生。好きなアーティストはビリー・ホリディ、デューク・ジョーダン

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  • カズト・コバヤシ ドラマ・映画レビュー

    古い映画とドラマなどのレビューです。

  • カズト・コバヤシBookレビュー(名文・警句・名場面・評論)

    好きな小説・文学・エッセイの名場面名文の紹介から評論までご笑覧ください。

  • 興行師P.T.バーナムの「ペテンの王子様」としての人生

    19世紀最大の興行師P.T.バーナムは「ペテンの王子様」と自称し、奇想天外な見世物で、大衆を驚かせました。

  • カズト・コバヤシ びっくりした話

    エッセイ・雑文をまとめました

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エッセイストを育てる家 三話 ドラマ「父の詫び状」レビュー 向田邦子

 続いて向田邦子原作のドラマ「父の詫び状」を取り上げたい。図らずしも、向田邦子は幸田文の1つ下の世代、青木玉と同じ年1929年生まれである。  ドラマは向田邦子が子供だったころの、父征一郎(杉浦直樹)を中心とした家族の思い出のエッセイ(「父の詫び状」ほか)のエピソードをつないで脚本化したものである。ドラマでの家族の苗字は「田向」と表札に書かれている(向田をさかさまにしている)。向田邦子をモデルにした長女恭子、二女の順子、母しのぶのほか征一郎の実母である祖母千代(沢村貞子)が

    • エッセイストを育てる家 二話 ドラマ「小石川の家」レビュー(続) 幸田文・青木玉・久世光彦 

       ドラマを観たあとで、原作のエッセイも読んでみた。  幸田文の「父・こんなこと」は、父の具合が悪くなったころから亡くなるまで、そして葬儀の顛末が淡々と描かれている。続いて一話完結で父とと暮らしていた時のエピソードの随筆が並ぶ。エッセイでの幸田文の父に対する感情の吐露はあっさりとしていて、父に対抗するような主張もなく、ただ父親とその周辺で起きたことを観察して記述している。まるで、幸田文というカメラが蝸牛庵に設置され、エッセイで撮影した映像を再生しているかのようにも思えてしまう

      • エッセイストを育てる家 一話 ドラマ「小石川の家」レビュー 幸田文・青木玉・久世光彦

         昭和、特に戦前には名エッセイストを育てる家があった。それはどのような家(建物と家族そして父)なのか、いくつかのドラマを通して考察してみたい。  使用人がいる商家や大家族の住むお屋敷ではない。恐らくは名のある旧家の次男または三男が東京に出て自分の家を構えた。家族のそれぞれに小さな部屋があてがわれ、そこからほかの家族の部屋を通り抜けなくても出入りできるように廊下や縁側が備えられている。外からはガラス戸を介して室内の様子は多少伺えるし、ガラス戸を通して庭や離れの家の様子も観察で

        • 本当のP.T.バーナムのついたウソ

           十九世紀のアメリカにP・T・バーナムという男がいた。今日では〈ザ・グレイテスト・ショーマン(世界最大の興行師)』の異名で知られている。コネチカット州の田舎に生まれ、小売店を手伝う中で大人たちのほら話に鍛えられた。ニューヨークに出てペテンビジネスに騙されながら、興行の世界に入っていった。まだ現在のような娯楽産業が成立していなかったこの時期、バーナムはフェイクニュースに近いネタを元にして巧妙な宣伝を仕掛け娯楽イベントを演出して評判を得ていった。  最初に成功した興行はジョイス

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        • カズト・コバヤシ ドラマ・映画レビュー
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        記事

          P.T.バーナム語録&神話になったバーナム

          P.T.バーナム語録&神話になったバーナム

          人生は漫画のコマである ー高野文子「奥村さんのお茄子」ー 補遺(ベンヤミンのパサージュ論とアウラ)

           高野文子さんの作品の愛読者にはあまり関心のない話かもしれないが、その魅力の秘密を探るために、20世紀最大の哲学者の一人との評判のあるヷルター・ベンヤミンを登場させることご容赦いただきたい。  ベルリン生まれのベンヤミンは、「パサージュ論」なる断章、膨大な書物の引用からなる都市論あるいは近代論の研究ノート(草稿)を残した。第二次世界大戦がおきて、身の危険と原稿の散逸を恐れて、その原稿をフランスの国家図書館の司書だったジョルジュ・バタイユに保管を委ねたとの曰くつきである。

          人生は漫画のコマである ー高野文子「奥村さんのお茄子」ー 補遺(ベンヤミンのパサージュ論とアウラ)

          人生は漫画のコマである ー高野文子「奥村さんのお茄子」ー 5話

          書き残していたことがあった。  エンディングでは、醤油さしの先輩が撮影したところの奥村さんの記憶がフラッシュバックのように再生された。体育の授業中の佐久間君。佐久間君たちのドッジボールを見学している今井君。今井君が芝生をむしっているのを注意する浜田先生。浜田先生の白いズボンをカッコいいなと思いながら自転車で移動している郵便配達員の千葉さん。ポストに投函しているユキコさん。ユキコさんの姿を横目に移動しているトラックの下田さん。  これらの6人それぞれが、数コマの3秒の間「自

          人生は漫画のコマである ー高野文子「奥村さんのお茄子」ー 5話

          人生は漫画のコマである ー高野文子「奥村さんのお茄子」ー 4話

           お待たせしていたかどうかはわからないが、作品に戻って、その後のあらすじから続けたい。  異次元の世界のお姉さん(名前がないのでこう呼ぶしかない)がまたやってくる。あの食堂のビデオは1968年6月6日の撮影で間違いなかったと言いながらお別れパーティをしましょうという。そのパーティなる場で、お姉さんはスーパーで買ってきたという茄子の漬物を奥村さんに食べるように勧める。ところが、奥村さんがそれを食べようとすると、突然皿にのったナスを振り払って、食べさせない。「あの茄子毒です」と

          人生は漫画のコマである ー高野文子「奥村さんのお茄子」ー 4話

          人生は漫画のコマである ー高野文子「奥村さんのお茄子」ー 3話

           ここで作品を離れ、漫画のコマについてその成り立ちと意義を考えてみたい。  手塚治虫は当時の映画を参考に現代の漫画のコマ使いの漫画スタイルを完成させた。私は手塚先生や漫画の研究者ではないので、詳しい事実関係は知らないが、「新宝島」を見ればその影響は一目瞭然である。3次元空間の被写体の運動を複数のカメラで撮影し、そこからコマを選んで時間の順番に並べることで映画のような動きあるシーンがケント紙のコマの中で再現できている。余計な書き込みもないのでペンのタッチと絵全体が生き生きして

          人生は漫画のコマである ー高野文子「奥村さんのお茄子」ー 3話

          人生は漫画のコマである ー高野文子「奥村さんのお茄子」ー 2話

           高野文子の大胆なフレーミングと、コマの間の時間の取り方の上手さは同じ作品集の中の「美しき町」の最初の4コマにも確認することができる。こちらは主人公の工員夫婦の奥さんが鉄道の上の陸橋を渡る姿を描いている。  「奥村さんのお茄子」について考察を進めるに際しては、あらすじを説明していく必要があるが、これは簡単ではない。荒唐無稽な背景設定があり、複雑な展開があり、絵の解釈が必ずしも自明ではない。間違いを恐れずに、少しずつあらすじを説明してみることにする。  主人公は商店街の電気

          人生は漫画のコマである ー高野文子「奥村さんのお茄子」ー 2話

          歌舞伎狂言「三人吉三廓初買」河竹黙阿弥 レビュー ー流転する宝剣と循環する貨幣ー 5話

          ここまで本作品を動かしている「義理」、「人情」、「因果」の3つの属性について説明してきたが、最後にこれらの属性を使用して、どのように歌舞狂言というドラマを作るか、その創作術について話を進めたい。  今日書かれている小説でも当たり前のことであるが、実際に起きた事件や史実をもとにしてフィクションが書かれることが珍しくはない。なぜ事件や史実が採用されるかと言えば、「作家がゼロから想像力を働かせて創作をするのは難しいから」と簡単に説明することはできる。    それはその通りでは

          歌舞伎狂言「三人吉三廓初買」河竹黙阿弥 レビュー ー流転する宝剣と循環する貨幣ー 5話

          人生は漫画のコマである ー高野文子「奥村さんのお茄子」ー 1話

           寡作の天才漫画家高野文子。高野文子の作品集「棒がいっぽん」収録の「奥村さんのお茄子」を紹介してその魅力を考察してみたい。  もう数十年前になるが、高野文子というすごい漫画家がいると当時の評論家たちが褒めていた。読んでみた。確かに、漫画は完成度の高い技法とドラマの展開で「ただ者ではない(偉そうな書き方ですみません)」と感じた。エンターテインメント/ストーリー系の漫画ではないのでスラスラ読むような作品ではないが、どこまでも乾いた描写で内向きに籠って自我をいじくりまわすところが

          人生は漫画のコマである ー高野文子「奥村さんのお茄子」ー 1話

          擬古典体の愉楽 トマス・ピンチョン「メイスン&ディクスン」 

           のっけから凡庸な説明が許されるのであれば、現代文学の金字塔の評判高いトーマス・ピンチョンの一冊である。その全貌は、何度と齧りながら消化するに至っていないが、なぜかこの小説については2回も購入してしまった。一つには擬古典調の文体での書き出しが、十八世紀の米国の世界へと一気に没入させてくれるからだった。これも言葉の使いまわしの妙にだまされているだけなのかもしれないが、固有名詞ふんだんの風俗描写がタイムマシンの機能を発揮し、二百年前の世界が目の前にあるような感覚を味合わせてくれ

          擬古典体の愉楽 トマス・ピンチョン「メイスン&ディクスン」 

          歌舞伎狂言「三人吉三廓初買」河竹黙阿弥 レビュー ー流転する宝剣と循環する貨幣ー 4話

           続いて、人間関係について考える。ここまで物語のキーとなる「宝剣」と「貨幣」との2つのオブジェを考察してきた。これらは人と人の間を流転/巡回していく。つまりは人間関係のネットワークがあってこその流転/循環である。それではその人間関係はどうなっていただろうか。ここまでのあらすじから、主人公3人に限って人間関係を整理してみると以下のようになる。  このように整理しただけでも、人間関係は複雑かつ多重化していることは容易に理解できる。  ここで、少し物語から離れて、人間関係の成り

          歌舞伎狂言「三人吉三廓初買」河竹黙阿弥 レビュー ー流転する宝剣と循環する貨幣ー 4話

          歌舞伎狂言「三人吉三廓初買」河竹黙阿弥 レビュー ー流転する宝剣と循環する貨幣ー 3話

           次は、百両の循環である。こちらは誰にもあって困らないお金である。本来の機能であれば、その循環によって社会と庶民が潤っていく。日本銀行を創設した渋沢栄一は、ちょうどこの作品の発刊の7年後の1867年に民部公子の共としてパリ万博にでかけた。渋沢はパリで、政府と大きな商店の間だけを流通する貨幣の経済ではなく、庶民の蓄えた小金が合本され社会へ投資され利益が還元される資本主義経済の重要性を見出した。例えるならば、身体の末端の毛細血管のように貨幣が巡回する経済である(鹿島茂「論語と算盤

          歌舞伎狂言「三人吉三廓初買」河竹黙阿弥 レビュー ー流転する宝剣と循環する貨幣ー 3話

          歌舞伎狂言「三人吉三廓初買」河竹黙阿弥 レビュー ー流転する宝剣と循環する貨幣ー 2話

           ここまでのあらすじをもとに、宝剣(庚申丸)とお金(百両)のそれぞれが次々と人の手を渡っていくことについて考察する。まずは、古今東西の物語の中での宝剣の役割について。  神話・建国の時代には宝剣は「英雄そのもの」の象徴である。日本であれば草薙剣である。国が治まって王朝の世襲体制が確立すると、それは「王権の正統性」を示す三種の神器(の1つ)に変化する。ときに宝剣は、世襲の証だけではなくて、建国(中興の祖)のヒーローがかつて存在していた正統なる王朝の末裔であった、というややこし

          歌舞伎狂言「三人吉三廓初買」河竹黙阿弥 レビュー ー流転する宝剣と循環する貨幣ー 2話