はじめに
第16回東京大学五月祭記念弁論大会に出場してから1年が経とうとしている。この大会では、「呪縛」という演題で弁論をやらせて頂いた(ギリギリで演題変更したため、パンフレットには「ホンネ」と書かれている)。
2、3回もテーマ変更したくらいには迷走したので、当時の演練幹事や東大弁論部様には多大なる迷惑をかけてしまった。本番当日では、かなり炎上し、「弁士演壇から降りろよ」という野次を本当に聞くことになった。そんなこの弁論だが、私にとっては完全に黒歴史と化しており、つい先日まで原稿を読み返すこともできなかった。今になってやっと向き合えるようになったので、この機会に、この弁論の何がよくなかったのかを解説(というか、批判というか、分析)していきたい。後輩に同じ過ちを踏んでほしくないというのもあるが、それ以上に自分の中でこの弁論に折り合いをつけたいというほうが圧倒的に大きい。
本文
では早速読んでみよう。この弁論は、まさかの英語から始まる。
【導入部① 『1984年』の例】
小説の引用から、「言葉は思考を規定する」というテーマを導入している。しかし、フィクションの域を出ない。「言葉が思考を規定する」という命題が事実だとしても、それを小説の例を用いて説得することはできない。
【導入部② 言葉には力がある】
言葉が思考をどういうふうに、どこまで規定するのかというのが定まっていない状態で、「言葉は思考を規定する」と言っているため、正しいか正しくないか議論する以前の状態になっている。また、「誰かの励ましの言葉に元気を出す」というのは、先ほどの『1984年』のパートで出したような言葉による思考の規定とは別の話であるのに、あたかも一緒かのように話してしまっている。
※ちなみに「言葉が思考を規定する」という発想はサピア=ウォーフの仮説と呼ばれているが、この仮説自体も、「言葉は思考を完全に規定する」という強い仮説と、「言葉は思考に多少影響を与える」とする弱い仮説がある。
【言葉の危険性① 「自由」の例】
このパートでは、①「言葉が曖昧であること」と②「言葉とイメージが脳内で結びついていること」があたかも因果関係があるかのように説明されているが、特に説得力のある形では示されていない。「なんとなく」ってワードを使って、①と②が結びついているように見せかけているだけである。それに、ここで言いたいのは、
①『言葉は曖昧である』にも関わらず、②『言葉は思考を規定する』から、思考は曖昧なものにならざるをえないよね
ってことだから、そもそも①と②に因果関係がある必要もない。
【言葉の危険性② 「いい子」の例】
まあなんとなく分かる気もしないでもないが、説得力があるかと言ったら微妙。「いい子」の例がだれにでも当てはまっているかはどうかは微妙だし、「いい子」という言葉が規定する力として働く要因は、イメージの問題というよりかは、大人の期待の押し付けという面が大きいと思う。
【言葉には曖昧さが必要】
先ほどの「いい人」の例で、言葉の曖昧さを問題視したかと思うと、ここで言葉の曖昧さを肯定している。言ってることは確かに分かるが、弁士がどこに価値を置いているのかが分からなくなってしまっている。そのため聴衆に問題意識が共有できていない。
【結論】
ここでまさかの結論。ここで「言葉の曖昧さを認識しろ」と言っても、一つ前のパートで言葉の曖昧さを肯定しているので、弁士の主張に従う動機付けが聴衆にない。
【締め】
ここが一番炎上したポイントである。ここで述べられている発想自体には今でも同意する。しかし、それをここで言ってどうする。解決策を提示します!!と言って聴衆を驚かせる必要もないし、「解決策を提示する」と宣言して、聴衆に「何か策を出すのだな」という期待を抱かせておいてわざわざ裏切る必要もない。聴衆を無意味に困惑させている。
全体を通して
読んでもらったら分かるように、正直かなりヤバ弁論である。今考えると、当時の自分も自分が何言ってるのか分かってなかったと思う。
まずもってこの弁論のメインテーマである、「言葉が思考を規定する」がそれぞれのパートで全く別の意味で使われてしまっている(以下参照)。
『1984年』の例:ある言葉がないと、それが指し示す対象を思考できない。
励ましの言葉の例:言葉を使うことで誰かの心理に影響を与えられる。
「自由」、「いい子」の例:言葉とイメージが結びついている
にも関わらず、それらがあたかも同じことを、言っているかのように語られている。これは、言葉の曖昧さが引き起こす、「多義性の誤謬」という一種の詭弁である。この弁論で訴えた”曖昧な言葉の危険性”が、意図せずもこの弁論で実証されているのは皮肉である。
また、この弁論全体のロジックが全く定まっていない。「言葉が思考を規定する」ということと、「言葉が曖昧である」ことが、どういう論理的関係にあるのかが分からない。そして結論の「言葉の曖昧さを認識しろ」という主張を実践する動機付けが全くできていない。そういったもろもろの結果として、全体として弁士が何を言いたいのかが分からなくなっている。説得とかそういうの以前の状態である。
反省
このような弁論になってしまった根本原因は、そもそも説得内容がろくに定まっていない状態で原稿を書いてしまったことにあると思っている。第一稿目から言ってることはブレブレだったのだが、出発点に立ち戻ることなく改稿に改稿を繰り返し、無駄に精神と体力を消費してしまった。毎晩のように徹夜し、完全に弁論鬱になっていた気がする。弁論は、高い精神的、知的体力が要求されるため、精神的な健康と余裕は絶対条件である。当時の僕は、もうまともに一から弁論を考え直す精神的余裕なんてなく、ぐちゃぐちゃの論旨のまま、とにかく3000文字をかきあげることだけで精一杯だった。
(このような経験があったため、指導者としての私は、原稿を書かせることより先にロジックを詰めさせ、できるだけ改稿を少なくするのを目指す方針を一貫している。)
確かに、弁論として欠陥が多いこの弁論だが、全面的にではないにしろ、肯定的な評価をしてくださった方は何人かいた。感謝申し上げたい。
追記
今現在、この弁論の解決策については自分なりの答えをもっている。つまり、言葉が曖昧であることによって引き起こされる問題に対処する方法である。それは以下の3原則にまとめられる。
言葉の曖昧さは、その外延がはっきりしないこと、そして意味が複合的・多義的(=複数に解釈可能)になっていることによって引き起こされる。例えば、「言葉は思考を規定する」という命題は、複数の解釈可能性を持ってしまいそれが曖昧さを引き起こした。
言葉の曖昧さが引き起こす問題についてはこれだけでが語り尽くせないので、またどこかの機会にお話したい。