一年前の自分の弁論を解説してみよう!!



はじめに


第16回東京大学五月祭記念弁論大会に出場してから1年が経とうとしている。この大会では、「呪縛」という演題で弁論をやらせて頂いた(ギリギリで演題変更したため、パンフレットには「ホンネ」と書かれている)。
2、3回もテーマ変更したくらいには迷走したので、当時の演練幹事や東大弁論部様には多大なる迷惑をかけてしまった。本番当日では、かなり炎上し、「弁士演壇から降りろよ」という野次を本当に聞くことになった。そんなこの弁論だが、私にとっては完全に黒歴史と化しており、つい先日まで原稿を読み返すこともできなかった。今になってやっと向き合えるようになったので、この機会に、この弁論の何がよくなかったのかを解説(というか、批判というか、分析)していきたい。後輩に同じ過ちを踏んでほしくないというのもあるが、それ以上に自分の中でこの弁論に折り合いをつけたいというほうが圧倒的に大きい。

本文

では早速読んでみよう。この弁論は、まさかの英語から始まる。

【導入部① 『1984年』の例】

Big brother is watching you.

ビッグブラザーがあなたを見ている。

この言葉が出てくるのは、『1984年』というディストピア小説です。
これは、ビッグブラザーによって支配された監視社会が舞台にされています。この国では、こちらを凝視するビッグブラザーの顔が書かれたポスターが、街中に貼られています。そして、それに書かれているのが、冒頭に僕がいった言葉です。

ビッグブラザーがあなたを見ている。

国民に自分が監視されていることを強く自覚させるための言葉です。こんな言葉が街中に貼られていたら、誰かに見られているような気がどうしてもしちゃいますよね。気軽に反抗する気なんて起きません。

ただ、この小説で出てくる監視国家の真におそろしいところは、単に国民の行動を統制することではありません。なんとこの政府、国民の思考までも統制するのです。

そんなことできるのか? できるんです

その方法が、「ニュー スピーク」です。
これは政府が作った人工言語です。ニュースピークには次のような特徴があります。
まず、政府に都合の悪い概念を表す語彙が削除されています。そして、政府に都合のいい語彙が追加されています。
例えば、「平等」という言葉はニュースピークにはありません。みなさん、もし、平等という言葉がなかったら、平等について考えることは難しくないですか?平等という言葉自体をなくすことで、国民が平等について考えることそのものを妨げ、政府に反抗しにくくすることができるんです。
ここで『1984年』という小説が教えてくれるのはなんでしょうか。それは、思考というのはどれほど言葉によって規定されているかということです。

小説の引用から、「言葉は思考を規定する」というテーマを導入している。しかし、フィクションの域を出ない。「言葉が思考を規定する」という命題が事実だとしても、それを小説の例を用いて説得することはできない。

【導入部② 言葉には力がある】

言葉は思考を規定します。だから言葉には大きな力があります
みなさんは、誰かの励ましの言葉に、元気を出したことはないでしょうか。本を読んで、新しい発見をしたことはないでしょうか。弁論を聞いて心を動かされたことはないでしょうか。
言葉は思考を規定するんです。

言葉が思考をどういうふうに、どこまで規定するのかというのが定まっていない状態で、「言葉は思考を規定する」と言っているため、正しいか正しくないか議論する以前の状態になっている。また、「誰かの励ましの言葉に元気を出す」というのは、先ほどの『1984年』のパートで出したような言葉による思考の規定とは別の話であるのに、あたかも一緒かのように話してしまっている。

※ちなみに「言葉が思考を規定する」という発想はサピア=ウォーフの仮説と呼ばれているが、この仮説自体も、「言葉は思考を完全に規定する」という強い仮説と、「言葉は思考に多少影響を与える」とする弱い仮説がある。

【言葉の危険性① 「自由」の例】

しかし、だからこそ言葉というものには危険な面があります。なぜなら、その言葉の意味が曖昧だからです。今日は、そういう言葉の曖昧性、危険性についてのお話をしようと思います。

自由という言葉があります。自由って、なんかいいっすよね。なんか、魅力的ですよね。

「自由」

どうして、自由ってこんなにいい響きなんでしょうか。

自由を追い求める心は、歴史上人類に力を与えてきました。あらゆる革命や、歴史的偉業も、自由という言葉があったからこそ、成し遂げられたのです。フランス革命や、アメリカ独立戦争などがいい例でしょう。日本にはもともと英語のリバティを意味する単語がなかったため、あの福沢諭吉先生が「自由」という言葉をあてたそうです。

ですが、自由という言葉は人とか文脈によって何を意味してるのかは大きく変わります。いったいなにからの自由なのか、どれほどの自由なのかで、全く別のものを指すことだってあるのです。にも関わらず、基本的に自由というのは望ましいとされています。自由という言葉をふりかざせば、それは正義とされてしまうことが多いのです。もしそれに反対すれば、自由を脅かすものというレッテルを貼られてしまうかもしれません。

ワンピースを読んだことはありますか?主人公ルフィは自由であることを絶対正義として海を旅していますが、彼が自由の意味を考えているとは思えません。しかし、ルフィから語られる自由という言葉の説得力に、一味のメンバーは魅了されるのです。
なぜなら、自由という言葉の意味が広く曖昧なゆえに、なんとなくよさげなイメージが脳内で結びついてしまっているからです。そして、その意味の多義性や矛盾性に気づかれることは、あまりないのです。
曖昧で響きのよい言葉は「なんとなく正しそうな」、そういう印象を私たちに与えます。そして、無批判に受け入れられ、また人を支配するのです。

言葉は思考を規定します。ですが、その言葉の意味が曖昧なんです。
言い換えると、曖昧な言葉が、曖昧に私たちの脳を規定してしまうのです。

このパートでは、①「言葉が曖昧であること」と②「言葉とイメージが脳内で結びついていること」があたかも因果関係があるかのように説明されているが、特に説得力のある形では示されていない。「なんとなく」ってワードを使って、①と②が結びついているように見せかけているだけである。それに、ここで言いたいのは、

①『言葉は曖昧である』にも関わらず、②『言葉は思考を規定する』から、思考は曖昧なものにならざるをえないよね

ってことだから、そもそも①と②に因果関係がある必要もない。

【言葉の危険性② 「いい子」の例】

それゆえに、また弊害も生まれます。

いい子になりなさい!親や先生からこんなこと言われたことある人いると思います。「いい子」になれ。一見とても妥当な願いのようにも思えます。なぜなら、「いい子」という言葉にはとても、なんとなくポジティブなイメージが付随しているからです。だから、大人の言う、いい子になりなさいという言葉はかなり強い力をもって、私たちを規定し、縛り付けます。
しかし、ではいい子っていったいどんな子でしょうか?

優しい子?

勉強ができる子?

もしかして、親にとっての都合のいい子?

正直よく分からない。

「いい子」にならなきゃいけないのは分かる!だけど、その「いい子」がいったいどんな人なのかがいまいち分からない。実際、それを言ってきた親や先生も果たしていい子がどんな子かを理解していたのでしょうか。
じゃあ僕はどんな人間を目指せばいいんだ!
こんな、いい子なんていう曖昧な言葉にしばられるから、私たちは悩み、苦しみを抱きながら成長しなければいけなくなったのです。

そもそも、言葉というのはそれ自体に明確な意味がくっついているわけでなく、けっこう曖昧なんです。特に、「自由」とか、「いい」とか概念的な意味を表す言葉というのは、使っている人もその意味を理解していないくらいに曖昧です。そんなとき私たちは、言葉の意味というよりかはむしろその言葉によって喚起されるイメージで言葉を理解しているのではないでしょうか。そう、言葉は曖昧なんです。

まあなんとなく分かる気もしないでもないが、説得力があるかと言ったら微妙。「いい子」の例がだれにでも当てはまっているかはどうかは微妙だし、「いい子」という言葉が規定する力として働く要因は、イメージの問題というよりかは、大人の期待の押し付けという面が大きいと思う。

【言葉には曖昧さが必要】

ですがみなさん、言葉には曖昧さが必要です。
「友達」という言葉に厳密な定義をされたら、生きにくくないですか?ここからは友達で、ここからは友達じゃないねってなったら、いやですよね。
言葉に曖昧さがあるから、幅のある関係を築くことができるのです。言葉に曖昧さがあるから、私たちは一つの言葉を様々な解釈で使うことができるんです。限られた語彙で無限の表現ができるようになるんです。

だから当然、人や文脈によってその意味は変わります。しかし、社会において日常的に使用されている言葉は、その意味がわざわざ検討されることはめったにありません。だって、しゃべっている言葉の意味をいちいち気にしていてはきりがないですよね。会話なんてできたものじゃない。言葉の意味が曖昧なまま、曖昧であることに気づかず使ってしまうというのは、人間である限り避けられないのです。人間が言葉という欠陥品を日常的に使うためには、しかたのないことなのかもしれません。

先ほどの「いい人」の例で、言葉の曖昧さを問題視したかと思うと、ここで言葉の曖昧さを肯定している。言ってることは確かに分かるが、弁士がどこに価値を置いているのかが分からなくなってしまっている。そのため聴衆に問題意識が共有できていない。

【結論】

しかし、言葉は思考を規定しているという事実を忘れてはいけません。まるで呪いのように、私たちを縛り付けるのです。特に意味が曖昧で空虚な言葉を無自覚に使うことは、私たちに誤解や苦しみをもたらすことにつながるのです。「いい人」という言葉の呪縛はまさにそれを表しているのではないでしょうか。
だから私たちは言葉の曖昧さを少しでも認識しなければいけないのです。

ここでまさかの結論。ここで「言葉の曖昧さを認識しろ」と言っても、一つ前のパートで言葉の曖昧さを肯定しているので、弁士の主張に従う動機付けが聴衆にない。

【締め】

ながながとお話しましたが
ここで、一点の解決策を提案します!!!!!!!

思い出してください。
「言葉は思考を規定する」んです。

みなさん、僕の弁論、僕の言葉を聞いて、言葉の曖昧さ、言葉の呪縛について考えるきっかけができたのではないでしょうか。言い換えるなら、僕の言葉が、みなさんの思考を規定したんです。
もしそうなら、この弁論が、僕にとっての解決策なんです。

呪縛を払う第一歩、それは呪縛を知ることから始まります。
私の言葉が、少しでもみなさんの認識を、思考を変えられますように。
ご清聴ありがとうございました

ここが一番炎上したポイントである。ここで述べられている発想自体には今でも同意する。しかし、それをここで言ってどうする。解決策を提示します!!と言って聴衆を驚かせる必要もないし、「解決策を提示する」と宣言して、聴衆に「何か策を出すのだな」という期待を抱かせておいてわざわざ裏切る必要もない。聴衆を無意味に困惑させている。

全体を通して

読んでもらったら分かるように、正直かなりヤバ弁論である。今考えると、当時の自分も自分が何言ってるのか分かってなかったと思う。

まずもってこの弁論のメインテーマである、「言葉が思考を規定する」がそれぞれのパートで全く別の意味で使われてしまっている(以下参照)。

  • 『1984年』の例:ある言葉がないと、それが指し示す対象を思考できない。

  • 励ましの言葉の例:言葉を使うことで誰かの心理に影響を与えられる。

  • 「自由」、「いい子」の例:言葉とイメージが結びついている

にも関わらず、それらがあたかも同じことを、言っているかのように語られている。これは、言葉の曖昧さが引き起こす、「多義性の誤謬」という一種の詭弁である。この弁論で訴えた”曖昧な言葉の危険性”が、意図せずもこの弁論で実証されているのは皮肉である。

また、この弁論全体のロジックが全く定まっていない。「言葉が思考を規定する」ということと、「言葉が曖昧である」ことが、どういう論理的関係にあるのかが分からない。そして結論の「言葉の曖昧さを認識しろ」という主張を実践する動機付けが全くできていない。そういったもろもろの結果として、全体として弁士が何を言いたいのかが分からなくなっている。説得とかそういうの以前の状態である。

反省

このような弁論になってしまった根本原因は、そもそも説得内容がろくに定まっていない状態で原稿を書いてしまったことにあると思っている。第一稿目から言ってることはブレブレだったのだが、出発点に立ち戻ることなく改稿に改稿を繰り返し、無駄に精神と体力を消費してしまった。毎晩のように徹夜し、完全に弁論鬱になっていた気がする。弁論は、高い精神的、知的体力が要求されるため、精神的な健康と余裕は絶対条件である。当時の僕は、もうまともに一から弁論を考え直す精神的余裕なんてなく、ぐちゃぐちゃの論旨のまま、とにかく3000文字をかきあげることだけで精一杯だった。
(このような経験があったため、指導者としての私は、原稿を書かせることより先にロジックを詰めさせ、できるだけ改稿を少なくするのを目指す方針を一貫している。)

確かに、弁論として欠陥が多いこの弁論だが、全面的にではないにしろ、肯定的な評価をしてくださった方は何人かいた。感謝申し上げたい。


追記

今現在、この弁論の解決策については自分なりの答えをもっている。つまり、言葉が曖昧であることによって引き起こされる問題に対処する方法である。それは以下の3原則にまとめられる。

  • 原則① 曖昧な言葉を避けよ

  • 原則② 避けるのが難しければより明確な言葉で(その文脈中での意味を)定義せよ

  • 原則③ 定義が難しければ分解してみよ

言葉の曖昧さは、その外延がはっきりしないこと、そして意味が複合的・多義的(=複数に解釈可能)になっていることによって引き起こされる。例えば、「言葉は思考を規定する」という命題は、複数の解釈可能性を持ってしまいそれが曖昧さを引き起こした。
言葉の曖昧さが引き起こす問題についてはこれだけでが語り尽くせないので、またどこかの機会にお話したい。

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