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英雄の栄光と悲哀を描いた澤田謙『プリュターク英雄伝』を推す

ある個人が成した一生の事績を記した文学、それが伝記文学である。古今東西を通し、その伝記文学の傑作と評されるのが、プルタークによる『対比列伝』とされている。プルタークは紀元46年、ギリシア中部の町、カイロネイアにある名家に生まれた、優れた著述家にして文化人だ。60歳を超えた年齢で、10年をかけ、歴史的な英雄を対比的に描いた同作を完成させた。

シェイクスピアの『ジュリアス・シーザー』もこの作品にヒントを得て執筆されたものだ。

対比列伝からプリュターク英雄伝へ

 
この『対比列伝』、まじめに翻訳すると、文庫本10数冊にならんとする大作であるため(現に岩波文庫版が12冊になる)、すべて読み通すのにたいそうな骨が折れる。そこで、戦前、澤田謙なる評伝作家兼評論家が、そのうち、10名を取り上げ、独自の視点から翻案したのが、この『プリュターク英雄伝』なのである。

講談社から刊行されたのは、1930年、昭和5年のことであり、現在は講談社学芸文庫の一冊として手軽に手に取ることができる(本体1700円と少々お高いが)。

取り上げられた10名とは、アレキサンダー、シーザー、ブルータス、テミストクレス、ハンニバルなどギリシャ・ローマ時代の英雄、すなわち政治家であり軍人であるが、文人としてただひとり、哲学者プラトンが取り上げられている。

文章は講談調の心地よいリズム


この作品、講談調というか、文章のリズムがいい。

たとえば、アレキサンダーの項ではこうだ。

〈アレキサンダーこの日の武装(いでたち)は、右手(めて)に長槍をとり、左手(ゆんで)に楯を掲げて、その暟々(がいがい)たる兜の頂には、鬖々(さんさん)たる白羽毛をつけ、勇ましなんど言うばかりなかった。
「それ大将ぞ、討ってかかれ。」
轡(くつわ)を並べて伐ってかかったのは、波斯(ペルシャ)軍にその驍名を謳われたる、レサセス、スピスリダテスの二勇将。
「ヤッ。」
一人を巧みに遣り過ごしたアレキサンダー、骨も透れと、レサセスの胸元めがけて長槍一閃突きだせば、胸甲意外に堅かりけん、槍はアレキサンダーの掌中に砕けて飛んだ>。

まるで、戦国時代、日本のさむらい同士の合戦の場面である。

ブルータス、汝もか!


原題に「対比列伝」とあるように、英雄を対比的に描いたものと先述したが、その「対比」がこの澤田謙版ではかなりわかりにくくなっている。

対比性が唯一、際立っているのが、シーザーとブルータスの記述だ。(澤田いうところの)英傑シーザーをその手で殺めたのが、かの(同)高士ブルータスであるわけだが、シーザーには備わっていた人情味が、ブルータスには欠いていた。

ブルータスいわく、<懇望にほだされる優しい心は、人によれば善い性情と褒めるけれども、大人物にとっては、これぞ最悪の恥辱である>と。
 
シーザーのブルータス評は、「何事に対しても熱中癖があるものの、熱中したら最後、人情も利害も考えなくなる」。そのシーザーにブルータスは殺られてしまうのである。かの有名な「ブルータス、汝(おまえ)もか!」という言葉を遺して。

政治家は船、ボロになればいつでも捨てられる


それにしても、英雄の末路は悲惨である。アレキサンダーは“運よく”病死(でも33歳の若さ!)、シーザーは暗殺、ブルータスは剣による自害、テミストクレスは毒杯を飲み干しての同じく自害、アルキビアデスは惨殺、ペロピダスは戦死、デモステネス、ハンニバルはいずれも毒薬による自害、シセロは暗殺。本書で紹介されている英雄10人のうち、ただ1人、哲人プラトンのみが80歳の長寿をまっとうしている。

こんな挿話が紹介される。

少壮の頃から政治家を目指すわが息子、テミストクレスの将来を心配し、その父が海岸に壊れて朽ちているボロ船を指差してこう言った。「あれを見よ、政治家などというものは、用がなくなると、あの通り、人民に捨てられるのだ」

英雄の暗殺や謀殺、自害を不可避にさせた背後には、人民の嫉妬や移り気、付和雷同があった。それは今でも変わらない。人々は英雄を欲し、その魅力や人柄に熱中するが、別の英雄が台頭したりして、賞味期限が切れると、弊履の如く捨て去るのである。

懦夫(だふ=気の弱い男)をして立たしむ、という言葉があるが、確かにその効果は『プリュターク英雄伝』にはあるが、それに終わらない英雄の悲哀も味わえるところが、本書の読みどころではないか。

惰夫をして立たしむであろう著作群


巻末に澤田の略年譜と著書目録が掲載されている。1894(明治27)年、鳥取県の生まれで、東京帝国大学法科大学を優秀な成績で卒業後、実業家を志すも、就職した総合商社が経営破綻してしまう。何を思ったか、外務省の嘱託になった後、文筆の道に入るが、一時は政治家を志し、衆議院議員選挙に出馬するも、あえなく落選。評伝という分野で、文筆の道を切り開いていくことになる。

著作を見ると、まず戦前は、ムッソリーニ、(英宰相の)マクドナルド、エジソン、ヒットラーといった海外の人物ものから、後藤新平、伊藤博文、北条時宗、山田長政といった日本人ものまで、実に多彩な評伝をものしている。戦後もその筆は衰えず、フォード、フランクリン、キュリー夫人、ベーブ・ルース、リンカーン、アインシュタイン、ワシントン、北里柴三郎、大隈重信、尾崎行雄、はたまたアイゼンハワー、マホメット、ジンギスカンまで、実に多士済々。

この『プリュターク英雄伝』に限らず、懦夫をして立たしむであろう、それらの諸作品の復刊を切に願うものである。

    

 

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