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「〜On The Road.〜」

経営学部マネジメント総合学科 4年
中島省吾

こんにちは。
まずは、平素より多大なるご支援を頂いている全ての方々へ感謝を申し上げます。

自分は、体育会サッカー部で「学生審判」という立場で活動をさせていただいております。

「〜On The Road.〜」大学4年間を振り返ると自分の歩んできた"道"(Road)って他の人と少し違かったのかなと感じてます。
 1人で城西大の門を通り、スタッフの今野さんとスタッフルームに足を運び挨拶をしたあの日から今日まで光の速さぐらいに感じてます。
このタイトルを付けた理由には、自分の「名前」に関連して付けました。

「省吾」この名前を付けてくれたのは父親でした。
自分の父親は、シンガーソングライターの「浜田 省吾」さんが好きで、その方と同じ名前を自分に付けてくれました。

 よく、チームのスタッフとか自分より年齢が上の方々には、「はましょーと同じ名前か!」なんて言われて、名前だけで少し相手と距離感が縮まったような感覚になり「得してるなー」って感じることも多々ありました。
でも、小中学生のときは正直あまり自分の名前が本気で好きにはなれない自分がいました。「なんか、おじさん臭いな。もうちょいかっこいい名前がいいな。」って思うことが多かったので、自分の名前を呼ばれる時に素直に返事できない自分がいました。
あ、でも今は凄く自分の名前に、誇りとプライドを持っていていい名前だなーって感じてます。

・ブルーボタンSCで本格的にサッカーの楽しさを「経験」して

・高崎FCで自分の無力さを「痛感」して

・高崎商業でサッカーに対する新たな「関わり」を見つけ

・城西大学でたくさんの「仲間」が生まれた。

順風満帆なサッカー人生に聞こえるけどその裏には、たくさんの「影」があった。

小学校1年の時に、 父親の影響でサッカーボールをひたむきに追いかけていて、気づいたらサッカー漬けの毎日を過ごしてた。
学校終わりに宿題しないで、公園で毎日ボール蹴って、泥だらけの服を嫌な顔せず洗ってくれたお母さん。サッカー人生でまだ試合に来てもらったことがないのでいい試合があれば招待します。友達が土日に遊んでる中、自分は試合。おじいちゃん子の自分は、どんな場所でもおじいちゃんに送り迎えしてもらって甘えてました。お母さんには「甘やかすな」ってたくさん怒られたけど。
 近所の人にも「しょうご=サッカー少年」って思われるくらい、自分の中でサッカーへの情熱はどんどん強くなる一方だった。

 中学生になり、みんな高崎FCに行くから自分もそこのセレクションを受けた。
でも、天狗になってた自分はそこでサッカー人生で最初の挫折を経験した。
自分より上手い人がこんなにいるのか。公式戦に出れない。膝が悪い自分は思い通りのプレーができない。走れない。身長が伸びなかった。
今でも、サッカー続けてる同期がいるけど、そいつらとの「差」ってどこで生まれたんだろう。いや、この時だと思う。

 高崎商業のサッカー部に入り、ここで初めて「部活」っていうのを体験した。
クラブと違って、学校生活+部活とチームメイトと過ごす時間がとても多かった。
でも、中学でサッカーに対する灯火は消えかけていたからサッカーが楽しくなかった。
サッカー辞めようかな。逃げちゃおうかな。自問自答する日々。監督に言うか言わないか。監督室のドアの前でモジモジしてた。
でも、言えなかった。ここで辞めたら「自分に負けた。」気がするから嫌だった。
 そんな時に、" 審判 "でサッカーに関わることを見つけた。副審しててオフサイドの見極め楽しいなって感じる自分がいた。「これなら、まだ頑張れそう。」妥協策ではないけど、そのくらいの気持ちで始めたのが審判だった。
 審判で頑張ろう。自分のベクトルを変えた矢先悲劇が起きた。
「大好きなおじいちゃんが亡くなった。」高2の大晦日近くだった。父親に引きづられおじいちゃんの最期をみた。「なんでこんな時にサッカーしてるんだよ。」最期を見届けられない自分が嫌だった。普段、涙見せない父親が涙を流してる。何もかもが嫌になった。
でも、ここで辞めたらおじいちゃんと一緒に行ったサッカー場や帰りの車中での会話、全部無駄にしてしまう。
「審判で頑張る=おじいちゃんへの恩返し」これしかない。ここから審判への向き合い方は変わった。

 「新しく審判部を作りたい。」城西大学での入試の時に、佐々木部長に言われたこと。自分を必要としてくれていて、力になりたい。即答で「やります。」そう応えたと思う。
それまで、サッカー部がどのくらい強いのか。どこのカテゴリーに属してるのか。まったく知らなかった。
それでも、自分を受け入れてくれた同期の皆んなにはすごく感謝してる。
「学生審判」という新たな仲間を受け入れてくれたこと。
TRMやリーグなどでも、「お前が主審なら安心する。」自分が「城西大学体育会サッカー部の一員になれたんだなー」ってすごく嬉しかったし、同期のみんなはサッカー人生の中で、大事にしたいなって思えた瞬間だった。

高校卒業して、指定校で城西に決まった時、すでにサッカー部で審判することは決まっていたけど高校の同期にも監督にも大学でサッカーすることを伝えてなかった。
「審判=ジャン負けの人がやる」みたいなイメージあったから、バカにされるしあえて伝えてなかったんだと思う。

初めて、城西大のグラウンドに行った時、堀越 竜成が「だれ?コイツ?」みたいな感じで見ていたのが懐かしい。
高校の時から知ってるし、ずっと憧れの選手だったからそんな人と一緒のグラウンドに立っているのを運命だと感じてた。夢の時間だった。
 審判してて、有難い事に色んな大きな試合に関わらせて貰ってて、いつも思うのは「竜成と共に"頂き"に立ちたい。」って思いながら、ピッチに立ってる。
竜成のおかげで2部に昇格決めた「浦安競技場」にアミノ・日韓戦で立った時に「このピッチに竜成も立ちたかったんだろうな。」って思いながら笛を吹いてる。「審判で1級になりたい。」口では簡単に言える。でも、Top Of Topの景色を観てみたい。背中で語ってた竜成も常に、「頂点」を見てたから。だからそれが竜成の観たい頂点の景色なのかもしれない。竜成。まだまだ通過点だからこれからもよろしく。

そんな自分は平日の活動では、亘 監督に無理をお願いして女子部門の練習に参加させて頂いてる。正直、「男子が練習にいる」っていうことに全員が納得してくれていないと思うけど、受け入れてくれてとても嬉しく感じている。山梨大学と行ったリーグ戦に帯同したけど、後半に逆転劇を見せられた時に「みんなの一つ一つの能力って自分が思うより凄いものがある」って感じてこのまま頑張って欲しいなーって思う。

いつも、ヘラヘラしてるしチャラチャラしてるから人生楽しそうって見られるかもしれないけど、実際そんなことなくて、キツい時はしんどいしナイーブな気持ちによくなるんですよ。でも、あんまり感情を他の人に見破られるのが恥ずかしいし、ピッチにまでその感情持っていきたくないからポーカーフェイスでやり通すしかないって感じる。

でも、そんな時に審判部の後輩とか学連の審判部とか同期とか後輩のみんなとか色んな人に支えられて"今"を生きてるなって常々思う。

これからの城西大学って勢いしかないと感じてます。最高なグラウンド環境・審判の充実・スタッフや選手のリスペクト挙げれば挙げるほどたくさん出てくる。
だから、置かれた場所で咲きなさいじゃないけどこの環境をアドバンテージにどんどん上にいってほしい。みんな、"頑張れ!"

 最後に、浜田省吾さんの言葉でこんな言葉があります。
"僕は賞は別にいい。

だって、すでに
ハマショーという立派な賞を

みんなから
もらっているから。"

自分も「中島 省吾」って名前がみんなの頭の片隅に残ってればそれでいいかなって思ってます。4年間ありがとう!最高でした!またどっかのグラウンドで会おう!

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