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「笑えりゃいい」

経営学部マネジメント総合学科 4年
栁原光汰

まずは、両親、家族、これまで自分に関わってくれた全ての方々に感謝します。
本当にありがとうございました。




18年間のサッカー人生が終わりました。



朝起きれば練習に行く準備をして、練習が終わって夜になれば、明日の練習時間を確認して寝る。
練習や試合の後にみんなでご飯に食べ行ったり、
嫌でもグランドに行けばみんなに会える毎日。

そんな日がもう来ないと考えると寂しいですね。というか、今そうなって寂しいです。とても。



そして、気づけば引退ブログを書く日がやってきました。1年の時から最初で最後のブログは、これまでのサッカー人生を書き綴りたいと決めていました。
なので、この18年間を振り返ります。
だらだらと長く、文章がおかしいところもあると思いますが、読んでくれたら嬉しいです。





サッカーを始めたのは、4歳の時。
なぜサッカーを始めたのか思い出そうとしたけど、これと言ったきっかけは思い出せず、気づいたらボールを蹴っていたと思う。

やんちゃな子どもだったと聞いていたので、きっと真面目に練習なんてしていなかったでしょう(笑)




小学生になり、『FCベガ』という地域の町クラブに入った。練習場所は近所の雑草だらけの公園。
もちろん普通の公園なので、サッカーゴールなんてなく、パスやトラップも浮いて、こんなのサッカーじゃないでしょって感じ。(笑)
でも、間違いなくあの雑草グランドでの経験が生きていた。


4年生の時、もうすぐ都大会を控えてた中で、交通事故で頭を縫って生死を彷徨った。

今、生きれていることが奇跡というくらいの交通事故。
都大会の出場は諦めてたけど、自由交代だったということもあり、頭に包帯ぐるぐる巻きでフリーキックだけ蹴りに出してもらった。良い思い出だ。


トレセンという選抜チームにも選ばれた。
トーマスカップにも出場し、そこでは今、日本代表やJリーグで活躍している選手が沢山いた。


正直それまで、
自分はプロになれるものだと思ってたけど、この大会で意味わからないくらい上手い選手だらけで、自分じゃプロなんて厳しいのではないかと自信を失ったのを覚えてる。



中学生になり『tfa (田口FA)』に入った。



ここで最初の挫折を味わった。

両膝のオスグッド、疲労骨折というサッカーなんてできるはずのない、痛みの怪我。

この怪我により2年生の丸一年は棒に振った。



3年生になり、

『全国レベルの強豪校に行きたい』

そんな気持ちを後押ししてくれているかのように、チームの調子も良く、注目されていて強豪校のスカウトマンが、毎週のリーグ戦に見に来ていた。

嬉しいことに強豪校から多数、声をかけて頂いた。


その頃、
なぜか親元を離れて寮生活したいという気持ちが強く、その年に全国高校サッカー選手権に出場していた『山梨学院高校』から声をかけて頂いたので、入学を決めた。


そして、最後の関東大会での相手はヴァンフォーレ甲府。同じ山梨ということで何かの縁では、と思いつつ、結果は案の定、完敗。

ここで中学サッカーが終わった。




高校生になり、
『山梨学院』という全国レベルの高校でプレーできる嬉しさの反面、自分が通用するのかとても不安だった。



自分なりに努力した結果、
1年生大会や1年生だけのリーグ戦では、ほぼレギュラーを勝ち取ることができた。


そして、

山梨県国体(山梨県選抜)に選出された。

県を背負って戦う試合は、対戦相手を見ても、
年代別日本代表やトップレベルの選手しかいないなか、プレーできたことは大きな自信に繋がり、
ここからが本当の勝負だと感じた。


2年生になり、
セカンドチームではあったものの、
レギュラーで試合に出場することが多かった。


夏の全国インターハイでは、
順調に勝ち上がり、正直想像していなかった
『全国優勝』を掴み取れた。

『日本一』の高校にいるということの嬉しさ、
来年はこの舞台に立ちたいと心から思った。
自分にとって、とてつもなく大きい経験をした。



新人戦では、全試合スタメンで試合に出場した。
チームも順調に勝ち上がって、個人的にも準決勝でキャプテンマークを巻けたことも嬉しかった。


しかし、決勝で帝京第三に負けて、
惜しくも準優勝という形で終わった。

それでも、
来年が勝負の年。絶対にレギュラーを勝ち取る。

という強い気持ちを抱き、頑張った。



3年生になり、
インターハイ全国優勝をしたことで、
サニックス杯(国際大会)に出場できた。









ここまでは、何事も順調にきてると思っていた。というか、きていた。










3年という一番大切な時期に監督が代わり、
サッカーが少し変わってしまった。


それでも
一流の選手は、適応するから試合に出れる。


でも自分にはできなかった。

正直、考え方も何もかも合わなかった。



これが自分の悪いところだというのは知ってた。
悔しかった。
だけど強がって言い訳にしてた。



そこからは、レギュラーを奪われて試合に出る機会もなくなり、去年まで思い描いていたものとは真逆と言っていいほど、かけ離れた。



そんなこんなで選手権の時期になり、
自分はベンチにも入れなかった。


一緒に切磋琢磨してきた仲間がピッチに立つ中、スタンドで応援してる自分。
情けないし、悔しい。悔しすぎる。

両親もわざわざ山梨に観に来てくれてるのに、
本当に見せたい姿はスタンドにいる姿じゃなくて
ピッチに立っている姿なのに。


そして、チームも準決勝で負けた。



試合終了と同時に3年間の色んな思いとともに
涙が溢れてきた。




ただ、最高の仲間に出逢えたこと、
この3年間は自分の人生において、
1番自分を強くしてくれたものだと思う。


だから『山梨学院』を選んでよかったと心から言える。





正直、ここでサッカー人生を終わらせてもよかった。なんなら、終わらせようとしてた。
完全燃焼ってやつかな。と。






でも、やっぱり終わらせたくなった。




そして、『城西大学』に入学することに決めた。


大学1年は、
コロナでまともに練習や試合ができなかった。
それでも、Aチームでスタメンで試合に出る機会も増え、自分なりには順調な1年目だった。



大学2年、
シーズンの最初にトップチームに昇格して、
より高いレベルのなかでプレーできることが嬉しかった。スタメンで試合に出ることは少なかったけど、自分なりに成長できていると実感した。

そんな中、スタメンで試合に出れた。
しかし、前半開始早々相手の頭が口に入ってしまい、大量出血、挙げ句の果てには脳震盪という形で病院に運ばれた。

そこから完全復帰するには3ヶ月かかった。
その後は、試合にも絡めなくなってしまった。



3年生、
今年こそは。と思っていた矢先、
カテゴリー発表で、Aチーム。

この瞬間、サッカーが本当に嫌になって、


同じピッチでプレーしていた多くの選手は、
プロの世界で活躍していたり、大学サッカーで主力として活躍していたりするなかで、
自分は何をしてんだろう。

部活やってる意味あるのかな、
バイト金貯めて、好きなもの買って、
旅行行ったりして遊びまくる人生のが楽しい
って思った。



それでも、
結果はどうであれ途中で投げ出す自分が嫌で、許せなくて、
やり続けることに意味があるんだと思って
その年はIリーグで沢山試合に出て
今自分にやれることやろうと思って頑張った。



4年生、
彩の国カップ予選、背番号ももらえなかった。
なんならトップチームにも上がれなかった。

でもやるしかないことはわかってたし、
やるって決めたらやるんだから結果は関係ない。

そう思って努力していたら、
チームが予選で優勝した。

埼玉県決勝での試合、
背番号は3番、ベンチ入りを果たした。

試合には出れなかったけど、
ベンチ入りという一つの目標に達成できた。



関東リーグが開幕し、チームも調子。
前期の開幕戦ほとんどのベンチには入ることができた。試合をベンチで眺めて、勝つたびに嬉しいけど悔しい気持ちだった。


そんな中で、
神奈川大学戦、大事な首位攻防戦でチャンスは来た。後半、アクシデントで1人少なくなった状態で、名前が呼ばれ、予想もしてなかった関東リーグデビューをした。
試合には負けたけど、個人的に手応えがあった。


翌週の東京学芸大学戦では、
スタメンフル出場することができた。
大学サッカーで一番緊張した試合になったけど、勝てて嬉しかった。


試合後、
真っ先に自分のところに来てくれたこうたろうさんとのハグの瞬間、腐らず頑張ってきてよかったと思える1番の時間でした。
一番苦しい時期に試合に出し続けてくれて
ありがとうございました。




翌週の慶應大学戦も頑張ろうと、勝手にスタメンかと思っていたけど、ベンチスタート。
悔しいを通り越しましたね。


その後も前期は途中出場一回のみ。



後期になり、
ベンチにも入る回数が減った。
それでもチームは絶好調のなかで自分にできることは何か、試合に出れることが全てではないと考えるようにした。

みんなには笑って誤魔化してたけど、
それは強がってるだけで、
悔しさを隠してるだけで、内心は悔しすぎた。


それでも、
4年生という立場で自分が試合で出れないから、腐ったりチームのために動かないのは違うと思い、自分ができることをやり続けた。


火曜日の走りも、長期オフ後のきつい走りも、1年の時から入るようにしてた。試合に出れなくても、あたりまえのことはあたりまえに頑張ってきた。




そしてリーグ最終節で優勝決めて、
みんなで喜び合った時、初めてやり続けてきて良かったと心から思った。



そして何より、

この大好きな4年のみんなと笑って過ごした時間は忘れることなんてないし、この学年でよかったと思います。来年も沢山飲み行きましょう。


後輩もこんな自分と仲良くしてくれてありがとう。


だらだらと長く書いてしまいましたが、



最後に、




辛い時も嬉しい時も、沢山試合見にきてくれて、
一番そばにいてくれてありがとう。


ここまで支えてくれた家族のみんなには
感謝しかないです。
これからも自分なりに頑張ります!









決して思い描くような
サッカー人生ではなかったですが、
それ以上に最高なサッカー人生でした。


これまでサッカーを通じて
出逢えた仲間は一生の宝物です。














最高のサッカー人生でした。
みんなだいすき、ありがとう。

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