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「長倉拓摩の薄っぺらサッカー史」

こんにちは。

現代政策学部社会経済システム学科 4年、体育会サッカー部の長倉拓摩です。


初めてのブログということで、自分の心の中を晒さなければならないのか。という恥ずかしい気持ちでいっぱいですが、今の長倉拓摩をここに綴ります。


800字以上書いてくれという僕のサッカー人生を語るには多すぎる文字数を要求をされました。

文字を増やす為に入れた無駄な言葉など、所々おかしな点があるかもしれません。

是非、寛大な心を持ってお読みください。



さて、本題である今までのサッカー人生について語ります。


このブログの主人公である、長倉家の三男長倉は小学校に入学する前サッカーを始めました。

そして小学校1、2年の頃は親やコーチにえらくリフティングをさせられたのを覚えています。

小学生の時、長倉は本当にサッカーが嫌いでした。その原因は確実にリフティング。


リフティングという(当時)地獄の作業だと思っていた技を、偉大な長倉次男は小学1.2年生でマスターしていました。

それだけでは収まらず、左足が上手く使えるように左足の練習、記憶では家でご飯も左手を使って食べようとしていました。

左手上手くなれば左足も上手くなるでしょ理論。

弟は兄を見て育つと聞いていたのですが、弟ながら兄の異常なほどの努力は真似をしようとは思いませんでした。

小学生時代にはすでに、プロになった次男とは圧倒的に差がついていました。


今でも覚えていますが小学生の長倉は、将来JFLくらいで楽しくサッカーやれればいいな。って思っていました。

Jリーガーさんたち、舐めててすみませんでした。



そんなポンコツ長倉少年は中学に上がり地元中学の部活動に入りました。

中学生の長倉拓摩は部活動を真剣にやるということをしない、しょうもない子でしたので、書くことはありません。


ポンコツからしょうもないグレードダウンした長倉の高校選びは、次男が通っていた高校に進学することにしました。

と言っても兄ちゃんはJリーグ下部組織のユースチームで僕は部活動でしたが。

次男のいる高校へという安直な発想だったのですが、その選択は間違っていなかったです。


監督やスタッフの方々がサッカーに打ち込める環境や精神状態にしてくれたこともあって、毎日友達と遅くまでボールを蹴り、サッカーを初めて純粋に楽しんでいたのがこの頃でした。

長かったサッカー人生で僕の細い目が1番輝いていたのはこの頃じゃないかな。



そして月日が経ち、少し成長したアホ長倉は現在所属する城西大学に入りました。


正直4年間のほとんどが苦しい思い出でした。


万年Bチームだったし。


それでもBチーム最後の試合でこーたろーさんやたじさん、にし君を泣かせられたのは本当によかったなって思ってます。

やっててよかったなって。


本当にBチームの皆んなには感謝しています。


来年は1部で頑張れ!


気づいたら800字なんて超えていました。

意外長くなりすみません。読み切りまでもう一踏ん張りお願いします。



大学生活を終えようとしてる半人前長倉が結局なにが言いたかったのかというと、こんな薄っぺらいサッカー人生でも15年以上サッカーやって来れたよ。ってことです。

それはチームメイト(僕からしたら友達って表現が合ってるかも)として巡り合ってくれた選手たちやスタッフに、ものすごく恵まれたからだと感じています。


特にBチーム生活だった大学サッカーは同期のみんながすごいモチベーションでした。

もっと話したい、笑かしたい、バカしたいなって。

できればもっとみんなと一緒にいたかった。サッカーがしたかった。

それが本音です。



何はともあれ、この場を借りてサッカーを通して関わってくれた方々に普段照れ臭くて伝えられないことを言わせてください。


「みんな大好きです。ありがとうございました。」



みんなは言いすぎか。

ついでに先人たちが使い古したありきたりなありがとうより感謝を込めて。


「多くの方々、大好きです。謝謝。」


では、またどこかで👋

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