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体育会と左翼に共通する欺瞞

プロ野球関係のユーチューブ番組では「体罰」「しごき」が定番ネタになっている。「今はこんなことあり得ないけど、昔はこんなことが普通にあった」という話である。
「体罰」「しごき」に対して、巨人の桑田は断固反対の立場を明らかにしているが、体罰、しごきを公然と肯定している人間も少なくない。元西武ライオンズの石毛、元ヤクルトの宮本などがその代表である。

思想の自由は尊重されなければならない。だから、体罰を肯定する思想があってもいい(実際にやれば刑事罰を受けるわけだが、思想を持つのは自由である)。
が、どうも、彼らの思想はインチキくさい。
というのは、彼らが体罰、しごきを「被害者の立場」でしか語らないからだ。

「一年生の時はこんな目にあった」「一年生は奴隷と呼ばれ、人間扱いされなかった」と一年生時代のことしか話さない。上級生になってから、自分が下級生に何をしたかについては絶対に話さない。
体罰、しごきを肯定するのなら、体罰、しごきを必要なものと思っているのなら、自分が下級生にやったことも誇らしげに語ればいい。が、彼らは絶対にそうはしない。自分がしたことには口をつぐむ。あくまでも「被害者」として体罰、しごきを語る。
私はここに欺瞞を感じる。

今日、左翼の人にこの話をしたら、「体育会の欺瞞だ」と言われた。が、私はそうは思わない。体育会の対極にいる左翼も同じだからである。

今年の春、団塊世代の左翼活動家から『きみが死んだあとで』という映画を見るように言われた。1967年10月8日の羽田闘争で亡くなった学生を偲ぶ映画だ。
この学生はデモ隊と機動隊の衝突の中で命を落とした。左翼の活動家はその死を「権力による虐殺」と言う。それはいい。彼は権力に殺されたのだ。

が、私がこの世代の左翼に作って欲しいのは、『きみが死んだあとで』ではなく、『きみを殺したあとで』である。内ゲバで命を落とした海老原君、川口君の死を悼む映画である。権力に殺された人間よりも、内ゲバで死んだ人間の方がはるかに多いのだから、こっちの方が重要だろう。
が、彼らはこの歴史については直視しようとしない。被害者の立場でしか死を語らない。
私はここに欺瞞を感じる。

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