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黒ヘル戦記 第一話 詐病

『情況』2020年冬号に掲載された反体制ハードボイルド小説

第一話 詐病
1992年12月、板橋区の居酒屋から警察に通報があった。「客同士が喧嘩を始めて収拾がつかない」という。この酔っ払いの喧嘩に、なぜか、警視庁は公安刑事を派遣した。事件の背後に何があったのか。

「君は正気なのか。正気で言っているのか?」
「正気ですとも。私は卑怯者です。だけど、正気なんです」
『カラマーゾフの兄弟』より



 1 

 1992年の12月、風の強い夜だった。俺のアパートの電話が鳴った。時計を見ると12時を回っていた。いやな予感がした。こんな時間にかかってくる電話がまともなものであるわけがない。案の定、電話をかけてきたのは警察だった。
「板橋警察です。武川武(たけかわ たける)さん、ご在宅でしょうか」
「私が武川です」
「あー、武川さんですね。こんな時間にどうもすみません。えー、寺岡さんの件でお電話したんですが」
「寺岡さん?」
「寺岡修一さんです。武川さんのお仲間ですよね。外堀大学の、黒ヘルの」
「ええ、まあ」
 学生時代、俺は学術行動委員会(以下、GK)という団体に属していた。GKは世界革命を目指す学生団体で、寺岡はその創設メンバーの一人だ。80年代の後半から90年代にかけて、GKはけっこうな勢力を誇っていた。が、1994年、運動の世界から撤退した。「世界革命への道筋が示せなくなった」というのがその理由だった。21世紀に入ってからメンバーの何人かが集まって名簿を作った。「名簿くらいあったほうがいい」と思ったのだろう。たしかにそうで、俺も年賀状を書くときなどはこの名簿を使っている。寺岡の連絡先もこの名簿に載っているのだが、この名簿はたんなる住所録ではなく、人名録としての機能も果たしていて、寺岡修一の欄はこうなっている。

 寺岡修一 1959年6月6日生まれ。神奈川県立K高校卒。1980年4月、外堀大学文学部哲学科に入学。同年10月、町田移転阻止闘争に参加。82年4月、哲学会委員長に就任。同年6月、GKの結成に参加。84年3月、中退。(住所、電話番号は略)

 俺が外堀大学に入学したのは1985年4月。寺岡が中退した後だ。が、寺岡は大学を辞めてからもGKの活動は続けていた。だから、俺も寺岡のことはよく知っていた。現役時代の寺岡は「炎のアジテーター」と呼ばれる闘士で、大学当局からは「暴力学生の頭目」として目の仇にされていたという。が、俺の知っている寺岡はそうではなかった。いつも穏やかで、どちらかというと物静かな人だった。トラメガをもってアジっている姿など想像もできなかった。現役時代の寺岡を知る先輩たちは、よく寺岡の変化を話題にした。
「あの頃の寺岡はいつもピリピリしていたけど、腸に寄生虫でもいたんじゃないのか」
「今の寺岡は憑き物が落ちたようだ。あの頃は何かに取り憑かれていたのだろう」
「寺岡は病気だったんだよ。世界革命をやろうなんてやつは、みんな病気だ」

 板橋警察はこう言う。
「寺岡さんの件で、署の方まで来ていただきたいのですが」
「寺岡に何かあったんですか?」
「それは、こっちに来ていただいてからお話ししますので」
 警察は、とにかく来い、という。俺は考えた。警察には行きたくない。しかし、寺岡の件と言われたら無視するわけにもいかない。弁護士に相談しようかとも思った。が、時間が時間だ。弁護士に相談するのは警察で事情を聞いてからでもいい。俺はそう思ってこう答えた。
「わかりました。板橋署に行けばいいんですね」
「そうです。板橋署です」
 板橋署には前にも一度行ったことがあった。GKのメンバーが逮捕され、板橋署の留置場に入れられたときだ。あれは一九八八年だったか。
「では、明日の午前中に伺います」
「いや、明日じゃなくて、すぐ来てください」
「はあ?」
「寺岡さん、今、ここにいますので、今すぐ来てください」
 その頃、俺は練馬区小竹町のアパートに住んでいた。小竹町は練馬区と板橋区の境にある。だから、板橋区はすぐそこだ。が、板橋署は近くない。直線距離でもけっこうあるが、電車だとさらに遠くなる。営団地下鉄、山手線、都営三田線と乗り継ぎ、大きく迂回することになるからだ。
 俺は改めて時計を見た。12時15分。地下鉄はもう終わっている。さあ、どうするか。自転車だと一時間以上かかる。12月の夜中にそれはきつい。が、タクシー代を払うのもしゃくだ。
「武川さん、ゴルフの練習場の脇に黒のクラウンが停まっているでしょう。それに乗ってきてください」
 俺は受話器を置いて、部屋のカーテンと窓を開けた。なるほど、ゴルフの練習場の脇に黒い車が停まっている。

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