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【小説】テクノロジーを語る勿れ【第50話】

 就職祝いの内のそれなりの割を占める価格の英国製の黒いプレーントゥーのシューズを市内のセレクトショップで購入したことに、母は怪訝な表情を浮かべた。そのようなものに資金を費やすくらいであれば、もう少し実用的なものがいくつも揃えられるだろうとでも言いたそうであった。それはそうかも知れない。

 就活用に購入して履いていた黒の革靴はシンガポールでのインターン先でも酷使を重ねてくたびれた状態であり、手入れをしながらまだまだ履き続けるにしても就職に向けて新調しておきたいものの一つではあった。
 ある日書店でファッション誌を立読みしていると、写真付きでそれが紹介されているのが目に留まり、実際に店舗へ足を運んで実物を手に取ったところ30代前半の若い男性スタッフが、「そのシューズはブラウンも御座いますが、ブラックをお勧めします。レザーの質がブラックの方が断然良いんです」と広木に声を掛けて来た。色によって革の素材に違いがあるものだろうかと思ったが、実際に手に取って見ると茶色い方は細かいエンボス加工が施されており、明らかに質感が異なることが見て取れたが、こういった仕上がりが好みの人も一定数いるように思えた。言われてみれば色違いになれば素材がスウェード展開となるようなデザインのものはあるではないか、レッドウィングのアイリッシュセッターだってそうだ。そう合点しながら、元々レザーシューズは黒一択なのだと眼中にない広木は、その内側とアウトソールにMade in Englandの刻印の入ったシューズに足を通して履き心地を確かめて、通勤用のバッグと合わせて購入した。レジの横に陳列されていたメンズの下着の中から、黒とグレーに緑色が加わったマルチストライプのデザインのものを不意に手にし、レジカウンターの上に沿えた。きっと未開の地で最初に女性の前で裸になるような時には、きっとこの下着を身に付けているのだろうと、広木はいつ訪れるかも分からない期待へ備えようとしている自らを馬鹿らしく思った。

 引っ越し用の荷造りのために、母が運送会社から入手して来た大きめの段ボールが、玄関脇に板状のまま壁に重ねて立てかけられていた。拡げて組み立ててみるとかなりの容量の荷物を詰め込めるように感じたが、荷物を詰めていくと意外にもあっさりとその隙間が埋め尽くされた。普段の生活に必要な物がこれほど多いのだということに気付かされる。学生時代に一人暮らしもしてみたかったが、留年を繰り返した末に中退を経験していた広木は、平日の学業とアルバイトの両立が立ち行かなくなった時のことを考えると、アクティブに行動出来ず慎重になっていた。

 広木より一足早く地元を離れた馴染みの面子達も、各々の新たな生活を首都圏や都市部でスタートしており、その内の半数近くはアルバイトや契約社員で生計を立てており晴れ晴れしく社会人生活をスタートしているとは言い難い状況に見てとれたが、皆楽しそうに都市部での生活を謳歌していた。その内の何人かは地元の居心地の良さが抜け切れず、見知らぬ土地で新たな仲間と交友を深める事も程々に、生活の基盤を築くこともなく数ヶ月ないしは一年そこらでいつの間にか地元へ戻って来ては、また広木たちと夜の街へ繰り出す仲間の輪に舞い戻っていた。
 彼等は知らない街を見て来た者のような眼で、地方の街並みを手持ち無沙汰で諦めたように言いながらも、これが悪くもないのだと自らを慰めるように、あるいは一度外へ出た自らを肯定するかのように語ろうとする。そう言うのであれば、その先の将来に何かを見据えているのだろうと、広木も自分も漸く地元を離れる時が来たのだという想いでいた。もっとも広木にしてみても、そういった周囲の風潮もあってか、自身も地元の居心地の良さをこの先捨てられないのだろうという感覚は何処かにあり、上京したところで二、三年実務を経験したのちに、若い時に遊び慣れた土地へ舞い戻って来て生活の基盤を築ければ良いのではないかとした、漠然とした将来しか描けずにいた。

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