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「檸檬」という爆弾

『檸檬』の主人公は、


自分が没入できない画集なら、巨匠の名画であろうと、


「自分にとっての価値」


はない、と、考え、画集の外観、表紙や背表紙の色を


「ただの着色された物質」


として、


「自身が考える美しいもの」

である「創作物」の「素材」


に利用する。


輸入画集の売り場で、

突如、彼は、オブジェ制作を始める。

画集を重ね、山を作っては崩し、順番や組み合わせを変えて、また、重ねる。

そのたびに山の色が変わる、形が変わる、ボリュームが変わる。

やがて彼は、「レモンイエロウの絵具をチューブから搾り出して固めたような」檸檬をひとつ置く。

このとき彼は、


「自分自身」がつくり出した「檸檬と画集によるオブジェ」


によって、


「不吉なかたまり」


を、心の中で消し去って、


「自分自身の満足する美」


を、感じることが出来たのではないか、と、私は、思う。


絵画療法において、何も言葉として語らなくとも、紙面に思い切り

「いま・ここ」の自分

を表現することは、治療に役立つのみならず、自分を表現し合う創作活動の過程で、同じ絵画療法のメンバーとも言葉で語り合わなくても

「生を肯定」

し合える有用なツールである、という考えと似ている、と、修論以降、私は、考えている。


『檸檬』の中の「檸檬」の存在は、芸術による、非対症療法的な心理療法の

「素描」


(dessin、drawing)であるように、私には、感じられる。


外的な評価・圧力に拮抗するための手段として

「自己の満足する美」

「創造」

することへの意義を、(脱線しまくりながら)何回かに分けて、梶井基次郎の『檸檬』への私なりの解釈として、描いてみた。

絵画療法についても、また(そのうち)、具体的に描いてみたいと思う。


ここまで読んでくださりありがとうございます。蒸し暑い日が続きますが、頑張りすぎず頑張りたいですね。では、また、次回。

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