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【Zatsu】世の中をひっくり返すもの8(前編)

Truth(真実)とは何だろう。

また厄介なこと言いだしたな、コイツ。そう思ったでしょ?
当たりです😄

ご存じの方も多いと思いますが、きっかけは以下のTwitterです。


ローマ教皇が白いダウンジャケットを身にまとって歩いている様子。この画像は目にしていたけれど、当時「ふーん」くらいにしか思わなかった。だから、実はこれがフェイク画像で騒ぎになっていると知ったのは少し経ってからだったんだ。


真実を揺るがす悪意なきイタズラ

画像自体は大したことない。ただの出来のいい●●●●●オフザケ画像であり、これがきっかけで大事件が起きる予兆もいまのところないし、ちょっとしたミームのひとつにすぎない。

ただ、問題なのはみんなの中にこの画像を受け入れる余地があるということだ。だれもがスクープを求めているというか、意外な事実の目撃者になりたがっているというか、教皇が普段はどんなに敬虔な姿勢を示していたとしても(示していればこそ?)、みんな心のどこかに「そうはいっても、教皇だって人間臭い一面があるだろ。そうにちがいない。そうあってほしい」という願望があるんだ。
だから、それをスクープした画像がパッと現れた瞬間、待っていましたと飛びついてしまう。
「でしょうね」と訳知り顔でつぶやいている自分を見つける。
そこには冷静に一呼吸おいて疑念をはさむ余裕なんてないんだ。

今回の画像をそのまま信じた人がどれくらいいたのかはわからないけれど、この件に限らず上記のような認知構造が存在し、フェイク画像の精度が急速に向上するのと反対に、オフザケの可愛げは急速に失われていく。

そして、これに政治的な悪意が乗ってくることもある。
それをプロパガンダと呼ぶ。
むかしならば新聞やテレビなどのマスコミ、いまならインフルエンサーが世の中の7割8割の空気感を形成し、そこへ満を持して「空気感を決定づけるもの」が投入されることで大衆扇動が完成する。そういう認知の構造があるんだよね。自分で判断した、自分で選択したと思い込んでいるんだけれど、その判断軸や選択肢は巧妙に用意されたものだったりする。選んだんじゃない、選ばされたんだ。すべては手のひらの上の出来事。


真実を認知する or 真実として認知する

しかし、教皇は本当に白のダウンジャケットを着ていなかったんだろうか。着ていたのかもしれない。それは誰にも証明できない(彼自身にも、だ)。
画像作者がなんか言っている? それってホントなのかな?
出回っている画像はその作者が作ったのとは別の画像では?

むかしミステリーサークルが話題になったことがある。しばらくして自分たちが木の棒で制作したと名乗り出てきた男ふたり組がいた。オカルトファンからはバッシング、でも実演したら確かにそっくりなサークルができて世論は追い風に。ところが、その方法では説明できない規模や形状のサークルがでてくると、ふたり組はどこかにいっちゃった。その後の顛末は知らないけれど、あの「世の中の振り回され感」は何だったんだろうか。

子どものころ、ケネディ暗殺が話題になった。運転席から後部座席へ向けられる拳銃の映像が映し出されると、翌日の学校はもうその話題で持ち切り。男子一同まったく授業に集中できない😁
あの話も、しばらくあとにインチキだという話が大勢を占めるやいなや、あんなに熱っぽく陰謀論を語っていた子どもたちは、アッサリと鞍替えした。「運転席からとか、ありえないよ」と冷めた口調の出木杉できすぎくん。

歴史は勝者によって作られる

最後に勝ち残った者の語る物語が歴史、それが史実として語り継がれる。
ミステリーサークルのおやじたちがガッツポーズしている写真で話が終わった平行世界においては、最後の勝者はあのふたり。ミステリーサークルは木の棒で作られたというのが真実になるわけ。

教皇が冗談でも「白のダウンジャケット? 着ていたけどなにか?」とTwitterでつぶやいた瞬間に、世界の真実が塗り替えられるんだ。

そう考えると、真実は認知の対象ではない。真実は認知の結果にすぎない、というのが結論だね。これが真実!😛


もはや真実には一過性の価値しかない

反証されることで容易にひっくり返るのが真実だとすれば、世の常識は「現時点における」真実ということだ。
そして、技術の進歩によって「でっちあげる」のも「反証する」のも、エビデンスのクオリティが非常に高くなっているために疑義をはさむ余地がなく、いったん受け入れざるを得ない。そして真実がひっくり返る。オセロの盤面のように、いままで白だったものが一気に黒一色に早変わり。
こんなあいまいなものに、どれくらいの価値があるんだろうか。

真実とは「情報」がもっている属性値パラメータのひとつだ。
なぜ情報をありがたがるか。
「知っていること」と「知らないこと」の違いって何?
単なる知識量の差だけであれば、たいしたことない。影響が出るのは、情報の有無によって次の行動が変わるから。つまり、知らないよりも知っているほうが、自分の求める結果にたどり着く確度が上がるってことだ。
人生100年時代とはいえ、われわれは有限の世界に生きている。使える時間が限られている以上、なるべく効率よく希望を実現し、ひとつでも多く果実を手に入れ快楽を得たいという生物の本能なのかな。

たとえば荒野を歩いているとする。
分かれ道に差し掛かった。
左右に道しるべが立っていて、それぞれ街の名前が書いてある。
右:A街
左:B街
これが情報だ。
我々は行動を起こそうとするとき、何らかの結果を期待している。裏返せば、何かしらの結果を求めて、その結果につながる原因を作ろうとする。
A街に到達するという結果がほしいなら、その原因となる「右の道を進む」という選択をするはずだ。左の道を進んでしまっては望む結果は得られない。
道しるべに書いてある文字が読めない人は、エイヤで勘に頼るしかないね。A街に到達できる確率は50%だ。
でも文字が読める人は、確信をもって右の道を選択できる。100%に近い。
これが「知っていること」と「知らないこと」の違いだ。

しかし、この道しるべが電子掲示板のようにパッパッと頻繁に左右が入れ替わっていたらどうだろう。
文字を読める人は、今この瞬間の表示内容は理解できる。でもさ、この道しるべ自体が信用ならないわけじゃない? だとしたら、結果的にそれって文字が読めない人とどれくらいの違いがあるんだろうね。

もちろん真実を探ろうとする思考プロセス自体にも意味はある。あれこれ考えることで、第3の道が見つかることもあるし、そもそもABどちらにも行かなくていいや、という発想の転換も起きるかもしれない。純粋学問なんかはまさにそのようにして発展している。
でも、「成果が得られる確度を高める」ことに焦点を当てる限りにおいて、情報を根拠とした意思決定は、かなり信用ならなくなってきている。





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