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【中編小説】組曲

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■ 1楽章

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 そして気がつくと、ぼくは湖のほとりに立っていた。湖といっても向こう岸が見えないほど大きな湖だ。砂浜には小石や木片や枯草などが落ちていた。右を向くと少し離れたところに杉の木が1本、他の木々から孤立して立っている。ぼくは何気なくそちらへ向かって歩いていった。歩みを進めるたびに靴の砂を噛む音がする。あちらこちらに空き缶や水に濡れてぼろぼろになった花火が落ちていた。
 杉の根元には小さな陶器の湯呑が置いてあり、わきに花が飾られていた。湯呑には水が注がれ、花もまだ新しい。誰かが毎日ここにやってきて、まめに取り替えているのかもしれない。
 夜もふけ、あたりに人影はなく、水の音だけが響いていた。風は湖面を乱して波を作り、波はまるで海のように寄せては引き、引いては寄せ、浜辺までくると石や木片にぶつかって白い泡に姿を変える。
 湖はいつも風が強い。夏だといっても、夜にTシャツ一枚と半ズボンでは少し肌寒かった。暗闇のなかにはどこまで続くかもわからない黒い湖と浜辺の白い泡、そして水の音だけがあった。

 ザザア……ザザア……。

 まるで湖が呼吸しているみたいだ。きっとぼくのおじいちゃんのお母さんが産まれる、それよりもずっと前から、おんなじことを繰り返しているんだ。先週の朝礼で校長先生が、地球の始まりについて話していたっけ。なんだったかな。思い出せない。まあいいや。
 ぼくはあたりを見まわした。夜の湖には絶対に行っちゃいけないって、おじいちゃんから厳しく言われている。もちろんいままでは、夜中に湖へ来たことなんて一度もなかった。でも今日は、気づいたら湖にいたんだ。仕方ないじゃないか。
 遠くに鳥の鳴く声が聞こえた。
 ひざを立てて浜辺に座り込み、両手を後ろにずらして体を支えると空を見上げた。眼前に広がる藍色のドームは遠くへゆくにしたがって微妙に色を深めてゆく。そこへ無造作にばらまかれた光の粒がきらきらと輝く。それを眺めていると、ぼくはいつまでも生き続けるんだ、ずっとこうやって星を眺めているんだ、そんな気持ちになる。そう、ぼくはまさに、星に囲まれている。宇宙のなかにいるんだ。宇宙の真んなかに。あまりにも大きく、とてつもなく広く、そして信じられないくらい静かな空。
 ぼくが船を作ったら、この夜空を旅しよう。ひとりだけの船旅だ。星の海のなかをどこまでも、どこまでも航海を続ける。どんな冒険が待っているんだろう。怪物にも出会うかな。そうしたらやっつけてやる。なにだか格好いい。
 星空だけをずっと見つめていると、なんていうか、遥か上空に落っこちていくような気がする。落っこちて落っこちて、どんどん落っこち続けているんだけれど、どこにもたどり着かないんだ。
 全身の力がすうっと抜けてゆき、ぼくの頭は砂の上にゆっくりと預けられた。あそこが天の川かな。ぼくは目だけを少し右に動かした。きっとそうだ。白っぽい煙みたいなところがある。天の川を挟んで明るい星が2つあるはず。織姫と彦星。べガとアルタイルっていうんだ。理科の西山先生が教えてくれた。それとデネブっていう星を結べば夏の大三角ができる。ええと、デネブは、アレかな? 3つ結ぶと三角形に……なるけれど、でもちょっといびつだな。あっちの星かなぁ。どれだろう。こんなにたくさん星があるんじゃ、どれだかわからないよ。星を3つ結べば、どれだって三角形になるんだから。

 ザザア……ザザア……。

 いまごろみんなどうしているかな。もう寝ちゃっているだろうな。いったい何時なんだろう。浜辺にいるのはぼくひとり。遠くにある樫の葉が風に吹かれて音をたてた。明日はおじいちゃんとカブトムシを捕りにいく約束をしていた。家の近くにクヌギ林があってたくさん捕まえられる。早起きしなきゃな。カブトムシは捕まえたいけれど、早起きかぁ。いつもお母さんに起こしてもらっているから、起きれるかどうか。でも、カブトのためだ。頑張らなきゃ。もう少ししたら帰ろう。

 ザザア……ザザア……。

 そういえば、ぼくはどうしてここにいるんだろう。さっきまでおじいちゃんの家にいたはずなのに。こんな当たり前の疑問すらまったく抱かないまま浜辺に寝転がっていたのは、それだけ星空に見惚れていたからかもしれない。でも、不思議ではあるけれど、不安は感じなかった。こころはあいかわらず穏やかな状態を保っていた。
 ぼくは夏休みを利用して田舎に来ている。母方のおじいちゃんの家だ。夏休みには毎年必ずこっちに来る。ぼくのお父さんはもういない。弟の一樹が生まれてすぐに死んじゃったらしい。だから田舎に来ているのはお母さんとぼくと弟の3人だ。お父さんがいなくてもさびしくはないけれど、おじいちゃんの家に遊びに来てなんかだほっとするのは、知らないうちにお父さんと一緒にいるような気になっているからなのかもしれない。

 3日前の午後、東京の自宅から電車で羽田空港まで行った。駅の改札みたいなところを抜け、細い通路を通って飛行機に向かう。
 ぼくの頭のなかではいつのまにか、細い通路は宇宙ステーションの廊下、飛行機は宇宙船ということになっていた。肩で風を切って機内へと乗りこむ。全人類の運命を背負って闘いを挑むのだ。ぼくは身震いした。横を歩いている弟の一樹に目をやると、ぼくと同じように緊張した面持ちだった。
「一樹、ヘマするなよ」
「兄ちゃんこそ」
 一樹も隊員としての使命を感じているようだ。よく親戚の人たちから「ニタモノ兄弟」と言われる。以前は「ニタモノ」の意味がよくわからなくて、「勇気がある」とかそんな意味だと思っていた。ぼくらは胸を張って座席へ向かい、きりりとした表情で席に腰をおろした。しかし、すぐあとからぼくらのリュックサック2つと自分のハンドバッグを抱えたお母さんがやって来て、どっこらせと言いながら隣の席についた瞬間、行き先を宇宙ステーションから田舎の空港へとむりやり変更されたような感じがして、気が抜けてしまった。
 空港には、思ったよりも早く着いた。ぼくと一樹は、それぞれお母さんからリュックサックを手渡された。なかからお気に入りの青い野球帽を取り出してかぶる。
 空港から電車(お母さんは汽車と呼んでいる)に乗っておじいちゃんたちの待つ駅へと向かった。あたりはもう薄暗くなり始めている。列車の窓からそとをのぞくと、びっくりするほど大きなオレンジ色の夕陽が水平線の彼方にゆっくりと沈みつつあった。電車のなかは乗客もまばらで、座席に寝転がっても誰も文句を言わないほど閑散としている。
 そこはオレンジ色と茶色と黒が溢れる世界だった。お母さんはハンドバッグをひざに乗せ、やわらかい光のなか、手にした文庫本に目を落している。わきにはぼくと一樹のリュックサックが並んでいた。一樹は眠りこけている。誰ひとりしゃべることのない空間で、タタンタタン、タタンタタンという乾いた音だけが響くなか、すべてを染め上げる暖色の陽光を浴びて窓外の流れゆく景色を見つめていると、この旅でこれから何か不思議なことが、それが何なのかはっきりとはわからないけれど、とにかく不思議な、幸せな、思わず顔がほころんでしまうような出来事が起こるんじゃないかという、こそばゆい予感に駆り立てられる。ぼくは座席から立ちあがり、左右に揺られてバランスを崩しそうになりながら前の車両まで歩いていった。
 列車編成は東京よりも短い。ぼくたちは前から2両目に乗っていたから、先頭車両はとなりだ。先頭車両にも乗客は4人しかいなかった。運転席に近い座席には、薄茶色のシャツに皺の目立つ白いズボンをはいたおじいさんが、椅子に座ったまま杖を前に突き立て、両手をその上に乗せている。向かいの窓からそとの景色をぼんやりと眺めている。たまにその景色のなかを看板や踏切が横切ったけれど、おじいさんは何の反応も示さなかった。
 車両のなかほどには女の人が座っており、腕に赤ん坊を抱いていた。女の人は陽光でオレンジ色に染まりながら、赤ん坊にミルクをあげている。その子はミルクを飲む以外のことはまったく考えられないといった様子で、まん丸の瞳をお母さんの手元から一瞬たりともはずすことなく、ひたすら口だけを動かしていた。女の人は小首をかしげて赤ん坊を見つめながら、ふんわりとした薄い髪の毛を何度も何度もなでてあげていた。
 車両の後方、2両目との連結部近くに、紺色の背広を着た若いサラリーマン風の男が手提げカバンを抱えてうつらうつらとしている。網棚には小さな旅行カバンが上げてあった。
 ぼくは運転手のすぐ後ろまで歩み寄り、野球帽を後ろ前にかぶりなおすと、ガラスに額を押し当てなかの計器を覗いた。運転手は椅子に腰を下ろして前を見つめたまま身じろぎひとつしない。計器の横にはランプがいくつかついており、そばに銀色のハンドルがあった。じっと見つめているうちに、いつのまにか自分がこの列車を運転しているような気になっていた。
 ずうっと先まで伸びるまっすぐな線路をタタンタタンという弱い振動とともに走り続ける。線路わきで伸び放題になっている雑草が、次から次へと迫ってきては後方へと抜けていった。行く手を阻むものは何も無い。途中で右に曲がってまたまっすぐ。右手には黒い海。左手にはオレンジ色の山。温かく、優しく、そしてやわらかな陽射しが右側の窓から斜めに射し込み、ぼくは光に包まれて全身の産毛をそっと刺激されるような感覚を覚え、目を細めた。
 列車は決して速くない。むしろのんびりとしたペースで、線路をひたすら前に向かって進み続けていた。向こうに小さな建物が見えてきたけれど、列車が大きく左へ曲がるにつれ、それはすぐ山の向こうに隠れてしまった。
 しかし、何度か右左折を繰り返したあとに、それは再び不意に姿をあらわした。駅だ。列車がプラットホームへ入ってゆく。ホームは驚くほど低かった。ホームの中央には唯一の雨よけである木製の小さな屋根があり、そこが改札口のようだ。駅員室が併設されている。じっと見つめていると、列車が入ってくるのを認めた駅員がゆっくりとした足取りでホームまで出てきた。出てきたのは一人だけで、ニコニコしながらこちらへ近づいてくる。ほかの駅員は駅員室にいるのか、それとも駅にはこの人しかいないのか。列車は速度を落し、計器がゼロを示すと同時に車体は動きを止めた。運転手は席を立つと横の扉を開いてタラップからおもてに飛び降りた。駅員が歩いてくる。
「よう、お疲れさん。調子はどうだ」
「悪くないね。今日はこれで終わりだから、かあちゃんに酌してもらうのだけを楽しみに頑張るよ」
「ほどほどにしとけよ。おまえは酒癖が悪いから」
「バカ言うな。おれが一度でも酒がらみで問題を起こしたことがあるか」
「一昨年の……」
「あのときは失敗したなぁ」
 そのとき駅員がぼくの存在に気づき、不思議そうな顔をした。それを見て、運転手もぼくのほうを振り返る。
「どうした? ボク……」
 別にやましいところがあったわけではないが、運転手がすべてを言い終えないうちにぼくは踵を返すと弾かれたように2両目まで走って戻った。

 陽が落ちたあとも列車は暗闇のなかを疾走し続けた。夜になってスピードが上がったような気がする。まわりに景色は無い。闇と、ガラス窓の向こうのびゅごうという風の音と、タタンタタンという例の規則的なリズムだけ。車内にはとうに灯かりがともされ、そのせいで外の暗さがよりいっそう際立っていた。この車両にはもうぼくたち家族以外は乗っておらず、となりの車両を覗いてもおばあさんが2人、大きな籠を目の前におろしてゆったりと腰掛けているだけ。そのおばあさんたちも次の駅で降りてゆく。
 列車が駅に近づくと大きな籠をよっこらしょと背負い、ホームに停車したのを確認してから扉の手前にあるタラップを降りて引き戸になっている手動式の扉を開く。おばあさんたちが出ていって数秒経つと、扉は自動的に閉まった。自動的に閉まるのなら自動的に開いてもよさそうなものだが、そうはならない。開けるときだけはなぜか手動式だった。以前から疑問に思っていた。どうしてこんな変な方式をとっているのか。お母さんに訊いてみたものの、どうでもいいでしょうと言わんばかりのそっけない応対だった。
 大人というのはじつは面倒くさがり屋だ。お父さんも、お母さんも、国語の保科先生も、子供から難しい質問をされると、とにかくそうなっているんだ、と言う。そこで、ふうん、と返事をするとほっととしたような表情を浮かべる。でも、子供だって相手が面倒くさがっていることくらい雰囲気でわかる。大人たちはぼくらを上手く丸め込めたと思いこんでいるだけなんだ。
 ゆっくりと列車が動き出したが、なぜか少し移動しただけでまた停車してしまった。窓から外をのぞくと、あいかわらずホームにはまったく人の気配が無い。先ほどのおばあさんたちも、どこかへ行ってしまったようだ。誰もいないホームには仄暗い街灯というか背の高いランプが数本、等間隔で立っており、駅舎の低い屋根の下では裸電球に笠をかぶせただけの粗末な灯かりが鎖で吊り下げられた時計を照らしていた。午後7時14分。ガッチャンという金属音とともに車体が少し揺れた。その駅でぼくらが乗っている車両よりも後ろは切り離され、列車は2両編成となった。そして再び走り出した。

 ほかに誰もいないせいか、車内がとても広く感じられた。お母さんから少し離れたところで靴を脱いで座席に上がると、そのままごろんと横になり思い切り身体を伸ばす。普段ならばお母さんに頭をはたかれるところだけれど、今日のお母さんは何も言わない。それでも叱られるんじゃないかという恐怖感は常にあり、それがこの妙な快感をさらに増大させていた。
 しばらくしてぼくは身体を起こし、ガラス窓を上げて外を見た。窓から顔を出していると、お母さんの声が聞こえた。
「ほら、危ないから頭を引っ込めなさい」
 それでもぼくは身を乗り出して、闇の世界に目を凝らしていた。真っ黒な空気の塊がぼくの顔にぶつかってくる。野球帽が飛ばされそうになり、とっさに手で押さえつけた。目を細めながら前方を見遣ると、列車の窓から漏れるわずかな灯かりが黒の空間におぼろな光を与えていた。線路わきに生える背の高い草の先端がそのふんわりした光に照らし出され、ものすごいスピードで、次から次へとこちらへやって来たかと思うと、あっという間に後方へ飛んでいった。
「何やってるのよ」
 お母さんが近づいてきた。輪郭のぼやけたいくつもの光がぼくに向かって突進してくる。そして、すぐわきをすり抜けてゆく。この幻想的な光景に魅了されたぼくは聞こえないふりをしながら、なおも前方を凝視していた。
「危ないでしょ」
 お母さんがぼくの肩に手を掛けた瞬間、前からの風にあおられて野球帽はぼくの頭から解き放たれ、暗闇のなかへ消えていった。慌てて後ろを振り返ったが、その姿は既になく、そこには深い闇が広がるだけだった。ぼくは首を引っ込めて車内に倒れこむとすぐさま起き上がり、車両の最後尾まで一目散に駆け出した。
「ちょっと、どこ行くの」
「帽子!」
 帽子は車外に飛んでいった。最後尾まで行ったところで見つかるはずはないのだが、ぼくはそれほど冷静ではなかった。なにしろ、お気に入りの野球帽なのだ。最後尾に到達し、うろうろした挙句、ようやく状況を把握した。帽子がなくなってしまった。もうどこかへ行ってしまった。いや待てよ、列車を降りて拾ってくればいいんじゃないか、まだ間に合う、そんな非現実的な考えすら当たり前のように頭をよぎったが、結局ぼくはしょんぼりとしたままお母さんの元へ戻った。
「だから言ったでしょ」
 何が「だから」だ。こころのなかでそう思ったものの、野球帽をなくしたショックで何も言えなかった。お母さんはぶつぶつと小言を並べているように見えたけれど、ぼくの頭のなかには野球帽のことしかなく、お母さんの言葉は何一つ耳に入ってこなかった。
 おじいちゃんに自慢しようと思っていた帽子だったのに。ガックリと肩を落して、ぼんやり最後尾のほうを眺めた。すると、少し離れた車両後部の椅子の上に青い帽子が落ちているのが見えた。はっとして駆け寄り、ひったくるようにして素早く手に取る。それはまぎれもなく、つい先ほど闇のなかに消え去ったぼくの野球帽だった。しばらくして嬉しさに踊るこころが落ち着き、気持ちに余裕が出てくると、今度は何故という思いが浮かんできた。飛んでいったはずの帽子がどうしてこんなところに。ふと見ると、すぐ前のガラス窓が開いている。信じられないことだけれど、いったん飛ばされた帽子がこの窓から車内に入ってきたらしい。
 奇跡の生還だ。
 ぼくは軽い足取りでお母さんのところまで歩いていった。あきれ果てた顔をしているのが見える。お母さんは抑揚を聞かせた口調で、ゆっくりと優しく説いた。
「ほんとに、頭を出したら危ないでしょ。おとなしく座っていれば帽子が飛ばされたりしないのよ」
 ぼくはキョトンとした表情で言った。
「でも、帽子、見つかったよ」
「バカ!」
 結局ぼくは頭をはたかれた。一樹のほうを見ると、座席に横になって眠っていた。

 そんなことをしているうちに目的の駅へ近づいた。どんな駅だったっけ? 何度も来ているはずなのに、よく覚えていない。列車のスピードが落ちてゆく。窓から見ると、そこには驚いたことに駅員の姿がなかった。改札も無いみたいだ。屋根の下に裸電球らしき光がいくつか輝いているだけ。ムジン駅っていうのよ、とお母さんが言う。ムジン駅だって? これじゃまるでバス停と同じだ。ぼくはしばらくの間ムジンムジンと独りで繰り返していた。
 駅舎は簡素な木造建築で、プラットホームの長さは数十メートルほどしかない。駅の端には木製のベンチが置かれており、座っている2つの人影があった。おじいちゃんとおばあちゃんだ。お母さんが列車の扉に手を掛けて力いっぱい横に引くと、ガラガラと音をたてて扉が開き、思いのほか涼しい空気が車内へ流れ込んできた。列車を降りたぼくたちにおじいちゃんとおばあちゃんが手を振りながら歩いてきた。おじいちゃんの手には大きな懐中電灯が握られている。
 ふたりとも昨年と変わっていなかった。日に焼けた健康そうなおじちゃんの顔には深いしわがいくつも刻まれており、真っ白な髪の毛は短く刈り揃えられ、同じく白い不精ひげがあごとほほにまぶしてあった。ぺらぺらの白い丸首のシャツにこげ茶色のズボンをはいている。黒革のベルトはところどころ傷ついて白っぽく変色していた。ビーチサンダルも何年はいているんだろう、底の厚さは5ミリとないように見えた。
 その横に小柄なおばあちゃんが立っていた。はえぎわの白くなった髪は丁寧に後ろへすいてある。眼鏡の奥の目はいつも優しく笑っていた。小さな花がいくつもついた、紺色の割烹着みたいな服。足元はつっかけ。
「思ったよりも早かったな」おじいちゃんが大きな声で話しかけてきた。
「そうかしら。時間どおりみたいだけれど」お母さんが腕時計を見ながらそう答えると、おばあちゃんがのんびりとした調子で言った。
「時刻表なんて当てにならないからね。最近じゃ、10分や15分の遅れは珍しくないんだよ」
 おじいちゃんがぼくと一樹のほうに向き直り、元気にしていたかと言ってそれぞれの頭に皺くちゃの手を置いてはにっこりと微笑んだ。
「おじいちゃん、見てよ、この帽子」
 ぼくは奇跡の生還を成し遂げたお気に入りの帽子をかぶり、得意気な顔をした。
「おっ、格好いいなぁ」そう言うと、おじいちゃんは帽子のつばをつまんで左右に動かした。ぼくが満足して横を見ると、一樹が負けていられるかと言わんばかりにリュックサックに手を入れて、自分の帽子を探していた。
「それじゃ、行くか」
 おじいちゃんはみんなを見まわすと、先頭に立って駅舎のわきにある階段から道路へと下り立ち、みんながそのあとに続いた。
 道はまさに闇のなか。左に石垣があり右側に草木が生えていることはかろうじて分かるけれど、あとはよく見えない。なにしろ街灯もなければ民家もなく、夜空の月明かりとおじいちゃんの手元で一筋の光を放っている懐中電灯だけが頼りだった。前を歩く人の背中が暗闇のなかでうっすらと浮かび上がり、それについて行くことだけを考えて右へ左へと折れ曲がる道を歩いていった。前方からおじいちゃんの声がする。
「あまり右に寄りなさんな。木の向こうは急な坂になっとるから、落っこちるぞ」
 ぼくは慌てて2、3歩左へ寄った。
 登り下りのある道を20分ほど行き大きく右に折れると視界が開け、道幅が広がった。ここまで来てようやく街灯がちらほらと見え始めた。どの街灯にも夜行性の虫が群がっているのが薄気味悪かったけれど、路上はようやくそれなりの灯かりに照らされるようになり、足元を気にしなくて済むようになった。さらにちょっと行くと右側から同じように少し広めの道路が合流してきて、T字路を形成する。そのT字路を曲がらずにまっすぐ突き進むと、道の両わきを石垣に挟まれた路地へと入ってゆく。上を見上げると、天を埋め尽くすほどたくさんの星が広がっていた。その瞬間、一筋の光が夜空を走った。
「流れ星だ!」
 ぼくが叫ぶと一樹が、
「どこ、どこ?」
 と、さらに大きな声を出した。
「あっちのほう、右のほうの」ぼくが流れ星の見えた方角を指差すと、再び流れ星が一閃した。「あ、また……」
「本当だ。ぼくも見たよ!」
 一樹も大はしゃぎで、ぼくらはこの不思議な現象に興奮していた。
 そんなとき、三度(みたび)夜空に星が流れた。ぼくは、ふと思った。おかしいな、3回とも同じ方角にしか見えない。同じ方角に現れて、同じ方向へ流れていく。ぼくはおじいちゃんに目を向けた。すると、おじいちゃんは右の夜空に向かって懐中電灯を何度も素早く動かしていた。そうなのだ、あれは流れ星なんかじゃなく、懐中電灯の光が電線に反射していただけだったのだ。おじいちゃんが道の右側にある電線に向けて右から左へと素早く懐中電灯の光を走らせ、その反射光を流れ星と見間違えたんだ。もちろん偶然じゃない。
 おじいちゃんはこちらに向き直り、ぼくが気づいたことを察知して、しまったというように身を翻すと、何事もなかったかのようにまた前へ進み始めた。一樹は、また見えた、また見えた、と叫んでいた。
 左へ入るわき道が見えてきた。急な上り坂になっており、登っていくと砂利敷きの庭に出る。おじいちゃんが玄関の鍵を開けて引き戸を引くと、ガラリという音とともに線香と畳の懐かしい田舎の家の匂いがぼくの鼻を刺激した。ようやくの到着だった。

 ザザア……ザザア……。

 ぼくはいま、おじいちゃんの家にいるはずなんだ。でも、本当のぼくは、湖にいる。浜辺に座っている。あの家から湖まではそれほど遠くない。でも、ここまでやって来た記憶がない。

 さっきまでは家の掘りごたつに座って、みんなで夕食を食べていた。突然、おじいちゃんが席を立ち、縁側へ歩いていきながら言った。
「おや、いい風が出てきたみたいだよ。ちょっと、ビン持ってきとくれ」
 お母さんがビールとグラスをお盆に乗せて縁側に行くと、おじいちゃんはもう縁側に腰を下ろしていて、空をぼうっと眺めていた。白髪を短く刈りそろえ、日焼けした身体に白いランニングシャツとステテコをはいている。ぼくはとなりに座った。縁側は夕方に降ったにわか雨のせいで土の香りが漂っている。
「ねえ、何を見てるの」
「別に何も見とりゃせんよ。ただ、入口はどうなったんだろうって考えとったんだ」
「入口?」
「そう、秘密の入口。なんだ、そんなことも知らんのか」
「うん」
「知りたいか?」
「まあね」
「知りたくないのか?」
 おじいちゃんは、こんなイジワルが好きだ。はっきりと意思表示しないと、差し出した宝物を引っ込めてしまう。
「知りたい。教えてよ」
「そこまで言うのなら、教えてしんぜよう」おじいちゃんはニヤッと笑った。「おじいちゃんがまだ子どものころに聞いた話だ。おじいちゃんのお母さん……だからおまえにとってはひいおばあちゃんか。そのひいおばあちゃんから聞いたんだけれどな」
「おじいちゃんにも、お母さんがいるの?」
「そりゃいるさ」
「それじゃ、昔の人だね」
「うんと昔だよ」
「どんな人だったんだろう」
「日本で初めて稲作をやった人物だといわれておる」
「うそでしょ」
「うそじゃ」おじいちゃんは、相手が知らないとみると時々とんでもないことを言い出す。
「本当はどういう人なの?」
「思ったことは何でもすぐに行動に移すタイプだったね。おじいちゃんのお父さんは、病気で死んじまったんだ。だからかもしれないが、そんなお母さんが頼もしかったよ。けれど、怒るとおっかなくてな、ほうきを持って追いかけ回されたもんだ――」

 当時の農村部の生活はずいぶんと貧しく、みんな必死に働いても毎日を食いつなぐのが精一杯だった。小学校すらまともに出ていない人もめずらしくなく、また学問を活かす職場もあまりないので、必然的に身体を使った仕事が主流となる。畑で野菜を作って町へ行商に出たり、土方で日銭を稼いだり。
 それでも夫婦そろって働けるならまだいい。ひいおばあちゃんは夫が病気で寝たきりになってから、ひとりで働いて家族全員を養わなければいけなくなった。子どもは9人もいた。それでも病気や何やでどんどん死んで、残ったのは男の子と女の子のふたりだけ。まもなく病床の夫も亡くなった。
 すでに野菜の収穫が終わり、畑は休ませていた。底冷えのする朝の3時ごろ、台所に明かりが灯る。
「これでヨシ、と」
 ひいおばあちゃんは握り飯を7つこしらえて皿の上に置いた。うちふたつは紙に包んで自分の弁当用、残りの4つは子供たちの朝食と弁当用にし、最後のひとつは仏壇に供えた。まだ暗いうちに家を出て、土方の仕事へ向かわなければならない。帰ってくるのは夕方だ。土間の灯かりが消え、小柄な人影が両手に白い息を吐きかけながら背を丸めて歩き去ると、家はふたたび暗やみに包まれ、小さなふたつの寝息だけが残った。
 やがて、あたりがうっすらと白み始める。
「おい、由紀子。起きろ。朝だぞ」
「ううん、べつにいいよぉ」
「寝ぼけるな。はやく起きろ」
「ああ、朝か」
 ふたりはふとんを上げ、いつものとおり仏間で亡き父の仏壇に手を合わると、駆け足で台所へ向かい、握り飯をひとつずつほおばった。おもてに出て凍るような井戸の水で歯を磨き、顔を洗った。
 起きてから15分ほどで身支度を終え、ふたりは学校へと向かう。
 授業を終えて帰ってきても、ひいおばあちゃんはまだ帰っていない。3人がそろって夕食をとるのが夜の8時頃。ごはんに薄い味噌汁、乾物や漬物など。そのあとは勉強だった。ほかのことにはあまり口を出さないひいおばあちゃんも、勉強に関してはうるさかったという。
「由紀子、今日の宿題は?」
「図工の工作。先生がね、玉子の殻に絵を描いてきなさいって。そこの棚においてあるやつ。帰ってからすぐにやっちゃった」
「そうかい。源治は?」
「もう終わったよ」
「じゃあ、お母ちゃんがちょっと見てやるから」
 そして嘘がばれるのだ。家中に怒鳴り声が響く。たいていのイタズラは見逃してもらえたが、不正に関しては厳しかった。ほうきで何度もたたかれ、家の外へ追い出されると扉に鍵がかかり、1時間はなかに入れてもらえなかった。
「人をだますなんて、いちばんやっちゃいかんこと。お母ちゃん、それだけは許さんよ」

 おじいちゃんは懐かしそうに目を細めた。ぼくがじっと横顔をのぞいていると、くるりとこちらへ向き直った。
「そんなことより、ひいおばあちゃんから聞いた話だが」いきなり本題に戻った。「ある秘密が語り継がれているんだ」
「秘密?」
「そう、秘密の話だ。だから、そう簡単に他人にしゃべるわけにはいかない。口の軽いやつに教えるなんてもってのほかだ」
 おじいちゃんはそう言うと、じっとぼくの目をのぞき込んだ。
「おまえは秘密を守れるかな」
「守れるよ、当然」
「そうか、ダメか……」
「守れるって言ってるでしょ、もう」
「すまんすまん、耳が遠くてな」
 おじいちゃんはイジワルな、でも楽しそうな顔をしてカラカラと笑ったかと思うと急に真顔に戻り、ぼくのほうへずいとにじり寄った。
「じつはな、この土地のどこかに不思議な入口があるんだ。まわりには光が溢れていて、向こうには少しの間だけ自分の好きな人とこころをひとつにできる世界がある。その人の思いを感じることができるんだ。でも、いま入口がどうなったのか、おじいちゃんにはまったくわからない」
「こころをひとつにって?」
「こころのなかを少しだけ知ることができるんだよ。たとえばおまえの好きな人がだれなのか知らないが、まるでおまえがその人になったように、その人の目で、その人の気持ちで、相手のこころの世界を旅することができる」
「おじいちゃんは、入口を見たことあるの?」
「あるさ。ずっと昔にね。まだ子どもだった頃だ。わしらがいま住んでいるこの家は、あとから新しく建てたやつでな。ここからちょっと行ったところに湖があるだろ。子供の頃に住んでいた家は、あそこにあったんだ。わしが通っていた小学校は遠くてな。学校へ行くには、そうとう歩かなきゃならなかった。家の裏山ではカブト虫がいっぱい捕れた。カブトを水槽で飼うとき、なかに土を敷くだろ?」
「知ってる。腐葉土っていうんでしょ」
「そう。普通の土でもいいんだけれど、裏山の腐葉土で飼うとカブトの元気が違うんだ。いつもそこでカブトを捕って、腐葉土と一緒に持ち帰っていた。
 夏休みになって裏山をうろうろしていると、いままで気づかなかった道を発見したんだ。好奇心に駆られて進んでいくと、奥は木がうっそうと茂っていて薄暗い。でも、どこに通じているのか知りたかったんだな。落ち葉でふかふかした地面を踏みしめながら、ゆっくりと歩いていった。片側が急斜面になっていたり、そうかと思うと両側を高い岩にはさまれたり、不思議な山道だった。どれくらい歩いたか、いきなり降り坂になって、目の前に道路が現れたんだ。道に出てみると、ちょうど学校の裏だった。偶然、学校への近道を発見したんだよ」
「へえ、すごいね。秘密の抜け道だ」
「それ以来、学校への行きかえりには抜け道を通った。親には黙っていたよ。あぶないからやめろって言われるに決まっていたから。
 入口の話を聞いた次の日、わしは妹と一緒にいつもの山道へ出かけた。しばらく歩いてから、道を少し外れたところにある岩場の影に入ったんだ。そこには大きな洞窟というかほら穴がある。以前に探検したとき見つけたんだ。話によると、秘密の入口は洞窟のなかにあるという。それを聞いてもしやと思ったんだ。で、なかに入った。そして奥まで進んでいったんだ。すると、な……」
 そこでおじいちゃんは言いよどんだ。
「すると、何があったの?」
「うわあ、空を見てみろ。ほら、星が綺麗だなぁ」おじいちゃんは出し抜けに空を仰いだ。
「いいから。続きを話してよ」
 ぼくはイライラしながら自分のひざを叩いた。
「冗談だよ、まったく」
 おじいちゃんは仕方ないという素振りで、また話の続きを始めた。
「洞窟のなかがフワァっと明るいんだ。光はずっと先まで続いていてね。その奥に進んでいったんだ」
「そこに何かあったんでしょ。ねぇ、何があったの?」
 すると、おじいちゃんは考え込み、しばらくしてようやく口を開いた。
「わしが間違っていたんだ」
「……?」
「これ以上は教えられん。秘密を話せるのはここまでだ」
「あ、ずるい」
「本当のことを言うとな、おじいちゃんは恐くなって逃げ帰っちまったんだよ」
「そんなの、うそだよ」
 そこにお母さんがやってきた。
「ほら、もう寝なさい。一樹はもうとっくに布団に入ったわよ。あんた、お兄ちゃんなんだからきちんとしないとだめよ」
 お母さんはぼくの肩口をぽんぽんと叩いて立ちあがるように促すと、こんどは背中を叩いて洗面所の方へと追いやった。ぼくはおじいちゃんのほうに向き直って言った。
「じゃあ、その洞窟に行けば入口があるの?」
「さあな、次の日に通りかかったときは、光はすでになくなっていたよ。どこに消えたのかはわからん。それに洞窟はもう湖の底。ダムに沈んだんだよ」
「それじゃ、もう向こうの世界を見ることができないじゃん。もっと教えてくれてもいいのに。おじいちゃん、ケチんぼ」
「なあ、俊介。この世でいちばん大切なものは何だと思う?」
 だしぬけにおじいちゃんは訊いてきた。
「いちばん大切なもの? ええと、わかんない」
 ぽかんと口をあけているとお母さんが再び背中を叩いたので、ぼくはそのまま流れるように洗面所へと歩き出した。背中から声が聞こえる。
「入口はおまえにも見える。恐がるな。こころを落ちつけて感じろ。いいな」
 ワシャワシャと歯磨きを済ませたあと急いで部屋へ向かい、そっとふすまを開けてなかに入ると、そのまま一樹のとなりに敷いてある布団へもぐりこんだ。冷たいシーツの感触になんともいえない心地よさを感じ、さらにひんやりとした感覚を求めて脚をあちらこちらへ滑らせる。電灯はオレンジ色の小さな灯かりだけを残して消えていた。その灯かりをぼうっと眺めていると、まわりの空気もオレンジ色にぼうっとしてきて、そのうち頭のなかまでオレンジ色にぼうっとしてくる。どこかの部屋から漏れてくるテレビの音がだんだん遠ざかり、オレンジの光が遠ざかり、意識が遠ざかり、そして何も考えられなくなった。

 ザザア……ザザア……。

 ぼくは湖のほとりで横になっている。
 そう、ぼくは布団に入ってそして眠ったんだ。でも、そのあとどうしたんだろう。こんなところにいるはずないのに。布団のなかのはずなのに。目の前の湖を見つめる。次々と形を変えてゆく黒い塊はとても水とは思えない。生き物だ。
 湖面の波はまさに生き物みたいで、常に形を変えている。白い泡をたくさん吐き出すときもあれば、次の波はあまり泡を出さない。目の前の波が泡をたてているとき、ちょっと離れた浜辺を見ると波ひとつない。そんな水の様子を見ていると、この次はどんな動きをするんだろうとわくわくする。湖の水だけをじっと見つめることなんて、いままでなかったかもしれない。夜の湖は黒くて恐いけれど、同時に昼間の湖にはない不思議な顔もある。
 そのとき、ふと思った。湖に入ってみよう。なぜそう思ったのかはわからない。でも、とにかくそう思ったのだ。ぼくは勢いよく立ちあがり半ズボンについた砂を両手で払い落とすと、脱ぎ捨てたサンダルを浜辺にそろえて置いたまま漆黒の湖へゆっくりと足を踏み入れていった。
 体にべたべたした空気がまとわりつく。歩きながら前方に目をやると、不思議なことに水中が薄明るくなった。足首から下だけがひんやりと心地よかった。水底を足が移動するたびに堆積した砂が巻き上げられる。ぼくはばしゃばしゃと派手な音をたてながら、沖に向かって歩いていった。

 そのとき、完全に忘れていたある記憶が一気に、そして鮮やかによみがえってきた。同じような景色を以前にも見たことがある。2年前の夏、熱帯魚を売っているペット屋へ向かったときと同じような光景だ。
 当時も、ぼくは夏休みを利用して田舎のおじいちゃんの家へ遊びに行き、3匹のカブトムシを捕ってきた。東京の実家へ戻ってから、水槽のなかに敷く腐葉土がないことを思いだした。一樹に相談したところ、隣町のペット屋に売っているという。
「本当に隣町にあるのかよ」
「たぶんね。地図を描いてあげるよ」
 ノートの切れ端に描いてもらった手書きのいいかげんな地図を頼りに、ぼくは初めて足を踏み入れる隣町をうろついていた。坂道を下り、橋を渡ってすぐの細い道を右に折れる。右手に見える川はコンクリートで固められていて、連日の記録的な猛暑で水量が減り水道の蛇口をわずかにひねった程度の細い流れをかろうじて保っている。左手には寺院の高い塀がずっと先まで続いていた。壁の向こうから聞こえてくるセミの鳴き声だけがかまびすしく響いている。
「だるい……」
 熱い息を吐きながらつぶやいた。全身を包み込む生ぬるい空気に全身の力という力が吸い取られてゆく。雲がどんよりと垂れ込め、赤みを帯びた灰色の空はいまにも一雨きそうな気配を見せているが、こんな泣き出しそうな空模様になってからすでに数時間が経過しているところを見ると、今日は降らないのかもしれない。
 熱風に吹かれながら川沿いを歩いていくと、左前方に古ぼけた木造のアパートが見えた。正面にある扉には、すすけて不透明になったガラスの小窓がついている。アパートの共用出入口のようだ。おそらく扉の向こうにはまっすぐ廊下が延びており、左右に各個室のドアがもうけてあるのだろう。古いアパートにはよくある形式だ。
 その横に目をやると、苔むしたブロック塀がアパートと隣家を隔てている。ブロック塀とアパートとの間には、庭と呼ぶにはあまりに狭い1メートルほどのすきまがあり、そこにはいつからあるのか、朽ち果てた黄色いスクーターが立て掛けてあった。狭苦しく陽のあたらないその場所で長期にわたって風雨にさらされ、塗装ははがれ落ち、各部品は誰かに持ち去れてタイヤもなければ座部もなく、内部の機械類がむき出しになったその姿はもはやスクーターとは呼べなかったが、かつてスクーターとして走り回っていたモノの残骸であることはかろうじて見て取れた。
 地図によると、このかどを左に曲がるようだ。おおざっぱな地図に鉛筆で《スクーター》と書いてあり、左に路地が伸びている。どうも、あれを指しているらしい。もっと大きな建物とかを目印にすればいいのに、とも思ったが、目印には簡単になくなったり移動したりしないものを選ぶべきである、ということを考えると、このタイヤを失ったスクーターを目印に選んだのもあながち間違いではないのかもしれない。
 道を左に折れ、とぼとぼと歩いていくと商店街に入った。
 商店街といっても電気屋、肉屋、酒屋、駄菓子屋、米屋、いずれも小さな店構えの商店がポツポツと軒を連ねている数十メートル程度の商店街だ。歩きながら通りかかる店内をのぞいていったが、どの店にも人の気配はなかった。
 そのとき気づいたのだが、この街に入ってからこの商店街にたどり着くまで、ぼくは誰にも会っていなかった。妙な気分だったが、そのときは早くペット屋へ着くことしか頭になかった。いつまでもこの炎天下でうろつくわけにはいかない。ぼくは再び地図に目を落した。この道をまっすぐ行くと、右手に次の目印があるようだ。地図にはこう書いてある。
《いなかの湖》
 ぼくは目を疑った。ここは東京都下の住宅地。どうしてこんなところに湖があるっていうんだ。しかも、「いなかの」とはどういうことだろう。一樹に馬鹿にされたのだろうか。
 とりあえず道なりに進んでいくと、右側に突然開けた場所が現れた。そして、そこはまぎれもなく先日まで訪れていたあの湖だった。
 向こうが見えないほど広大な湖面に豊かな水を湛え、水辺から少し離れたところにはあの背の高い杉の木がぽつんとそびえ立っていた。ゆっくりと近づいてみれば、根元には小さな花と湯呑が置いてある。いくぶん戸惑いながらも、この奇妙な現象に対する恐怖感は不思議となかった。
 地図を見ると、ペットショップへの道は浜辺へと延びており、そのまま湖のなかへと続いていた。湖のはるか沖合いに最後の目印がある。
《家の裏山》
 湖のなかに……家が? ぼくは導かれるように浜辺へ向かい、靴を脱いで足を水につけた。あたりの生暖かい空気にうんざりしていたせいか、冷たい湖水が心地よかった。  ぼくは地図を半ズボンのポケットに押し込み、湖のなかへ入っていった。湖面は穏やかで、相変わらずあたりに人の気配は無い。
 進むにつれ、最初はくるぶしあたりだった水がひざまで達し、ひざからももへ、ももから腰へと迫ってきて、のどの高さにまで達したとき、胸のあたりに漠然とした不安感が湧き上がり、ぼくは足を止めた。空を見上げると、依然として赤みを帯びた雲が垂れ込めている。生ぬるい空気。太陽が照っていないために、ぼんやりとした薄明かりに照らし出されたように見える周囲の景色。
「腐葉土なんて、別に今日買わなくても」
 口ごもったように独りつぶやくと、ぼくは振り返りゆっくりと、そして徐々に早足になりながら浜辺へと戻った。
 素早く靴をはいて小走りに路地へと向かい、ずぶ濡れのまま、もときた道を逆にたどって帰った。家に着くまで、一度も後ろを振り返ることは無かった。そして、夏休みが終わるころにはもう、そのできごとは忘れてしまった。

 ザザア……ザザア……。

 あれから2年、ぼくは再び田舎の湖のなかにいる。
 夜の湖。周囲に人の気配は無く、聞こえるのは波の音だけ。風は凪いでおり、首元にうっとおしい空気がまとわりつく。適度に冷たい湖水がぼくのひざを濡らしだすと、前進を続ける両の脚に水の抵抗を感じるようになってきた。
 湖のなかはぼんやりと明るい。
 突然ぼくの足元がひときわ明るく輝きはじめ、その輝きは一直線に前方へと伸びて沖まで続く光の道をつくっていった。湖底に沈められた無数のライトがはるか沖まで続いているようだ。あたりを鬱蒼たる木々に囲まれた、暗闇の支配する浜辺。そのなかで輝きを放つ水中をのぞきこむと、光の粒子が活発に動き回っているのが見えた。
 光の道に導かれるように、ぼくは歩を進めていった。やがて水が腰を濡らすまでになっても歩みを止めなかった。どこへ向かっているのだろう、そんな考えが頭をよぎったけれど、頭で何を考えていようと足はまったくお構いなしで自分勝手に先へ先へと進んでいった。
 光の道はずうっと先の沖合いまで続いている。このまま歩いていったとして、終点に辿り着くまであとどれくらいかかるだろう。
 しばらくすると水が胸のあたりにまで達し、それからのど元を濡らすまで時間はかからなかった。あごを上げる。思わず足が止まり、あのときのことを思い返す。2年前の夏、ぼくはここで引き返した。なんとなく不安だったんだ。でも、今日は……不思議と不安は感じない。前を見ると、光の道は続いている。ぼくは再びゆっくりと前へ進み始めた。その瞬間、水面が波打ち、水がぼくの顔の表面を舐めていった。
 反射的に目と口を閉じた。すると、先ほどまで姿を隠していた不安感がちらちらと顔を覗かせ始めた。空を見上げた。暗闇のなかに響く風と水の音、透き通ったハープの音色が聞こえてきそうな星空。そんななかに、ぼくは独りで立っている。徐々に沸きあがってきたのは、死への不安だけではなかった。ぼくがいなくなったら、誰か探してくれるかな。まさか、放ったらかしにされるなんてことはないよな。孤独に対する漠然とした恐怖が少しずつこころのなかに芽生え始めた。
 けれど、首まで水に浸かったままあごを上げて壮大な星空を眺めていると、不安はいつのまにか霧散していた。寂寥たる風景はあいかわらずながらも不思議と気分は清々しかった。目の前ではまだ光の帯が輝きを放ちながら沖合いへと道をつくっている。ぼくの顔には自然と笑みが浮かんでいた。静かで落ちついた、哀しいけれど穏やかな気分だ。何かがぼくを呼んでいる。行かなくちゃ。心配することは何もない。ぼくは脚を交互に前へ動かし、誘われるままに光の道を進んでいった。
 進むにつれて光はしだいに強くなった。まるでたくさんのスポットライトで照らされているみたいだった。道はまぶしいほどに明るいのに、道のすぐ外は真っ暗で何も見えない。少し息苦しい。
 輝く光の帯に沿って歩いていくと、また光が弱まってきた。だんだんとあたりは暗くなってきて呼吸も楽になり、いつの間にか、ぼくは湖底を歩いていた。上を見上げると、月明かりに照らされた水面がところどころ乱反射しながら揺らめいている。水中にもかかわらず呼吸は自由にできたけれど、それが特に不思議なことだとは思わなかった。
 夜明け前のような薄明かりのなかを、光の道に沿ってひたすら歩いてゆく。手足に感じていた水の抵抗はいつのまにか消え去っていた。あたりを見まわした。何もない。大きく深呼吸する。遥か上方に湖面が見えることを除けば、広々とした大地を散歩しているのと変わらなかった。どこまで続くのかな、そんなことを考えながら歩いていると、前方にひときわ強く輝く大きな光の玉が現れた。玉はゆっくりとこちらへ近づいてくると途中でスピードを上げ、あっという間にぼくを包みこんだ。ぼくはまったく恐怖を感じなかった。むしろそれに包まれることで懐かしいような感覚に満たされ、すうっと目を閉じた。ゴムボートに乗って仰向けになったまま海面を漂っているような、そんな浮遊感。ぼくの神経は徐々に緊張することをやめ、すべてを光の玉にゆだねていった。身体が宙に浮く。どこかへ運ばれていくのだろうか。これから何を目にすることになるのか、それはわからない。でも、すべてを受け入れる準備はできていた。
 ゆったりと落ちついた静かなこころ。
 あたりは静寂に包まれ、遠くから誰かがぼくを呼んでいるのがわかる。誰かが待っている。ぼくは目を閉じたまま、風船の糸を握る手を緩めるようにそっとこころを開放した。
 意識が拡散すると頭のなかがぼんやりとしたやわらかな光で溢れ、すぐそばで誰かの存在を感じ取った。それは韮沢源治という、ある男の意識だった。



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■ 2楽章

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「うん、ここは……?」
 目を細めて周囲の状況を把握しようとする。気づくと、私は見覚えのある風景のなかに立っていた。
「わしは何をやってるんだ?」
 頭がぼうっとする。まるで夢のなかみたいだ。自分の身体に目をやると、懐かしいくたびれた灰色のスラックスに黒いベルトを締め、半袖の白いワイシャツを着ていた。まだ村役場に勤めていた頃は、たいてい灰色か紺のスラックスだった。そういう服装が性に合っていたこともあるが、なにより服を何着も持っていなかったのだ。お洒落をする必要もなかったし、着たきり雀で文句を言う人もいなかった。みんながみんなそんな感じだから、服装で競ったりすることもない。装飾品も身につけない。意味がないのだ。それに、何よりお金がない。
 日本は高度経済成長期のなかにあった。働けばそのぶんだけ豊かになれる時代、今後どれほど多くの成功者が現れるか予想もつかない時代。将来に対する不安はなく、考えるべきは目の前の光をいかに明るくするかだけだった。失敗を暗示する要素は見当たらない。問題はどれほど大きな成功を手にするかだ。
 しかし、都市部ではどんどん便利になっていると聞くが、それが実際にどういうものなのかを地方にいる我々が肌で感じることはなかった。もちろん情報はテレビを通じて農村にも入ってくるが、それがどこか遠い国での出来事のように感じられる。世のなかは農業主体から工業主体へと驚くべきスピードで推移していき、テレビ画面を通して流れてくる派手に飾りたてられた街の表情からは、かつてのような農村部と都市部との関わりが徐々に失われつつあるように見えた。
 我々のこころのどこかに都市への憧憬がなかったといえばうそになる。しかし、村人は現在の生活を続ける道を選択した。村の生活を守り、不便ではあるが気心の知れた仲間と気兼ねなく生きてゆく生活はそう簡単に手放すことはできなかった。それに、実際のところ、さほど不便と感じたこともない。都市が急速に便利になっていっただけで、こちらは昔からずっと同じようにやってきたのだ。
 テレビから流れてくるのは忙しそうな表情をした人ばかり。村の生活も都市に負けず劣らず多忙ではあるが、街の人々の表情に笑顔の少なかった気がするのは気のせいではあるまい。我々の生活は幸福だった。ここでの生活に満足だった。それでも村人、とりわけ若い人のなかには村という共同体に一定の価値を認めながらも、なお都市部への憧れをくすぶらせている者が少なくなかった。人々の村を愛する気持ちは大変なものだったが、都市部へのひそかな憧憬は村のアキレス腱だった。誰にも知られてはならなかった。しかし、村人はその危険性に気づいていなかった。不幸なことに。
 再び視線を周囲に戻した。私は縁側に立っていた。あたりを見まわすと古い木造の和風建築でもうかなりガタがきているには違いないが、かといって不潔な印象は微塵も感じさせず、足もとの床板は磨きあげられて光沢を放ち塵ひとつ落ちてはいなかった。
「そっくりだな」
 目の前に広がる景色には確かに見覚えがあった。うちの玄関の壁にかけてある写真のなかの家。まだ幼かった頃に両親と、妹と4人で住んでいた家だ。9年前、村ごとダムの底に沈められた。いま、私がいるのは紛れもなくあの頃の、あの家だった。
 縁側の左はガラス戸になっており庭へと続いている。一方、右にはふすまを隔てて仏間があり、昼間でも薄暗くてひんやりとしているのが対照的だ。仏間の柱には大きな鳩時計が掛かっている。15分ごとに鐘がひとつ鳴り、1時間ごとに鳩が飛び出してきた。幼いころはそれがおもしろくて仕方なく、しょっちゅう時計の前に座っては鳩を待ち伏せていた。左のガラス戸が少し開いており、そこから庭の赤松の香りが入ってくる。暖色の陽光が庭を照らし、陰になった縁側もぼんやりとした薄明かりに包まれていた。もう夕方なのかもしれない。家のなかに人の気配は感じられない。

 左に庭を眺めながらゆっくりと歩いていき、ふと視線を前に戻すと、いつの間にか目の前には12年前に他界した母が穏やかな笑顔で立っていた。頭巾をかぶり、白い割烹着ともんぺに身を包んでいる。私が小さかった頃は、力強く、頼りになり、恐い存在で、一家を支える絶対権力者だった母。でも、いまこうして見るとびっくりするほど小柄で、弱々しく、また枯れ果てて見えた。父が病死したあと、女手ひとつで私と妹を育ててきた気丈な母。やつれたその身体にはもう指一つ動かす力さえ残っておらず、ただこちらに緩やかな微笑を向けるだけだ。暮れかけの陽光にひっぱられて、時間が止まりそうなほどゆっくりと流れる。
 突然、廊下のかどから妹の由紀子が飛び出してきた。7歳くらいだろうか。髪をゴムで結わえ、白いブラウスに真っ赤なスカートをはいている。大のお気に入りで、いつも身につけていた服だ。妹は幼年時に病気で死んでしまった。
「なあ、お母ちゃん。おにいが帰ってきたよ。おにいが帰ってきたよ」
 妹は無邪気な声でそう言うと、走ってどこかへ行ってしまった。庭からヒグラシの声が聞こえてくる。母は黙ったままこちらを見ていた。ここは本当にあの家なのか、それを確認しようと口を開いた瞬間、それをさえぎるようにして母が話しかけてきた。
「ほんと、あんたも良い孫を持った。勇気ある孫に感謝しなさいな」
「ここは?」
「何を言っとるの。あんた、自分の生まれた家を忘れたわけじゃあるまいね」
「でも、あの家はもうダムに沈んだはずだろうに」
 すると、今までにこやかだった母の顔に突然影が差し、寂しそうにうつむいてしまった。
「そうさね。沈んだよ、9年前に。あたしゃ反対だった。この村にはあたしらが生まれる前から先祖代々ずっと守ってきた土地があったし、あんたのお父ちゃんも眠ってるし、由紀子も眠ってるし、何よりみんなの生活があったし……ね」
「仕方なかったんだ。あれ以上、どうしようもなかった」
 私は視線を落とした。
「わかってる。あんただって、先頭に立って県の役人と交渉にあたってくれていたかんね。善悪の問題だけじゃないんだよ。どんだけ正論をぶっても、どんだけ一生懸命善意を持って対応しても、どうにもならんこともある。圧倒的な力には屈するしかない。あたしゃ別にええ格好しよういう気はなかったんよ。あの頃から自然を守ろういうて応援してくれる団体もあったけど、あたしは自然保護を訴えるつもりもなかった。だからといって自然破壊を認めるとは言うとらん。人間は自然と共存していかにゃならん。でもあたしはね、あたしはただ自分の大切なものを守るために闘っとったんよ。村のみんなが一緒に助け合いながら暮らすなかで、笑いを共有し、ひとの喜びを感じ、そして何より相手の哀しみを感じること。そんなこころ、昔はみんな当たり前のように持っていたんだけれどね、あのダムができるまでは」

 昭和41年、村にダムの話が持ち上がった。東京オリンピック後のいわゆる「40年不況」を乗り越えた日本経済は再び成長を始め、第二次高度成長期へと突入していった。街はにわかに活気づき、工場建設が相次いた。
 村の中央には豊かな水量を誇る川が1本流れていた。工場の建設ラッシュにより、大量の工場用水を確保する必要が出てきた。そしてこの村に白羽の矢が立つことになる。水没予定は172戸。この計画はしばらくの間、村に知らされることなく進行していった。村長を含めて村の人間が初めてこの計画を知ったのは、水資源開発公団が調査のために村に入ることになったときだった。
「ちょっと待ってくださいよ」村長は長々と文書を読み上げる事業担当者に向かって声を荒げた。「いきなり役場に押しかけてきて、何かと思えば村をダムに沈める? 我々は何も聞いていませんよ。こういうことは事前に話を通してもらうのが筋ってもんでしょう」
「いや、そう言われましてもねえ。こっちも県から正式な許可をもらっていますので」
「じゃあ、上の人に伝えてくれ。当事者に何の相談もなく勝手な決定をするなって」
「困りましたな」
「困るのはこっちだ!」
 村は一致団結して反対運動を行った。公団の後ろには県がついており、そのさらに向こうには建設省が控えている。勝算があるとは思えなかった。しかしそれでも、村人は頑として公団の調査を受け入れなかった。いったん調査を受け入れてしまえば、そのままダム建設まで押しきられてしまう可能性があることを知っていたからである。強固な結束を示す村人に対して、様々な揺さぶりがかけられた。

  県民の生活支えるダムの水
  発展に欠くことできぬ水資源
  人々に幸せ流す北昌村

 当時、県が作った標語である。これで村人がダム建設反対運動を続けることに後ろめたさを感じることを期待したのかもしれないが、ほとんど効果はなかった。一部の村民のあいだに、県と条件交渉を持ってはどうかという意見も出たが、県から交渉の余地ありとみなされるような行動は慎むべきだとの意見が多勢を占めた。実際、正式にダムの話が持ちかけられてから3年の間、村はこの話を黙殺し続けてきたのだ。

「おや、いい風が出てきたよ」母はガラス戸の向こうの庭を眺めて独り言のようにつぶやいた。「そういえば、風が出てくると、小さい頃のおまえはよく縁側に出て夕涼みをしていたっけね」
「縁側で空を見つめているとさ、なんだか不思議な気分になったんよ。寂しいような、うら哀しいような」
「あの頃はまだ、そんな自然の機微を感じ取るこころの余裕があったんだ。今のおまえはどうだい」
「特に……何も変わっとらん」
「そう。ならいいけどね」
 母はそう言うと、黙ったまま廊下の奥へと歩いていった。あとに続いてゆくと、右奥から誰かが階段を駆け下りてくる音が聞こえた。妹だった。目の前まで全速力でかけてくると、つんのめりそうになりながら足を止めて、こちらを見上げた。
「これ、あげる」
 そう言って手渡されたのは、小さな封筒だった。
「早く開けて、早く」
 せかす妹の顔を見つめると笑顔で元気にうなずいたので、封筒を開けてみた。そこには、上品な花柄の便箋が1枚と、淡い色の千代紙が数枚入っていた。便箋には妹の筆跡でこうあった。

  お兄ちゃん おたんじょう日おめでとう
  これからも元気でね

由紀子

「誕生日は1ヶ月前だったっけ。でも、いつまでも帰ってこないおにいが悪いんだからね」
 妹は照れくさそうに笑った。
「ありがとう」
 お礼を言って封筒を胸のポケットにしまうと、今度は母が言った。
「外はいい風だし、散歩でもするかね」
「あたしも行く」妹が留守番をさせられてなるものかといった調子で、とっさに反応する。
「誰も来るななんて言ってやしないよ」母があきれたように返す。
 2人は土間まで歩いていくと上がり框に腰掛けて草履に履き替え、ガラリと引き戸を開けて外へ出た。2人が出て行ったあと、しばらくぼんやりしているとおもてから母の鋭い声が飛んできた。
「何やってんだい。置いていくよっ」
 その声にはっとして、土間に合ったサンダルに足を滑りこませると、急いで外へ出た。
 母と妹がゆっくりと歩き出したので、慌てて声をかけた。
「おおい、鍵は?」
「壊れとる」母がこともなげに言った。「心配せんでも、誰も何も盗りゃせんて。由紀子、懐中電灯は持ったかい」
「うん」
 ゆっくりとした足取りで3人は庭を抜け、家の前の道路へ出た。

 陽はまもなく沈もうとしている。見上げると、西の茜色から頭上の紫色を経て東の紺色へと滑らかに推移し、すべての色が互いに溶け合ってひとつの空を彩っている。おそらく何万色の絵の具を使っても、これと同じ空は描けまい。
 ヒグラシの鳴くなかを3人で歩いていく。周囲に目をやると、いたるところ長い年月をかけて土を踏み固めた未舗装路ばかりで、側溝はところどころ羽目板が抜け落ちており、落ち葉や土の溜まっているのが見えた。通りの左側は山の斜面になっていて、部分的にコンクリートで補強してある。しかし、それでも陥没して雨水が溜まっているところがある。
 ダムに沈む村とは、こんなものだ。公共事業費が割り当てられることはない。道路の整備、上下水道の整備、電気、電話。ダムに沈む村はすべて後回しにされる。どうせそのうち湖の底に沈むのだから、と。そして皮肉にも巨額の税金を注ぎ込んだ大型公共事業、ダム建設によって村は消滅するのだ。
 暑くもなく寒くもなく、心地よい風の吹く通りをひたすら歩いていった。誰も口をきかず黙ったまま歩き続けていたが、気まずさは感じなかった。何も話す必要はない。3人で一緒に歩いているだけで、自然とこころが落ち着いた。いくつか家を通りすぎたが、電気が灯っている家は一軒もなかった。どの家にも人の住む気配がなかった。
「この村には、もう誰もいないのかな」
 そうつぶやいたとき、母が前を向いたまま言った。
「ほとんどの人は出ていったよ。それっきりだ。あたしだって、一度は村を出た身だから。でも、やっぱり村を忘れられない人もいるんだね。いくらも経たないうちに戻ってくる人もいたよ」
 そして、母は足を止めて右前方を指差した。2メートルほどの石垣があり、上に古い造りの家屋が建っている。道路から曲がりくねった緩やかな坂道が伸びており、石垣の上まで楽に登れるようになっていた。
「そこのサチさんはな、出ていってから3ヶ月でここに戻ってきよった。そのあとで久しぶりに再会したら、街での生活はしんどいってさ、開口一番に言うんだよ。どうしてって訊いたら、細かい決まりごとが多すぎると言うんだ。村で生活しているときと比べて、気を使うことが多い。どっちで過ごす一日も同じ24時間なのに、街ではあれもこれもやらなきゃならん。綿密な計画を一つひとつこなしていって、落ち着いた頃にはもう寝る時間。気がふれるってさ」

 母はうつむき加減でフフと笑うと、ちょっと寄っていこうかと言ってサチさんの家へ足早に向かっていった。妹は寄り道などいつものことだというように、歩調を速めて母のあとに続いた。
「ほら、おにいも早く」
 妹がこちらを振り返って叫んだ。どこか目的地があって歩いているわけでもないし、そのサチさんに対する興味もあったので、小走りに妹のほうへと向かった。見ると、母はすでにサチさんの家屋へと続く石段を登っていくところだった。
 母の後ろに回り、坂道を登っていった。母の背中が見える。小さい身体に曲がり気味の腰、後ろ手に組んだ両手は日に焼けており、深い皺がいくつも刻まれている。さすがに駆け上がることはできず、一歩一歩ゆっくりとした足取りで登っていくのだが、どこかうきうきしたような雰囲気をただよわせているのが、かわいらしく感じられる。こんなこと、口に出したら怒鳴りつけられるに違いない。それにしても、いったい母はいま何歳なのだろう。
 登りきると、正面にさして大きくもない日本家屋が現れた。こんな家が近所にあっただろうか。記憶をたどってみたが、何も思い出せなかった。窓はすべて開け放たれ、奥のほうからうっすらと明かりが漏れていた。どこからかさかんにニワトリの鳴く声が聞こえた。敷地の右側は畑、左には正面の母屋に対して直角に大きな納屋があった。一階は牛小屋で、二階はおそらく干し草置き場になっているのだろう。かつてはここに牛のニ、三頭も飼われていたのだろうが、いまは牛の姿もなく、スコップや如雨露(じょうろ)やバケツや箒やナタや鍬や、その他こまごまとした道具のためのもの置き場になっていた。納屋を左に見ながら歩いて行くと、母屋の扉が見えてきた。母はまるで自分の家であるかのように、さっさと開け放たれた扉をくぐっていった。その母に続いて家に入ると、なかは静まり返っていた。
「サチさーん」
 母は土間に立ち、嬉しそうに元気な声で呼んでみた。しかし、返事はない。もう一度、今度はさらに大きな声で呼んでみたが、同じだった。返事がない。それに何の音も聞こえてこない。
 藍色の薄明かりのなか目を凝らすと、土間を上がってすぐの部屋には掘りごたつがあり、上に湯呑が置いてあった。読み止しの新聞が畳の上に投げ出されている。それによく耳を澄ませば、壁にかかった旧式の振り子時計の音も聞こえた。奥の部屋の電灯が点いており、誰かが住んでいることは間違いないようだ。ならば、どうして返事がないのだろう。もしかして耳が遠いため、こちらの呼び声が聞こえていないのではないだろうか。いや、それとも奥で倒れているとか。考えられない話ではない。失礼して家に上がってみたらどうだろうか、そう母に言おうとしたとき、妹が口を開いた。
「出かけているんよ、きっと」
 しかし、母はそれを聞いているのかいないのか、何やらつぶやきつつ、いま入ってきた扉へと向かっていった。
「ちょ、ちょっと」
 妹があとを追ったので、一緒についていく。母はおもてへ出ると納屋のほうへ向かい、右に回りこんで姿を消した。あとを追うと、納屋のわきに奥へと通じる小道があった。先へ進むにつれ、ニワトリのけたたましい鳴き声が聞こえてきた。そこにはブリキの板と材木と金網で作られた簡素なニワトリ小屋が夕陽に照らし出されて建っていた。小屋の正面には一面に金網が張り巡らされ、下に十センチほどの隙間がある。隙間の下には縦に割った竹が樋のように横えてあり、そこにペースト状のえさが盛られていた。ニワトリは金網の下の隙間から首を出し、さかんにえさをついばんでいる。横にはバケツがあり、大きなしゃもじが顔を覗かせていた。バケツにはニワトリのえさがたんまりと入っていた。穀物やら野菜やらを乾燥させて粉末状にして混ぜ合わせたあと水を加えてペースト状にしたものだ。栄養面では申し分ないだろうが、何とも言えない強烈な匂いがする。
 まもなく日没だった。ニワトリ小屋の左後ろ、はるか遠くの山間に夕陽が沈んでいく。小屋の左端に人影があった。影はオレンジ色の夕陽のなかに平面的な黒いシルエットとしてとして浮かび上がり、微動だにせず西の空をじっと見つめていた。夕陽が完全に逆光となり、その人の服装すら窺い知ることができない。
「こっちにいたんね」
 母はまぶしそうに目を細めたまま声をかけた。シルエットがゆっくりと振りかえる。
「ああ、シズ江さん。由紀子ちゃんも一緒かい。いい風が出てきたからね、こいつらにえさをやったあと、ちょっくら風にあたってたの」
 サチさんはにぎやかなニワトリ小屋を指差し、ゆっくりとこちらへ歩いてきた。頭に手ぬぐいを巻きつけ、しわだらけの小さな顔で優しく微笑みかけてきたその顔を見て、ようやく近所にこんなおばちゃんが住んでいたことを思い出した。母と同じくらいの背格好で、薄手の灰色のズボンに白いシャツを着ていた。ボタンを上まですべて留めてあるところなど几帳面な性格のあらわれともとれるが、足元はぼろぼろの草履だった。
「家のなかにいなかったから、ここじゃないかと思ったよ。案の定ね」
「あれ、後ろにいるのは源治さんとちがうかい。久しぶりねえ。もうじき飯が炊き上がるから、みんな上がっていきなさいな」
「いきなり訪ねてきたのに?」妹が不安げに言う。
「今日は少し炊きすぎたんじゃ。食べていってもらわんと困る」サチさんはにっこり笑うと、母の横を通りすぎて母屋へと向かった。「さあさあ、いつまでそこにいるの。一緒に来なさいな」
 先頭に一つ、遅れて三つの人影が地面に長い尾を引きながら、ゆっくりと動き出した。

 サチさんはさっさと家に入り、土間と茶の間の電気を点けるとすぐに台所へ向かった。母も「あんたたちは座ってゆっくりしてな」と言い残し、サチさんに続いて台所へ入っていった。台所の床は土がむき出しになっているらしく、ふたりの笑い声に混じってときどき床を擦る草履の音が聞こえてくる。
 私と由紀子は履き物を脱いで茶の間に上がった。掘りごたつに座っても手持ちぶさたで落ちつかず、あたりを見まわしたり、新聞を手にとってはすぐ元に戻したり、時計を眺めたり、となりの部屋の様子を想像したりしていた。由紀子を見ると、横になって居眠りをはじめた。この神経がうらやましい。
 しばらくしてサチさんと母が茶の間に入ってきて、こたつの上に夕食を並べた。山盛りのご飯にさつまいもの味噌汁、畑でとれたというキュウリの漬物、大豆の煮物、人参とごぼうの煮物。
「お代わりはあるからね。遠慮なくどうぞ」
 天気や農作物などについてあれこれ話しながら食事は進み、時間はあっという間に過ぎていった。みんなが飽きれるほど食べたおかげで皿は洗いたてのようにきれいになった。サチさんに見送られて家をあとにした。

 見上げると、さっきまで晴れていた空に、西方から分厚い雲が迫ってきていた。風がでてきてうすら寒い。おもてはすっかり暗くなって足元すらよく見えないのに、どの街灯も電球が切れていて、月明かりだけが頼りだった。しばらく歩くと、ぽつぽつと雨が降ってきた。
「降ってきやがった。急ごう」
 そう言って足を速めたとたん、母が弱々しい声を出した。
「ちょ、ちょっと待っとくれ。足が痛くて、そう速く歩けんて」
「でも雨が――」
「あのさあ、どっかで雨宿りしない?」
 見ると20メートルほど先に左へ折れる路地が見える。由紀子に促されるままに歩いてゆき、路地を入ると大きな農家が現れた。母屋の左手前に家畜小屋があり、屋根の下に逃げ込むと同時に雲が月を隠し、周囲はさらに暗くなった。
 ポツ……ポツ……
 ポツポツポツ……
 ボタボタボタ……
 バアァー
 本降りになった雨。銘々その場にしゃがみこむ。雨足は強くなる一方で、弱まる気配はなかった。
 そのとき、一瞬あたりが昼のように明るくなり、同時に鼓膜が破れるほどの雷鳴が響き渡った。震動で小屋が軋む。左前方に農家の母屋が見えた。闇が戻ったあと、母屋の見えたほうに目を向けたが明かりはなかった。
 由紀子はしゃがんだまま耳を押さえ、声を押し殺して泣いている。母はぼんやりとおもてを見つめていた。
 どこか遠くで、強風にあおられた木々が葉を激しく擦り合わせ、ザザアザザアと波のうち寄せるような音をたてている。雨はさらに激しさを増し、その勢いは天上の水門が開いたのかと思うほどだった。
 まわりは完全な闇に包まれ、自分の手すら見えない。私は下を向き、役に立たない目を閉じて、耳に入ってくる音だけをずっと聞いていた。由紀子はいつまでも泣き続け、母はいつまでも闇を眺め、私はいつまでも耳を澄まし、そして雨はいつまでも降り続けた。何も考えられなくなり、意識が遠のいてゆく。
 ここは私がかつて暮らした村。人々に棄てられ、ダムに沈んだ村だ。


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■ 3楽章

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 昭和22年8月29日。7歳になった由紀子を連れて、私はいつもの山道を歩いていた。
「ねえ、どこなの? 本当にあるの? あたし、見たことないよ」
 午前10時。空は限りなく白に近い青。風はない。太陽からは夏の日差しが降り注いでいた。頭上の樹々の葉が傘になってくれていたが、それでも隙間を突破した太陽のかけらで肌が焼かれてゆくのがわかる。暑いというより、むしろ熱かった。
「ねえったら。あとどれくらい歩くの? お昼までには戻るんでしょ?」
「うるさいな。嫌なら帰れよ」
「なによ。見せてやるって言ったのは、おにいじゃないの。おもしろい洞窟があるって。なかが光ってる不思議な洞窟があるから一緒に行こうって」
「行くかどうか訊いただけだ。無理やり誘ったわけじゃない」
 うしろでは由紀子がいまだに不満を漏らしていたが、私は聞こえないふりをして歩き続けた。セミの鳴く声だけが耳に入ってくる。
 前の晩、私と由紀子は寝る前に、母からある言い伝えを聞いていた。この地には不思議な入口があるという。それはどこかの洞窟の最深部にあり、光が溢れるその入口をくぐると不思議な世界が広がっていて、好きな人のこころを少しだけ知ることができる。
「お母ちゃんも見たことあるよ。丸い入口がぱあぁって光っていてね、向こうに行くとあんたたちのお父ちゃんがいた。あんたたちに何もしてやれなかった、心残りだって、そればっかり言ってたよ」
 おやすみ、母はそう言って寝室のふすまを閉めた。隣からはすぐに由紀子の寝息が聞こえてきたが、私は眠ることができなかった。
 入口は洞窟の奥にある。
 洞窟ってどこだ。
 そういえば、いつもの山道に大きな洞窟が。
 まさか、あそこか?
 ただの言い伝えに過ぎない、そう思いつつも、明日になったら確かめてやるとこころに決めていた。
「着いたぞ」
 そう言って振り返ると、はるか後ろに由紀子の姿が見えた。洞窟のわきの大きな岩に寄りかかり、ぼうっと空を見上げる。頭上は無数の葉に覆われており、あちこちが星のように輝いている。背中に伝わるひんやり冷たい岩のごつごつとした感触。草と土のにおい。セミの声。
 10分以上たってから、隣に息切れした由紀子がやってきた。
「もう、歩くの速いよ。待ってって、言ってるのに、どんどん、歩いていってさあ」
 私は何も言わず、じっとそこに立っていた。
「あ、この岩、冷たくていい気持ち」由紀子は岩に抱きついてぺったりと顔をつけ、目を閉じたまま言った。「で、洞窟まであとどれくらいなの?」
「ここだよ」
「え?」
 由紀子が目を開けると、すぐ隣の高くそびえた土壁に大きな口が開いているのが見えた。
「うわあ、こんな洞窟あったっけ。すごい」
 洞窟は巨大な掘削機でくりぬいたような、とてつもなく大きなものだった。なかはひんやりとしており、奥のほうは真っ暗でよく見えず、あちらこちらから水のしたたる音が聞こえてきた。固い土の地面には、こぶしくらいの石がごろごろしていて、気をつけて歩かないと足をとられそうだ。
「とりあえず、奥に行ってみようぜ」
 そう言うと、私は洞窟に踏み込んでいった。由紀子は小走りに近づいてきて右隣に並び、ときおり振り返ったり天井を見上げたりしながら、驚いたような、感心したような声をあげることもあったが、たいていは足元を見つめて慎重に歩いていた。
「なんかさあ、石ばっかりだね。ここが本当にお母ちゃんの言っていた入口なのかな」
 由紀子が石を蹴るとそれは闇のなかに消えてゆき、ほかの石にぶつかったのか、カツンという音だけが聞こえた。
「光っていないし。奥のほうは真っ暗だよ。こんなところに入口があるのかな」
「たぶん奥に進むと光が見えるんじゃないかな」
 一歩進むごとに明るさは急速に失われてゆき、歩みも自然と遅くなっていった。
「懐中電灯を持ってくればよかったね。光へたどり着くまでに、何も見えなくなっちゃう」
 私は左手で壁を触りながら、なおも前進を続けていた。由紀子は私のシャツの端をしっかりと握っている。やがて足元さえよく見えなくなった。
 ズズ、ズズッ。
 土と擦れ合う靴の音が洞内に響く。由紀子が言った。
「そろそろ引き返したほうがいいんじゃない。べつにおにいの話を疑っているわけじゃないけどさ、懐中電灯だけでも取りに戻ったほうがいいよ。こう暗くちゃ、入口までたどり着けないって」
 私は足を止めてじっと黙っていたが、ゆっくりと「そうだな」と言うと踵を返した。そして私たちがおもてへ向かって歩き出したその瞬間、背中のほうで蜂の羽音のような、ブウンという低い音が聞こえた。2人の足が同時に止まる。
「なんだ?」
 後ろを振り返ろうとすると、泣きそうな声で由紀子が言った。
「いいよ! もう帰ろうよ」
 私は由紀子の手を振り払った。
「あたしは行かないからね!」  叫ぶ由紀子を置いたまま、再び奥へと入っていった。洞窟は20メートルほど先で右へ直角に折れており、その向こうから白い光が漏れている。体を硬直させながらじりじりと進んで角を曲がると、まっすぐ伸びる洞穴のはるか先に白い球体が浮遊しており、激しい光を放っていた。
「あった。本当にあった……」
 しかし、好奇心に駆られてやってきた洞窟の奥でようやく目的の入口を見つけたとき、私の両足はすくんで動かなかった。
 ブウン。
 球体が再びうなりをあげた。
 視覚と聴覚を残してすべての感覚が薄れてゆき、私は目を見開いたまま瞬きもせず、その場に立ち尽くしていた。頭のなかで誰かが、逃げろと繰り返し叫んでいた。しかし、足は微動だにしない。
 球体はこちらの存在に気づいたかのように、輝きながらじわじわと近づいてきた。どれくらい時間がたったろうか、球体が突然スピードを上げて迫ってきた。その瞬間、頭のなかでひときわ大きな声が叫んだ。
「逃げろ!」
 それは紛れもなく自分の声だった。純粋な恐怖心が腹から胸を通って頭頂へと突き抜け、同時に体は呪縛から解き放たれたように自由になり、私は何も考えられず、はじかれるようにその場から逃げ出した。  薄暗い洞内を何度も転びそうになりながら必死に走り抜け、外からの光が射し込むところまでたどり着いてようやく落ち着きを取り戻した。ふと、由紀子がいないことに気づいた。帰ったのかな、そう思って歩き始めたとき、後ろからうめき声が聞こえた。
 由紀子が地面に倒れこんでいた。
「おい、大丈夫か」
 近づいて声をかけると、由紀子は泣きじゃくりながら怒鳴った。
「大丈夫なわけないでしょ。猛スピードで走ってきて、どうしたのって聞いても返事すらしないで、あたしを突き飛ばしていって」
「え?」
「もうやだ……」
 由紀子は倒れこんだまま背中を丸めていた。
「ごめん、気づかなくて」
 もう帰ろう、そう言って私が手を差し伸べたとき、手につかまって立ちあがろうとした由紀子が短い悲鳴をあげて再び崩れ落ちた。見ると、石で切ったのか、右のふくらはぎから血が流れていた。
「力がはいらない」
「おぶっていってやるよ」
 ハンカチで傷口を覆い、嫌がる由紀子を背負って洞窟を出ると、思ったよりも時間がたっており、陽はすでに傾きかけていた。
「入口、あったの?」
「ないよ、あるわけない」
「そう……。ねえ、おにい、おなかすいた」
 アブラゼミのにぎやかな合唱はいずこへと消え去り、ヒグラシのカナカナという澄んだ音色が響いていた。家まではたいした距離じゃない。私たちはひとことも口をきかないまま、山道をひたすら下りていった。
 由紀子はもともと体が強いほうではなく、また小柄で痩型だったため、背負っていても重いとは感じなかった。
 家が見えてきた。

 窓からのぞいた家のなかは真っ暗だった。母はいない。かぎを開けてなかに入り、上がりがまちに由紀子を座らせると、玄関わきにぶら下げてあった手ぬぐいを取っておもての井戸に向かった。
 濡らした手ぬぐいを固く絞って由紀子のところへ戻り、ハンカチをほどいて傷口を拭いてやる。すでに血は止まっていた。
「おにい、もう大丈夫だよ」
 由紀子はかすかに笑ったがその表情にいつものような元気はなく、薄暗い家のなかにやわらかなオレンジ色の陽光が射し込んでいるこの状況がそう見せるのか、しぼんでしまった朝顔のように感じられた。
 由紀子は疲れたと言って寝室へ行き、布団を敷いて横になった。ふすまがぱたんと音をたてて閉まるとそれきり何も聞こえなくなり、私はひとり上がりがまちに腰掛けたまま、電気をつける気力もなく、ぼんやりと母の帰りを待っていた。
 洞窟なんか行くんじゃなかった。ましてや、由紀子を連れて行くべきじゃなかった。
 頭に浮かぶのはそのことだけだった。意気込んで出掛けてはみたものの、洞窟の闇に不安になり、求めていた入口を前にして恐怖に駆られ無様に逃げ出した。得たものは何もない。唯一手に入れたものといえば、由紀子に怪我を負わせてしまったという罪悪感だけだった。
 どうして洞窟に行こうなんて思ったんだろう。
 どうして由紀子を連れて行こうなんて思ったんだろう。
 どうしてあんなに自信があったんだろう。
 どうして……。
 いままで私は自分を強くて優しい兄だと思ってきた。でも、それは本当の姿を知らなかっただけなんだ。私は強くも優しくもない。本当の自分は、いまこうやってうなだれて座っている臆病で思いやりのない人間に過ぎない。私は自分を憎んだ。軽率、身勝手、無責任、傲慢。自分を憎んで憎んで、貶めて貶めて、そうすることで少しでも楽になろうとした。そんな自分がまた嫌になった。
 陽が落ちてあたりが急速に青黒くなってきたころ、家の外で足音が聞こえ、開けっぱなしの戸をくぐって風呂敷を背負った母が入ってきた。
「おかえりなさい」
 母は一瞬体をびくつかせ、大きくため息をついた。
「なんだい、電気もつけないで。誰もいないのかと思ったよ」
「うん」
「……何かあったのかい」
 母は風呂敷を床に上げ、電気をつけた。
「由紀子が怪我しちゃって」
「またケンカでもしたんでしょうが。仕方ないね」草履を脱ぎながらそう言うと、私に風呂敷を手渡した。「それ、戸棚にしまっておいて」
 のぞいてみると、茶筒が4本入っていた。
「どうしたの、これ」
「先月、田村さんとこにお嫁さんがきたでしょう。サチさんって覚えてる?」
「ああ、あの人にもらったんだ」
「お母ちゃんと同い年だし、気が合ってね。物腰の柔らかい、いい人だよ。ご実家に茶園があって、飲みきれないほど送ってきたんだって」
 母は食器棚から湯呑を取り出して卓袱台(ちゃぶだい)に置いた。
「由紀子は?」
「奥で寝てる」
「お湯は?」
「沸いてない」
 沸かしといて、そう言い残して母はふすまの向こうへ向かった。私は目を閉じた。いっそのこと、消えてしまいたかった。

 由紀子が病に倒れたのは洞窟探検から5日後、帰途で夕立に遭い、ふたりともずぶ濡れになって家に帰ってきたあとだった。
 家に入るなり由紀子は気分が悪いといって布団にもぐりこんだ。その後、帰宅した母が様子を見に寝室へ向かったが、すぐにものすごい勢いで飛び出してきた。
「何があったの!」
 飛び出してきた母がまくし立てた。
「帰る途中で雨に降られて――」
「えらい熱だよ」
 母は私の話を聞かずに電話機へ駆け寄った。隣の部屋には由紀子の寝ている姿が見えた。ダイヤルの間延びした音。
 村の医者はちょうど町へ出掛けており、戻ってきたのが夜の9時、うちへやってきたのは9時15分きっかりだった。
 診察を終え、かばんに医療道具を突っ込み始めた医者に、母は心配そうな声で尋ねた。
「どうなんでしょう」
「夕食後にさっきの薬を飲ませてください。あとは安静に。食事はなるたけ摂ったほうがいいでしょう。由紀ちゃんは体が弱いから栄養をつけないと」
「悪いばい菌でも入ったんですか」
「熱はたいしたことありませんが、ただ……破傷風かもしれません。とりあえず処置はしましたが、体力をつけて安静にさせてください」
 玄関で医者が帰るのを見送ったあと、私と母は由紀子の元へ戻ってきて布団のわきに座った。
「右脚が重たい」
 由紀子はそれだけ言うと真っ赤な顔をして咳き込んでいたが、やがて眠りについた。
「お母ちゃんな、いろいろとやることもあるから、明日からあんたも由紀子の面倒をちゃんと見てな」
「学校は?」
「学校から帰ってきてからの話よ。あんたが一緒にいてあげれば、あの子も少しは気が楽になるから」

 翌朝、いつもより早く目を覚まして、しばらく天井をじっと眺めていた。
 ピッピッピッ。ピュルルルル。窓の外で鳥のさえずる声が聞こえる。一方、家の裏ではニワトリが盛んに鳴いていた。母がえさをやっているのだろう。由紀子は昨夜から隣の部屋、病死した父がかつて使っていた部屋で寝ていた。ときおり咳が聞こてくる。
 なんとか由紀子を元気にさせてやりたかった。いや、元気にさせてやりたいということ自体、おこがましいのかもしれない。由紀子の病気の原因はたぶん私にあるのだから。
 ゆっくりと布団から抜け出し、Tシャツと短パンに着替えるとおもてに出た。向こうから母がやってきた。右手にえさの入ったバケツを下げている。
「おはよう。今日は早いじゃないの」
「目が覚めちゃって」
「せっかく早起きしても、のんびりしてたら学校に遅れるよ」
「わかってる。時間はまだあるから」
 母が家に入っていったのを肩越しに見たあと、私はそのまま庭の花壇に近づいていった。
 花壇には1メートルほどの高さに切りそろえられた細い竹の棒が3本並んでおり、それぞれ緑色の蔓を複雑にまとわりつかせながら、朝顔の花をいくつも咲かせている。真んなかが母の棒、左が私、右が由紀子のだった。私は一番大きく開いている左端の花を摘み、井戸に立てかけてあった洗濯桶を持って家に戻った。
 由紀子の寝ている部屋に入り、桶をそっと枕元に置いた。すぐに部屋を飛び出し、風呂場へ寄って手桶を引っつかむと、そのままおもての井戸まで走る。手桶に水を満たして部屋へ戻り、洗濯桶に水を流し込んだ。部屋と井戸を何度も往復し、水深が5センチほどに達したところで桶のなかに摘んできた花を入れた。朝顔は澄んだ水の上を緩やかにたゆたう。窓から明るい朝日が射し込んでおり、桶の水がきらきらと光った。私はさらに居間の戸棚からお猪口を3つ持ってきて浮かべた。窓を開けると涼しい朝の空気が入ってきた。部屋を静かな風が吹き抜け、水面が小さく波立つ。お猪口が互いにぶつかり合って、ちりんちりんと透き通った音をたてた。
「きれいな音だね」
 由紀子は横になったままこちらを見つめていた。
「なんだ、起きていたのか。」
「ん、たったいま」
「涼しい気分になると思ってさ。熱は?」
「大丈夫。少しぼうっとするくらい」 「おれさ、授業が終わったらすぐに戻ってくるから、それまでゆっくり寝てろよ」
「お母ちゃんもいるし、心配しないで。」
 由紀子はそう言うと、窓からの光に目を細めた。
「じゃあ、もう行くから」
 おもむろに立ち上がりふすまに手をかけた瞬間、背中から由紀子の声が聞こえた。
「おにい、本当は入口見たんでしょ。どうだった? 光ってた? 入口の向こうって、好きな人のこころがちょっぴりのぞけるんだよね。あたし、おにいのこころのなかが見たいなぁ」
 振り返ると、由紀子は目をつむっていた。
「怖くないよ。あたし、ぜんぜん怖くない……」
 私は部屋を出て、静かにふすまを閉めた。

 学校から帰ってくると、畑仕事を終えた母が布団のそばに座っていた。由紀子の容態は、あまり芳しくなかった。鼻の頭にうっすらと汗をかきながら眠っている。枕元の洗濯桶をのぞいたが、朝顔はもう入っていない。
「しぼんちゃったから」
 母は鉢に入った粥を箸でかき混ぜながらつぶやいた。私は隣に腰をおろした。
 窓は開いていたが、凪いだ部屋にはむっとした空気が立ちこめていた。陽が落ちるにはまだ時間があり、窓からジージーとセミの声が入ってくる。
「どんな具合なの」
「それがねぇ、お粥も食べないんだよ。暑くて食欲がないのかもしれないけれどさ」
 母は粥の入った鉢を盆に戻した。盆には水の入った湯呑と、飲み終わった粉薬の包み紙がくしゃくしゃに丸めて置いてあった。
「まったくどうしたもんかね、この子は。栄養を摂るようにって先生に言われたけれど、何も食べたくないって言うし。朝におむすびをひとつ食べたきりだよ」
「でも、お薬を飲んでいるから大丈夫だよ」
 母はのっそりと立ち上がり、ふすまを開けた。そして腰をかがめて盆を持ち上げると、「だといいけど」と言いながら台所のほうへ歩いていった。
 ずいぶんと長い時間、私は由紀子の寝顔を見ていた。どれくらいたったか、台所から聞こえてくる包丁とまな板の音にはっとすると、部屋は薄暗くなっていた。母が夕食の支度をしている。手伝わなければならない。私は窓に近づいて雨戸をそっと閉め、部屋を出て台所に向かった。

 由紀子が寝込んでから3日目の夜中、ふと目を覚ました。隣の部屋から激しく咳き込む声がする。ふすまの隙間から明かりが漏れていた。
 布団から這い出してふすままでゆき、そっと隣をのぞくと、由紀子が横になったまま顔を紅潮させて咳を繰り返しており、傍らの母と医者がひざ立ちで看病していた。母は手桶の水で濡らした手ぬぐいを由紀子の額に乗せ、医者は由紀子の口に湯呑をあてがい、何かを飲ませようとしていた。薬かもしれない。
 私は音をたてないようにふすまを開き、部屋に入った。
 母は私に気づくと、こちらにきて座りなさい、と目で合図した。
「熱がね、下がらないんだよ」
 独り言のように、母はポツリと言った。
「でも、お薬だって飲んでいるし、大丈夫なんでしょ」
 母は答えなかった。目はうつろで、どこかあきらめているようにも見えた。
「大丈夫だよね。死んだりしないよね」
「縁起でもないこと言うんじゃないよ」ろうそくの炎すら揺るがないほどの弱々しい声。「いま先生が――」
「ゲホゲホッ」
 母が言い終わらないうちに、また由紀子が咳き込み始めた。口許の湯呑を弾き飛ばし、体をけいれんさせ、涙を流しながら咳をしている。布団の上には、吐き出したもので茶色い染みができていた。母は濡らした手ぬぐいを取り替え、医者と私はそれをじっと見守っていた。由紀子の呼吸は荒くなり、何を話し掛けても返事はなく、口から出てくるのはうわごとと咳だけだった。

 東の空が白み始めた。夜通し点いていた部屋の灯りが消え、私たちに見送られて医者が帰ってゆく。
 薄蒼い空気のなかで私も母もしばらく玄関に立ちすくんでいた。ひとことも言葉を交わすことはなく、ただほうけていた。家のなかに咳き込む声はもう聞こえない。そして、穏やかな寝息すらも消え去っていた。


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■ 4楽章

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「韮沢、今日が誕生日なんだって?」
 いきなり話しかけられて反射的に机上から目を上げると、そこには同僚の榊原が立っていた。
「誕生日? ああ、そういえばそうだっけ」
「自分の誕生日も忘れるほどの歳になったわけだ」
「冗談やめろよ、まだ31だ」
 榊原はけらけらと笑いながら自分の机に戻っていった。私は再び、目の前に積まれた書類へ目を戻した。
 私は村の役場で働いていた。まだ残暑が厳しく、窓はひとつ残らず開け放たれているにもかかわらず風は少しも入ってこなかった。蒸した空気がじっと息を潜めている。空は厚い雲に覆われて薄暗く、夕立でもくれば少しは涼しくなるのだがなかなか雨は訪れず、中途半端な空模様がかえってイライラを増幅させていた。部屋に3台設置されている扇風機もないほうがましだった。ゆっくりと回転する羽根からは生暖かい空気が垂れ流されるばかりで、我慢の限界を越えた職員が奇声を発しながらコンセントを抜くことも珍しくない。私は汗で密着するワイシャツの背中を両手でつまみ、上下に動かして空気を送った。
 壁に掛けられた時計の針が5時を指すと、部屋にいる5人の職員は自分の机上を整理し、帰り支度を始めた。私が読みかけの書類をかばんに詰め込んでいると榊原がやってきた。
「その書類、持って帰るのか?」
「ああ、今日中に読んでおこうと思って」
「それって、昼間に村長が言っていたやつだろ? 藍田川にダムを造るっていう」
「寝耳に水だよ。建設省の担当者がいきなりやってきて、村長とかなり揉めたらしい」
「ダム建設にはおれたちが邪魔だって言ったそうじゃないか。くそっ」
 榊原は吐き捨てるようにそういうと扉に向かって歩き出したので、私もかばんを持ってあとに続いた。
「お先に失礼します」
 私たちはまだ残っている3人に挨拶すると、廊下を通って裏口から駐輪場へ向かった。周囲の森から、まさに大合唱と表現するにふさわしい、おびただしい数のセミの鳴き声が私たちを取り巻いていた。
 榊原は自転車のかごにかばんを投げ入れると、サドルにまたがりながら重たい口調で言った。
「おまえ、大丈夫か?」
「……何が?」
 何のことかわからず、私は間の抜けた顔で聞き返した。
「何が、じゃないだろ。村長はダム建設に反対だ。実際、今日の昼間の件だって一歩も譲らなかった。反対運動の音頭取りは村長だ」
「だからどうした。おまえは賛成なのか?」
「そんなわけないだろ。大反対だよ」
「だったら問題ないじゃないか」
「わからないやつだな」榊原は何度もハンドルを握ったり放したりしながら言った。「おまえは村長から反対運動の補佐役を頼まれた。書類を渡されたのはそういうことだろ。事情をよく理解しておくために」
「なんだ、そのことか」
「なんだ、っておまえ……ずいぶんと軽いな」
「誰かがやらなくちゃならんし。おれはダム反対派だから引き受けた。それだけだ」
「あまり親に心配かけるなよ。おまえのお母ちゃんには、おまえしかいないんだから」
 榊原はペダルに足をかけ、じゃあまた明日と言うと、あっというまに走り去っていった。私も自転車にまたがり、かばんをかごに入れた。鼻の頭を冷たいものがかすった。
「なんだよ、いまごろ降ってきやがった」
 私はペダルを力いっぱい踏み込んだ。

 多くの県がそうであるように、我が県の財政も苦しかったため、公共事業、特に多額の資金が流入する橋やダムなどの大型公共事業は歓迎された。
 しかし、歓迎の理由はそれだけではなかった。ダム建設は藍田川下流で県の中心部にあたる諸峰市の大手建設業者が請け負っていた。選挙時の建設会社の集票力はかなりのものがある。県会議員がダム建設に積極的だったのは、建設会社を味方につけるというねらいもあった。
 頻繁に交渉を持ちかけてくる県に対し、村長は一切の交渉を拒否した。村長の姿勢にほぼすべての村人が賛同し、たびたび自主的に勉強会が開かれた。

 村人が団結してダム建設反対の姿勢を見せていた当初、県は事態を楽観視していた。何度か話を持ちかければ、いかに頑固な村といえどいつまでも無視をきめこむわけにはいくまい。じきに交渉のテーブルへとつくであろう。そうすれば、条件を飲ませるのも時間の問題である、と。しかし、村はダム計画に対していっさいの妥協を許さなかった。
 実際に水を必要としている地区があることは村人たちも知っていた。しかし、だからここにダムを作らなければならないという論理には釈然としないものを感じてもいた。
 ダムの恩恵を受けるのは都市部の人間だけであり、村人はむしろ甚大な被害を被ることになる。そのことを県はどれほど分かっているのだろう。村を沈めてダムを造らなければならないほど、それほどまでに都市部の水不足は深刻なのだろうか。他の方法は考えられないのか。都市部の工業用水を確保するためならば、小さな村など水の底に沈めてしまっても構わないのか。その村に住む人々が、永きに渡り連綿と受け継いできた自分たちの土地にどれほどの思いを抱いているか、そんなことは考慮されることもなく。
 すべてが大きな力によって動いてゆく。時代の趨勢に押し流されそうになりながらも、村人たちは互いの手を堅く握り合い、励まし合った。わしらの土地はわしらのもんだ。ご先祖さまが眠っとる。何が何でもこの土地は渡すものか。
 一人ひとりの眼に無限の力が宿っていた。やってやれないことはない。その気になれば、時代の要請さえはねつけることができるさ。
 相手は県、そして国という途方もない相手であり、その巨大な敵に我々弱者が団結して闘いを挑む。この構図がもたらすものなのか、不思議な高揚感を感じ、強力な連帯意識が芽生え始めた。思い描くイメージは常に勝利の瞬間。県はダム建設予定を撤回し、村人は勝どきをあげ握手を交わす。そんな映像が幾度となく頭をよぎるうちに、考えうる可能性のひとつにすぎないイメージはいつの間にか約束された未来図となっていた。確実なる未来への躍進。目の前に続く勝利の道を疑うものなど、誰ひとりいなかった。

 昭和44年、5月27日、夜8時。私は家で母と遅い夕食を摂っていた。
「本当に、この村はどうなっちまうのか」
 母は箸を休め、真っ暗な外を見遣りながら言った。
「お母ちゃん、全部食べないとだめだよ」
「わかってるよっ。あたしが作った食事じゃないか。こんなにうまいものはないよ」
 母は、おいしいおいしいと繰り返しながら、何度も箸を口に運ぶ真似をした。
 私が味噌汁を飲もうとして茶碗を持ったとき、激しく戸をたたく音がした。
「おや、誰か来たみたいだよ」
「いいよ、おれが出る」
 私は立ちあがりかけた母を制し、土間に降りて戸を開けた。そこには薄手のセーターにジーパン姿の榊原が立っていた。
「大変だ!」
 彼は私の顔を見るなり叫んだ。
「どうしたんだよ。カミさんが逃げ出したか?」
「冗談言っている場合じゃない。陽が落ちてから公団が来たんだ。いま強引に調査を始めようとしている。みんな集まっているから、おまえも来い」
 私はちょっと出てくると言い残し、自転車にまたがって榊原と川辺へ急いだ。

 月明かりに照らされた夜道をこれ以上ないというほどのスピードで飛ばしていった。川辺が近づくにつれ、ぼんやりとした光が見えてきた。人がいるようだ。罵声が飛び交っている。このあたりは夜になると静まり返り虫の鳴き声くらいしか聞こえなくなるため、人間の声はよく通る。
 川辺に着いて自転車を横倒しにしたまま川原に集まっている人々の近くへ駆け寄ると、そこでは作業服を着てヘルメットをかぶった見慣れない男が10人ほどと、村長をはじめ近所の村人15、6人とが対峙したまま口論を続けている最中だった。
「県はここまでするんですか」
 村長は沸き立つ怒りを押し殺すように、ゆっくりと低い声で言った。
「いや、ですから我々も村と敵対しようとか、そんなことは考えておりませんよ」
「しかし、これはいってみれば闇討ちでしょう。村は調査を受け入れていないわけですから。それはあなたがたもご存知のはずだが」
 村長の発言に周囲から同調の声が上がる。
 それを聞いた調査団長と思しき人物は薄笑いを浮かべながら下を向き、やれやれといった様子でため息をひとつつくと、子供を諭すような穏やかな口調で言った。
「さっきから何度も言っているとおり、我々は正式な許可を得ているんです。文句があるなら県に言ってください。それともなんですか、県と話し合えない事情でもあるんですか」
 男が仲間に意味深な目線を投げ、笑いあっていると、それを見ていた榊原が努めて冷静に言った。
「その手はくわんよ。県は話し合いを持ちたいだろうがな。そうすることで地元村民とも協議したという事実を作りたいんだ。村人の意見を取り入れるかどうかは問題じゃない。ただ、協議したという事実だけでいいんだ。おれたちだってバカじゃない。だいたい、あんたたちは――オイ、なに笑ってんだ!」
 榊原はにやけた調査団長につかみかかった。
「や、やめ、苦しい」
 2人が川原で揉み合っていると、調査団のなかから190センチはありそうな大男が進み出て榊原を力ずくで引きはがし横にぶん投げた。榊原は川原の石に足をとられ、そのまま川のなかに倒れこんだ。派手な水しぶきが上がる。
「何するんだ!」
 大男はつっかかってきた村長をも、ためらうことなく突き飛ばした。
「こら、やめろっ」
 私が男に近寄ろうとしたとき、川から復活してきた榊原がものすごい形相で男に駆け寄り、体当たりをくらわせた。不意を突かれ、男が川のなかに倒れこむ。再び水しぶき。その直後、別の誰かが榊原を水のなかに叩き込んだ。頭に血の上った私はそいつを殴りつけ、川に向かって突き飛ばしたが、気づくと、同じように川のなかへ投げ込まれていた。
 男も女も入り混じり、怒号と悲鳴があたりに響きわたった。かなり長い時間そうしていた気がする。いつのまにか調査団は車に乗り込み、川原から立ち去っていった。我々はびしょ濡れの衣服を体に貼りつかせ、息を切らせて呆然としたまま、去りゆく車のテールランプを眺めていた。

 その年の暮れ、仕事を終えて役場を出るとすっかり暗くなっていた。季節はもう冬。吐く息も白い。二重にした軍手を急いで両手にはめ、自転車にまたがった。自転車をこぎながら全身に受ける風はまさに身を切るような冷たさで、顔はすっかり表情をなくす。耳などは痛さを通り越して感覚がなくなり、もげてしまっても不思議ではなかった。家の敷地に入ると、母が左足を引きずりながら家に入っていくのが見えた。
 私は玄関先の庇の下に自転車を停めた。
「どうしたの?」
 私は戸を少し開け、隙間から首だけ突っ込んで母を見た。母は私と目が合うとばつが悪そうに視線をはずして言った。
「ちょっとね、足をくじいちまって」
「もう若くないんだから――」
「ほらね、言うと思ったよ。人を婆さん呼ばわりしないでおくれ」
「心配しているんだよ」
 私がそう言うと、母は声を落としてつぶやくように言った。
「そんな心配いらん。もっと大きなことを心配なさい。あんたは村長さんと一緒に村を守っていかにゃならんのだから」
「お母ちゃんこそ、そんな心配しなくていいよ。村のことは万事うまくいっているから」
「ああ、そうかい」
「ああ、そうだよ」
 私は笑いながら、3日前の夜に開かれた集会の様子を思い起こしていた。

 集会は村の社務所で開かれ、主に20代から40代の村民が出席し、ダム問題に対する村の今後の姿勢を議題に会合が持たれた。しとしとと雨が降りつづける底冷えのする夜で、私が社務所に着いたときには村長を含めまだ数人しか集まっていなかった。開始予定時間の10分前くらいになってぽつぽつと人が入りだし、主だった顔がすべてそろうまでにはもう15分待たなければならなかった。扉が閉められたのを合図に、私はみんなの前へ小走りに進み出た。
「えー、集会を始めるにあたり、いつものように基本的なところから確認しますが」私は声を張り上げた。「ダム建設に賛成の方は挙手を願います」
 ざわついていた社務所が一気に静まり返った。
「反対の方」
 全員が私を見つめ、ゆっくりと手を挙げる。雨が降れば雪に変わるだろうというくらい寒さの厳しい夜。いくら大勢の人が集まっているとはいえ、暖房器具も何もない社務所は風が吹かないだけで外にいるのと大差なかった。
 各自に資料が配られ簡単な読み合わせが終わったあと、県の誘いには耳を貸さないという現状維持の方向で話がまとまった。
 村が団結してダム建設に反対するという意思を互いに確認しあって閉会し、人々が出口に向かって席を立ち始めたとき、最前列に座っていた恰幅のいい男性がポツリと漏らした。
「しかし、こんなことがいつまで続くのか」
 私は彼が闘争に勝てるかどうか心配しているのだと思い、大丈夫ですよ、と声をかけた。が、彼の不安はそれだけではなかった。男は肩を落とし、聞き取りにくい小さな声で言った。
「県は完全にダムを建設するつもりなんだろう。わしらが頑張っとる限り、向こうも圧力を強めてくるよ」
「しかし、ここで負けたら誰がこの地を守るんです。ご先祖様にも申し訳が立たないでしょう」
「うちの両親はまだ元気なんだけど――」
「だったらなおさらです。ご両親の想い出だって残っている地なんだから」
「――どちらも70近いんだわ。あんたも知っとるとおり、この村は貧しい。なにしろ稼げる仕事がない。わしらは農業しか知らんから、ほかの仕事するといっても土方くらいか。それだって仕事の口は多くないよ。けんど、ここでダム建設をやれば、現場で雇ってもらえるかもしれん。結構稼げるだろうよ」
 私は何と言っていいかわからず、黙って男が話すのを聞いていた。
「年老いた両親を見ているとな、時々わからなくなる。自分の親に腹いっぱい食べさせてやることもせんで、ダム反対っちゅうて叫んでいることがはたして正しいことなのか……。想い出はこころのなかに残るもんだ。村がダムに沈んでも、想い出まで一緒に沈むわけじゃない。ダム建設を受け入れれば、生活が豊かになるかもしれん。満足な食事が摂れる。新しい生活が始まり、新しい想い出ができる。そう考えると、ダム建設もそんなに悪い気はしない。――敗者の言い訳かもしれんがな」
 男はうつむいたまま自嘲気味に笑うと、重たい足取りで去っていった。
「頑張りましょう」そう声をかけると、男は振り返って言った。
「頑張りたい、けどな――」
 私は男の背中をじっと見詰め、彼の姿が消えてからもしばらくその場に立ち尽くしていた。

 昭和45年4月、ダム闘争は依然として何の進展もなかった。1年前、調査団が夜間にやってきて以来村民は交代で毎日夜回りをするようになっていたが、不審人物を村で見かけたという知らせは聞かなかった。
 この数ヶ月間、ダム建設に関して話し合いを持ちたいという県からの誘いは途絶えていたが、4月に入って再び活発化してきた。
「どうされました?」
「担当の見沢さんという人からだ」
 村長は受話器を置くと大きくため息をついた。
「担当、ですか?」
「ダム建設のな」
「担当は助川さんでしょう」
「代わったんだそうだ、この春から」
 そう言うと村長は書類の束を机の上に叩きつけた。その場の全員がびっくりして音の聞こえた方向に目を向けた。村長は普段から感情をおもてに出さないだけに、その苛立ちは一人ひとりにありありと伝わってきた。
「引継ぎなんていいかげんなもんだよ。一から説明しないと話が通らんかった」
「何と言ってきたんですか」
「同じだよ。話し合いを持ちたいということだ。そのあとはダム建設がもたらすご利益を念仏調に延々と唱えていたよ。もっとも、こっちは馬の耳だがね」村長は力なく微笑んだ。「ふりだしに戻る、だ」
 こんなことがいつまで続くのか。以前に村人の集会で耳にした言葉が思い出された。続いてあの男のやつれた顔が鮮明に浮かんでくる。
「頑張りましょう」
「頑張りたい、けどな――わしは疲れたよ」
 私は机に戻り頭を抱えた。相手は新しい戦力をつぎ込んでくる。見沢という名前は知らない、が、まったく疲弊していない相手であることは確かだ。向こうにはいくらでも新鮮な交代要員がいる。一方、こちらは長期に渡る闘争で心身ともに疲れており、新しい人材もいない。しかも高齢者が中心だ。
 我々には時間がなかった。
 いつしか村人による夜の巡回も途絶えがちになり、やがて自然消滅した。集会も毎月開かれていたが、あれほど結束の固かった村人のなかから、ダム建設に対して賛成にも反対にも手を挙げない人がぱらぱらと見られるようになった。反対派を中心として、村中で「ダム建設反対」のビラが貼られていたが、びりびりに破り捨てられているのを目にするようになるのもその頃のこと。季節は春。草花が芽吹き、動物たちが冬眠を終えて長い夢から目覚める時期だった。

 それが起きたのは、梅雨を抜けて夏の訪れを肌で感じるようになった7月下旬のある日曜日だった。
 社務所で定例の集会が開かれた。特にあらためてすることもなく、集会は数ヶ月前からほとんど変化のない現状報告書を読み上げるだけの形骸化した寄り合いと化していた。
 自転車がパンクしてしまったので、私は徒歩で社務所へと向かっていた。梅雨のあいだの鬱憤を晴らすかのような強い日差しが垂直に照りつける。私は帽子をかぶってこなかったことを後悔した。太陽が後頭部にずしりとのしかかる。もう30分近く歩いているが、すれ違う人もなければ、追い越してゆく人もなかった。歩いているのは私だけ。かばんを持つ手にひもが食い込み、我慢できなくなると持ち手を変える、そんな動作を何度も繰り返した。
 あまりの暑さに頭は垂れがちだった。視界に映るのは地面だけで、ときどき前方に目をやると、陽炎で歪められた草木や遠くの家などが踊っていた。
 陽の下で土は乾燥してひび割れ、蟻が何匹もせわしなく出入りを繰り返している。私は道端にある大きな木の下で立ち止まり、深呼吸をした。木の葉の香りがする。汗がすうっと退いていくような、青い匂いだった。
 社務所まで、あとどれくらいだろうか。15分はかからないだろう。「行くか」とつぶやいてみたものの、足が重たい。木陰から出ないと先には進めないのだが、なかなか踏ん切りがつかなかった。炎天下に戻りたくない。しかし、行かなくてはならない。自転車とはなんと便利な道具なのだろうか。ほんの少しの労力でこんな目にあわなくて済むのだから。
 社務所に着いてなかに入ると、村人は集まってなにやら騒いでいた。
「すみません、遅れまして」
 ざわついていた一同がふと静まり、こちらに視線を向ける。私はぺこりと頭を下げて小走りに前へ出た。
 さきほどまで直射日光にさらされつづけてきたせいか、屋内がとても心地よく感じられた。開け放った窓からは涼しい風が入ってくる。
「はい、それでは確認から始めますが――」
 額の汗を手の甲でぬぐいながら私がそう言ったとき、ちょうど中央に座っていたかなり年配の男性がおもむろに立ち上がり、前に歩いてきた。
「それなんだが、あんたが来るまでな、みんなで話し合ったんだ」
「は? 何を、ですか」
「いや、だからダムに賛成か反対かっちゅう話でな。みんなで考えてみたんだが、もう限界じゃないかって、そんな気がするんだよ」
「ちょ、ちょっと」
「いいから聞きなさい」男は右手で私を制して言った。「実際のところ、わしらは勝てんよ。相手と組み合えば負けてしまう。話し合いの提案はすべてはねつけるしかない。けんどな、組み合うこともせんでは闘いにならん」
「そうなんだよ」最前列の中年男性も口を開いた。「いつまでもこんな状態を続けるわけにはいかんだろ。わしらには長期戦を闘い抜く力はないんだ。どうせ勝てないいくさなら、せめて被害が少ないうちに条件闘争へ……」
「バカ野郎! そんな言うとったら勝ち戦も落とすわい」
「そうだよ、命に代えてでも守らにゃならんことだってあるだろうに」 
 初老の夫婦が声をあげた。それが引き金となり、あちらこちらで賛同や反対の声が飛び交い始めた。
「あんたのところと違って、うちには年寄りがいるんだよ」
「うちの子どもたちの今後を考えると……」
「わしらは闘うぞ」
「みんなに迷惑かけるな」
「もう疲れましたわ」
「そんな……ご先祖に申し訳ない」
「あんたはさっきから――」
「これ以上やっても無駄だ」
 社務所に入ってきたときみんなが騒いでいたのはこういうことだったのか。私の知らないあいだに、村の意識は全面闘争から条件闘争へと大きく傾いていた。実際、先ほどから飛び交っているのは、譲歩してでもこの闘争を早期決着させたいという意見がほとんどだった。しかし、条件闘争といってもどのような条件を提示すればいいのかわからない。私はもはや誰も必要としていない報告書を手にしたまま、条件闘争を検討すべきか迷っていた。そのとき、女性の声が耳に飛び込んできた。
「だから、どうせここを離れるなら、400万円もらって離れたほうがいいでしょう」
 私は思わず目を上げた。声の主は若い女性だった。私は走り寄った。
「すみません、400万円って何ですか」
「何って……補償金ですよ、立退き料」
「その話は本当ですか」
 女性は昨日の天気についてでも話すかのように、さも当然という調子で言った。
「本当も何も、県のお役人がそう言っているんだから」
「いつです」
「2週間くらい前かしら。韮沢さんのところには来なかったの?」
 敵は来ていた。夜間の巡回がなくなってから、こっそりと村にやって来ていたのだ。反対の意思をはっきりと表明しているような家は避け、賛成と反対のあいだで揺れている家庭を狙って個別に交渉していたのだ。
 県の役人が村に来たという情報は、今のいままで私の元には届かなかった。ということは、交渉を持った村人はすべて県と握手を交わし、口を封じられたということだ。
 貧しい農村に現金がばらまかれた。のどから手が出るほど欲しい現金が。
 飄々とした役人の姿がはっきりと目に浮かんだ。
 ええ、そうなんですよ。ダム建設はすでに決定したんです――それでですね、いま承諾書を出していただければ、補償金200万円のところ協力金を含めて400万円もらえるんです――いやいや、建設は決定済みなんです。ですから、その、事後承諾といいますかね、とりあえず規則なので書類が必要でして――ええ、そうですね、今後の生活もあるでしょうし――わかります、わかります、ではここに捺印を――はっ、どうもありがとうございます。で、つかぬことを伺いますが、おたくのほかに協力していただけそうなご家庭はご存知ありませんかね――ええ、坂の途中の――堀部さんですか、どうも――あ、そうそう、この件についてはどうか内密に願いますよ。そうでないと補償金の話がなくなっても責任とれませんからね――。
 社務所に集まった人々。どの目にも疲れの色が見える。
「ダム建設を機会に苦しい生活に見切りをつけて、豊かな暮らしを手にしたほうがいい」
「よくもまあ自分たちの土地を平気でダムに沈められるな」
「あたしゃ、お父ちゃんのこと考えるとねえ」
「補償金もらっといて親孝行のふりはやめろ」
「あんたも金もらったんでしょうが」
「もうやめて! どうしてもっと落ち着いて考えられないのよ」
 ここは自分たちが暮らしてきた村だ。ダムに沈むと聞いて、誰が悲しまないでいられる? 誰だって悲しいんだ。悲しくて、つらくて、苦しくて、でもどうすることもできない。社務所を見渡した。借金の苦しさを訴える人、家族の今後を気遣う人、補償金受領者をなじる人、胸ぐらをつかみ合い、周囲から止められてなお罵りあっている人々、みんな泣いているように見えた。

 昭和45年7月22日。
 セミが鳴いている。その鳴き声と張り合うかのように悲鳴を上げていた役場の電話は、ここ数週間で死んだように静かになった。
 私は自分の机に座ってほおづえをつき、先月の集会で起きた騒ぎのあとのことをぼんやりと思い返していた。

 母は以前に足をくじいた影響か、長距離を歩くと足に痛みを感じるようになったため、離れたところにある社務所での集会には参加していなかった。しかし、あの日、私が家に帰るとすでにうわさは家にもやって来ていたらしかった。夕暮れ時になってようやく家へ戻った私に、縁側に座っていた母は開口一番言い放った。
「仲間割れしたらしいね」
「誰に聞いた?」そう言いかけたが、母の隣に座っているサチさんを見てなるほどと納得した。
「サチさん、社務所に来ていたんだ。人がたくさんで気づかなかったよ」
「結構な人数だったからね。あたしゃ、ダムには反対だった。もちろん、今でもさ。まわりは賛成派ばかり。反対を唱えていたのは、うちの人を含めて2割程度じゃなかったかね」
「大丈夫でしたか? あちこちでケンカが始まったもんだから、どうにも収拾がつかなくて」
「えらい小突きまわされたわ。怪我をしなかったのが不思議なくらい」
「ほんと、みんなどうかしてるねぇ」母がのんびりとした口調で言った。「サチさんは、ほら、他所から嫁にきた身だからさ。村をダムに沈めるなって叫んだら、よそ者は口を出すな、なんて言われたそうだよ。いやになっちゃうね。ろくなもんじゃない。でもサチさんの偉いところは、あたしゃ、あんたらなんかよりもこの村を好いとる、そうきっぱりと言ったところだよ」
「でもなぁ、お母ちゃん。家族を守るのに必死な人もいる。それぞれ事情があるんだよ。補償金に目がくらんだ人ばかりじゃないって。みんなつらいんだ」
「あたしだって、サチさんだって、つらいのは同じ。貧しい村で年寄りが暮らしていくことが楽なはずなかろうが。ただ、何を捨てて、何を守るかだよ」母はうつむいて、聞き取れないくらい小さな声で言った。「捨てるのは簡単さ。でも、二度と拾いなおせないものもあるんだ」

 あのときほど寂しそうな顔をした母を見たことはなかった。
 私はこれまでの闘争で何をやってきたのだろう。
 村人をどこへ導いたのだろう。
 反対の旗を掲げてみんなの先頭に立っている、そう思っていた。しかし、村民とこころを共有してはいなかった。
 私はなぜ闘っていたのか。正義感? 正義感なんてくそくらえ。そんな理由で闘争していたやつはいない。
 自分にできることは、すべてやってきたつもりだ。多くの資料を研究し、村人の意見に積極的に耳を傾け、そして闘争を決着へと導いた。ダム建設の受け入れ。これがみんなの望んだ答えなのか。
 私は役場の机で自問を繰り返していた。入口の扉がガチャンと音をたて、はっとして顔を上げると村長が立っていた。部屋にいた全員が立ち上がるなか、村長はゆっくりとみんなの前に歩み出て、手にした報告書を読み上げた。
「村は正式にダム建設を受け入れた」
 報告書の最後に村長はそう付け足すと、「すまない」とみんなに深々と頭を下げた。肩が小刻みに震え、頭はいつまでも上げられることなく、この時間が永遠に続くように感じられた。

 岸さんと奈良さんが結婚するらしい、そんなうわさを聞いたのは村がダムの受け入れを発表してからまだ1週間も経たないころだった。
「岸さんって、酔っ払ってニワトリに卵を食わせたっていう、あの人か?」
 榊原が怪訝そうな顔で尋ねてきた。
「そうらしいよ」
「じゃあ、奈良さんっていうのも……」
「ああ、相撲大会で男を負かして優勝したあの人だ」
「どっちも70歳を超えてるぞ」
「いいんじゃないか? まだまだ元気そうだし。2人ともいままで一緒になった人がいないんだから、誰に気兼ねすることもないだろ」
 結婚式は多くの村人が参加できるよう公民館で開かれることになった。
 式は村の伝統に則して進められるが、といっても大したことをするわけではない。神主もあくまで一村人として参加する。まず巨大な杯に酒をなみなみと注ぎ、神に奉じる。神とは土地の神、すなわち祖先たちを指す。その杯を新郎新婦と親族とが一口ずつ回し飲みし、さらに会場に集まった既婚者全員で飲み干すのだ。
 結婚は子孫を残すことを意味し、子孫の増加は村の繁栄につながるため、土地の神は結婚する2人を祝し、酒を介して仲間と認めるのだ。逆を言えば、未婚者は村の繁栄に寄与していないとして祖先とのつながりを持てず、また厳密には村の一員として数えられない。――とまあ、以上が村における結婚と結婚式の意味といわれている。しかし、今まで何度か結婚式に出席する機会はあったが、そんな堅苦しい意味合いを感じたことは一度もなく、ただみんな楽しそうに酒をがぶがぶ飲んでいるだけに思えた。
 この変わった風習は随分と昔から続いているらしい。いつ、誰が始めたのか知る者はなく、役場にあるどの文献にも載っていない。母に尋ねたところ、「さあねぇ、どこかの飲兵衛が酒を飲む口実で始めたんじゃないかね」と言われたことがある。ない話ではない。
 式は3日後の日曜日に決まった。恐ろしく急な話ではあるが、用意するものといっても酒と公民館の倉庫に眠っている巨大杯くらいで、とりたてて慌てる必要はない。ただし酒は相当量を確保しなければならず、さっそく数人の若者が町まで食料と酒を調達に行った。なにしろ、村の男には老いも若きもうわばみだらけ。日取りを近く設定したのも、ただ単にみんな酒が早く飲みたいだけなのかもしれない。

 結婚式当日。挙式は午後2時からの予定だったが、午前中から人が集まりだし、私が会場に着いた1時半ごろにはもうほとんど満員だった。
 司会は村長が務めることになっていた。合図とともに入場してきた70歳過ぎの新郎と新婦はぴしっとした礼服で決めていた。割れんばかりの拍手が沸き起こる。
 新郎、岸新之助、74歳。羽織袴に身を包み、表情は緊張で堅く、まっすぐに伸びた背中は年齢を感じさせなかった。
 新婦、奈良トシノ、72歳。髪が少ないために日本髪を結うことはできなかったようだが、ボリュームのある十二単を着ており、相撲大会で優勝しただけのことはある堂々たる体格が十分に存在感を与えていた。
 式は滞りなく進んだ。巨大杯は新郎新婦から親族を経て集まった既婚者たちの手に渡り、最後の1人が飲み干した瞬間、司会者が結婚を宣言した。緊張していた岸さんもようやく笑みをこぼし、夫婦そろって「ありがとう、ありがとう」と言いながら人々のなかを挨拶して回った。すでに会場のそこここで酒樽が開けられ、宴会が始まっている。挨拶に回る先々で祝い酒を勧められるものだから2人ともかなり酔ったように見えたが、それでも一生に一度の晴れ舞台だという意識からか、それとも単に酒好きなのか、勧められた酒を断ることはなかった。岸さんも奈良さんも、とにかくよく笑った。
 式後の披露宴というか、宴会の席においては未婚者にも飲酒が許されているので、私も輪に加わりたんまりと飲ませてもらった。
「お二人の結婚を祝しましてぇ、唄わせていただきまぁす!」
 そう叫んでいきなり唄いだす人があるかと思えば、どこからもってきたのか尺八を取り出して、ふぉーふぉーと奏でている人もいる。全員が酔っ払っていて、とにかく笑い声が絶えない。誰かが大声で岸さんに呼びかけた。
「なあ、岸さんよ、なんでまたその歳でトシノさんと結婚しようと思った?」
 その問いかけに、岸さんは顔を真っ赤にして大笑いしながら答えた。
「そりゃおめえ、おれも村で結婚式をあげたかったからよ。沈む前にな。これでおれも、村人の仲間入りだ」
「そうだなぁ、けんど、そのうち村が沈んだら、村人は増えることもなくなって、いずれこの世からいなくなっちまうなぁ」
「まあ、そう悲しいこと言うな。おれを祝って飲め。ガハハ」
「そうだな、飲ませろ、こら!」
 村がダムに沈むとき、確かに想い出は沈まずに残るかもしれない。しかし、伝統は沈んでしまう。年月を経て土地と密接に結びついた伝統は、別の土地で呼吸を続けることはできないのではないか。
 地図の上から村が消え、代わりにダムが描き込まれる。かつて村人の生活があった空間から人と生活が消え、コンクリートと水で覆われる。このダムが人間にどれほどの恩恵を与えるのか、実のところ私にはあまりわからない。ただ、取り戻すことのできないものが捨てられてしまうのは事実だ。すでにダム事業は決定した。私たちはいま、村の残り香をかいでいるに過ぎない。
 宴会はなおも延々と続き、東の空が白み始めたころに最後の樽が底をついてお開きとなった。しかし、会が終わるまで、誰ひとり席を立つものはなかった。

 秋はあっという間に過ぎ去り年の瀬も押し迫った12月、例年にない大雪が降り、村の数ヶ所で木が倒れる被害が起きた。倒木のひとつは小学校へと続く道路をふさいでしまい、役場に応援要請の電話が入ったのは、朝の11時ごろだった。
「まあ、そういうわけだから、おまえら行ってくれるか」村長は受話器を置くと、私と榊原に笑顔で言った。「トラックの鍵はそこにある。チェーンははめてある。気をつけてな」

 私たちは鍵を取ると、しばらくダルマストーブに両手をかざしてから、外套に襟巻き、毛糸の帽子で身を固め、しぶしぶ出掛けることにした。
 部屋から廊下へ出ただけで、底冷えのする寒さに襲われた。
「まったく、去年はこんなに降らなかったんだがなぁ」
 榊原は背中を丸めて縮こまりながら、あごで窓の外を指した。
「文句を言っても仕方ないって。早いところ作業を終えて帰ってこようぜ」
「しかし、小学校の通学路がふさがったって言ってたよな」
「村長の話ではそうらしいけど」
「じゃあ、今日は休校か」
「だろうな」
 そのとき、不機嫌そうだった榊原の表情が突然明るくなった。
「なあ、作業のあと行ってみないか?」
「どこに?」
「どこにって、おまえ、小学校に決まってるだろ。作業なんてすぐ終わるよ。小学校までは車ですぐだし。いやあ、懐かしいなぁ。都築校長ってまだいるらしいぜ。そうそう、覚えてるか? 校庭で雪合戦やっていたとき、校長の顔面に雪玉が命中して眼鏡が割れたことがあったろ? 校長はかんかんになって、なぜかおまえが怒られていたけれど、あれをやったのはおれだぜ。まあ気にするな、ガハハ」
 廊下の突き当りには裏口がある。榊原の話を適当に聞き流しながら突き当りまで来ると、私は扉を押し開けた。その瞬間、猛烈な勢いで雪が吹き込んできた。閉まろうとする扉を体全体で押し、なんとか外へ出た。目の前はすべてが雪でできた世界。
「何もかもが真っ白だ」榊原は目を細めながらあたりを見回した。
「トラックはどこだろう?」私もきょろきょろしながら言った。
「見当たらないぞ。雪に埋もれたかな」
「まさか」
「ええと……あったぞ、あそこだ、あの白い車」
「この雪のなかで白い車って……どこだよ」
「ついて来い」
 榊原のあとをついていくと、駐車場の端に確かに小型トラックは停まっていた。紺の車体は雪で完全に白く塗り替えられ、20メートルも離れればすっかり周囲と同化する。
「おまえ、この雪のなかでよくわかったな」
 私は感嘆の声を上げた。
「昨日ここに停めておいたからな」
 榊原は唖然としている私の手から鍵をもぎ取ると運転席に乗り込み、助手席のロックをはずした。私は車に乗り込んだが、車内はやはり寒く、外套は脱げなかった。何度目かでエンジンが掛かり、車はゆっくりと走り出す。
「しかしよ、この道路ももう少し整備してくれれば走りやすいんだけれどな」
「仕方ないって、ダムに沈むことになったんだから」
 幸い道路の積雪はそれほどでもなく、現場まで20分ほどで着いた。
 見ると撤去作業はほとんど終わったようで、杉の木が道路のわきに退けられ、7、8人の男が道に落ちている小枝を拾っているところだった。
「大丈夫ですか?」
 車の窓を開けて大声で尋ねると、1人が片手を挙げた。
「ああ、すまんね。さっき通り掛かりの人が来てさ、手伝ってもらったからもう終わったのよ」
 そう言って、男は後ろで小枝を拾っている若者数人を指差した。
「そうですか、ならよかった」
 私が窓を閉めると、榊原は再びアクセルを踏んだ。男たちは道端によって車を通してくれた。
「おい、Uターンしないのか」
「学校はこの先だからな」
「なんだよ、本当に行くのか」
「おれを嘘つきにしたくないだろ」
「別にいいけれどさ」

 校庭は足跡ひとつない雪の板だった。私たちはトラックを降りた。雪に足が沈む。歩きにくい校庭を進んでいくと、すぐに中央までたどり着いた。
「こんなに狭かったっけなあ」
 榊原はあたりを見回しながら言った。
「こんなもんだろ。おまえのへなちょこな雪玉が校長に命中するくらいだから。校舎に入ってみようぜ」
 私は納得のいかない様子の榊原と一緒に校舎の入口へ向かった。
 校舎は木造2階建てで、教室は8つあるが現在では1つしか使用していないそうだ。正面玄関には校章の彫られた板が掲げられ、その下に頑丈な木の扉がある。雪のついたその扉に手をかけたが、鍵が掛かっていて開かなかった。
 校舎伝いに教室の窓外まで歩き、ガラスの雪を払ってなかをのぞいた。教室の後ろの壁にカラフルな絵が8枚、画鋲かなにかで留めてあった。おそらく生徒の描いたものだろう。現在この小学校にいる生徒は8人だけだ。そのうち3人はこの春に卒業する。しかし、新入生の予定はない。在校生5人も卒業を待たずして引っ越してゆくかもしれない。かつて私たちの通った小学校は10年以内、いや今後も新入生がなければあと数年で長年の役目を終えて廃校となる。もう誰の目にも触れなくなる。
 壁の絵を見つめた。どれにも山と川と自分たちの生活が描かれていた。緑を基調に、赤や黄の太陽、澄んだ青い川、茶の家、白と蒼の空が広がっている。走る人、笑う人、遊ぶ人、働く人。ここに描かれた世界は、いつか忘れ去られた光景となる。あの頃はよかったなあと、思い出されるだけの光景に。それが大多数の村人の選んだ道なのだ。
 棚に並んだ学級文庫と道具箱。その隣のバケツ、ほうき、ちりとり、モップ。傷だらけの机と椅子。チョークの跡が点々とする黒板にうっすら文字が残っている。
 あいさつをわすれずに。
「もう帰ろう」
 背中から榊原の声がした。
「待てよ、構内に誰か教師が来るかもしれないし、あいさつくらい」
「道がふさがっていたんだぞ。宿直もいないし、誰もいやしないよ」
「だけど――」
「もう、見ていられないんだよ……」
 榊原は踵を返すと、車に向かって歩きだした。私は急いであとを追った。
 車に乗り込むとエンジン音がキンと張り詰めた周囲の空間に響き渡った。車は来た道を戻る。さきほどまで倒木の撤去作業をしていた場所にはもう人影はなかった。
 私は雪に覆われた山々を車窓から眺めていた。榊原はじっと前を向いたままハンドルを握っていた。
「村は沈んでも、想い出はみんなのこころに残るから」
 私は独り言のようにつぶやいた。
「そうだな、いつでも思い出すことはできる」
 榊原も独り言のように返した。
 役場までの20分、それ以上私たちは言葉を交わさなかった。



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■ 5楽章

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 年明けとともに人々は村を離れ始め、3月にはサチさんもこの村を後にすることとなった。
 出発の前日、夫妻はお別れを言いに来た。風の冷たい夜、夕食を終えてのんびりしていると扉をたたく音がして、出てみるとサチさんと夫の俊太郎さんが立っていた。
「おお、源治くん、お母ちゃんいるか? ごあいさつに伺ったんだ」
 母が台所から顔を出すと、俊太郎さんは深々と頭を下げた。
「わしら、明日発ちますわ」
「あらあら、それでごあいさつに。ごめんなさいね、これから伺おうと思っていたのに。おもては寒いから、ほら上がってちょうだい」
「いや、今夜は遠慮します。なんやかやで忙しいし」
 母は風呂敷包みを手に土間へやってくると、俊太郎さんに差し出しながら言った。
「筍の煮たのが入っているから食べてちょうだいね」
「どうもありがとう。じつはな、町で新しい仕事が見つかったんだ。小学校の用務員でな、わしは何の経験もないと伝えたら、かまわん、要はやる気だって言ってくれて。いやあ、内心ほっとしたよ。子どもたちは町に住んでいるけれど、わしだってまだ隠居するほどの歳でもないし、村を追われたあとどうしようかとおもっとったから」
 俊太郎さんはこころから嬉しそうにニカッと笑った。
「それはほんとに、よかったですねぇ」
 母はゆっくりそう言うと、おめでとうございます、と俊太郎さんに頭を下げた。
「じゃあ、わしらはここらへんで失礼するわ」
「シズ江さんも、源治さんも、体に気をつけてね」
 夫妻は玄関を出ると、来た道をゆっくりと戻っていった。私と母が戸のところで見送っていると、2人が消えた夜の闇のなかからサチさんの声が聞こえてきた。
「シズ江さーん、手紙書くからねー」
「そんな遠くに行くわけじゃないでしょうにー! でも、待ってるからー」
 私たちはしばらく闇を見つめ続け、ようやくあたりの冷気に気づいて戸を閉めた。
「みんな、出ていっちまうんだ」
 母は独り言のようにつぶやいた。
「仕方ないよ、村はなくなるんだし。新しい生活を始めるんなら早いほうがいい。学校や仕事の都合だってあるんだから」
 母は私の声が聞こえているのかいないのか、ぼんやりとした目つきで台所へ戻っていった。


 韮沢シズ江 様
 引越しが忙しく、すぐにご連絡差し上げられなくて済みません。
 こちらはとても賑やかです。昨日は子供達が孫を連れて遊びに来てくれました。子供達は皆この町に住んでいますが、世話になりたくないので、私達夫婦は新しい家を建てて暮らしています。村の静かな生活もいいですが、こういった賑やかな生活もいいものです。
 シズ江さんはこれからどうなさるのでしょうか。いつまでも村にいなさるわけにもいかないでしょうし、町へ来られるのでしたらうちへいらっしゃいませんか。新築した家は村のものに比べれば小さいですが、それでも3人で住むには十分です。私も主人も歓迎しますから、どうぞご遠慮なくおっしゃって下さい。
 それではどうぞお体に気をつけて。

田村サチ



田村サチ 様
 お手紙どうも有難う。ご家族そろって楽しそうですね。
 村からは人がどんどんいなくなり、寂しくなっていきます。サチさんのお向かいの坂尻さんも昨日引っ越されました。私もいつかここを離れるのでしょう。その前に色々とやっておきたいこともありますので、たとえ最後の一人になったとしても、私が離村するのはもう少し先になりそうです。
 それにしても手紙というのは人の温かみが伝わりますね。私は大好きです。確かに急ぎの用事は電話のほうが便利かもしれませんが。もう電話は引かれましたか。
 俊太郎さんにも宜しく。それでは。

韮沢シズ江



 韮沢シズ江 様
 お元気そうでなによりです。電話はまだ引いていません。3月はただでさえ引越しが多いのに、今年は村からこの町へやってきた人も多く、電話会社に連絡はしてあるのですが多くの方が順番を待っていらして、我が家に来ていただくにはまだ待たなければならないようです。電話が引けましたら番号と合わせてシズ江さんにお知らせしますね。
 主人も元気にやっております。小学校の用務員ということで子供達に接する機会も多く、仕事から帰ってくると、あの子がどうした、この子がこうしたというようなことばかり話しております。孫が増えたような感じがするのでしょうか。
 源治さんはお元気ですか。村役場もいずれなくなりますからご心労も多いことでしょう。くれぐれも無理をなさらぬようお伝え下さい。では。

田村サチ


田村サチ 様
 お手紙どうも有難う。俊太郎さんも元気そうでなによりです。
 源治は役場勤めをやめて転職するそうです。村長さんの紹介で町に働き口があるということです。村役場はすでにその役目を終えており、有って無いようなものです。源治は役場が実際に無くなるまで働くつもりでおったようですが、村長さんが転職するなら早いほうがいいと、若い職員全員に転職を勧められたようです。いくら小さな村の役場とはいえ、2人や3人でやってゆけるものでもないでしょうに。本当にダム建設とは罪なものです。
 俊太郎さんは毎日を充実して過ごされているようですね。私達が子供の頃は学校に行きたくても行けないのが珍しくありませんでしたから、今の子供達には恵まれた環境の中でよく遊びよく学んで、我が国を豊かにしてもらいたいものです。
 村はただでさえ年寄りが多かったのが、今では年寄りもいなくなってしまって、子供の顔を見る機会がありません。源治にお嫁さんを見つけてもらって、早く孫の顔が見たいです。それでは。

韮沢シズ江



「手紙ありませんか? 田村さんって方から」
「いやぁ、きていないねぇ」
「ああ、そうですか」
 郵便配達人の自転車の音が遠ざかっていったあと、母が首をかしげながら家に入ってきた。
「今日も手紙ないの?」
「そうなんだよ、おかしいねえ。これで1週間になるよ」
「向こうも忙しいんじゃないの。年度の変わり目は」
「ならいいんだけれど」
 母はまだ納得いかないといった風で、そのまま台所に歩いていった。
 サチさんからの連絡が途絶えたのは、夫妻が離村してから2週間ほど経ったころだった。相手方の住所はわかっていたが、この忙しい時期に突然押しかけるのはためらわれ、また母は足の具合が悪いということもあって、サチさんからの連絡をしばらく待つことにした。こちらの電話番号も住所も知らせてあるので、サチさんの家の電話がつなばれば、かけてくるだろうと思ったのだ。
 しかし、いつまでたっても連絡はなく、ようやく電話が鳴ったのは、連絡が途絶えてから2週間後のことだった。
「ええ――そうね、ええ――ええ――そうしなさいな――じゃ、気を落とさずにね」
「どうしたの」
 私が訊くと、母は置いた受話器に手を当てたまま、じっと電話機を見つめて言った。
「俊太郎さんが亡くなった」
「まさか」
 私は声を失った。
「心臓発作だそうだよ。そのごたごたで連絡するひまもなかったって」母はゆっくりと立ち上がって窓の外を見遣った。「ほんと、人間いつ何があるかわからないねぇ」

 3月一杯で私は役場を退職することにした。4月からは町の印刷会社で働くことになっている。
 我が家にもダム建設の補償金が入ったが、母は自分が補償金を使うことをひどく嫌い、町にアパートを借りた。そして私にそこへ住めという。ダム建設の恩恵にあずかりたくないという気持ちはわかるが、だからといって私のアパート代に充てなくてもいいじゃないか、と思った。しかし、私も町で働く以上近くに住居を構える必要があったし、また経済的に余裕がなかったのでありがたく使わせてもらうことにした。
 引越しを終えて住んでみると、なかなか快適な部屋だった。2階の角部屋で部屋が3つもあり、和室の窓は南に面していて日当たりは良好だった。アパートと呼ぶにはかなり上等な部屋だ。それでも便所は共同で風呂はなかったが、とりたてて珍しいことではない。
 そのうち母もこの家に呼ぶつもりだった。村はいずれ消える。これは動かしようのない事実だ。住めなくなる村を出たらこのアパートで暮らせばいい。幸か不幸か、私はまだ独身だ。2人でさえ広く感じる部屋だ。
 村は永住の地としての資格を失ってしまった。村人みずからの手によって。母が認めようが認めまいが、ダム建設事業は確実に進行してる。
 母にはまだ、家を出て町に来るようには勧めていなかった。素直に私の勧めに耳を貸すとは思えなかったし、最後までダム反対を貫いてきた意地があることもわかっていたが、ほかにもいますぐ村を離れるわけには行かない理由があるように思えたからだ。
 しかし、私には母を放っておくことはできなかった。足の悪い年老いた母を独りで過疎の村に置いておくことはできなかった。反対されるのはわかっていた。しかし、私は母に相談することなく、村の家の取り壊しを1ヶ月後と決めていた。

「何だって?」
「だから、いままで黙っていたけれど、来月この家を壊すから。必要なものは整理しておいてよ」
 すでに町での生活を始めていた私は、ある日曜日の朝、母の住む家に出向くとできるだけ冷淡に言い放った。
「急にそんなこと言われても、あんた……」
「急にじゃないよ。あと1ヶ月あるんだから。いいね」
 家をあとにしてまっすぐ駅へ向かおうとしたが気が変わり、久しぶりにあたりをぶらついてみた。村にはもうほとんど人が住んでいなかった。母は町へ越さずに残った数少ないうちの1人であり、村はひっそりと静まり返っていた。
 かつてこの村には結構な数の人々が暮らしていたが、今はもうその面影もない。夜になっても明かりが点る家はほとんどなく、白熱灯の街灯は光を失ったまま取り替えられることもなく放置され、夕闇と冷たい空気があたりを支配する。風が吹き、草木が揺れてさらさらと音をたて、町へ移り住む際に家族に置き去りにされた犬が徘徊し遠吠えを上げる。人の声はない。
 住む者のなくなった家々。すでに取り壊されたものもあれば、そっくりそのまま生活の跡を残しているものもある。サチさんの家は解体されずに残されていた。解体するように建設省の役人から指示されたというが、忍びなかったのだろう。
 母屋はひっそりとしており、戸や窓に板がまるで台風に備えるかのように釘で打ちつけてあった。わきをすり抜け、ニワトリ小屋に向かう。以前はけたたましい鳴き声を上げていたニワトリは一匹もいなくなり、小屋のなかには藁と羽とが散乱し、えさを入れていたバケツが隅に転がっていた。乾燥したえさがバケツの内面にこびりついていた。再び風が吹き、夜が訪れた。

 家の解体の1週間前に母に電話を入れ、当日は早めに部屋を出た。
 村に着いたのは朝の10時前。家に入っていくと、母は座ってお茶をすすりながらのんびりと新聞を読んでいた。部屋は――片付いていない。いつもと同じだ。
「お母ちゃん、この前きちんと荷物整理しておいてって言ったじゃない」
 私は靴を脱いで家に上がった。
「そうだったっけ」
「あのねえ、今日なんだよ」
「何が?」
「だから、この家を壊す日」
 すると母はすっくと立ち上がり、仏間に行って仏壇に手を合わせた。
「源治が何やら物騒なことを言ってますよ。何とか言ってやってください」
「ちょっと、もうすぐユンボも来るんだから」
「ユンボ?」
「ショベルカーだよ」
「ああ」
「ほら、急いで急いで」
 私が押入れを開けると、そこには風呂敷や木箱が並び、日用雑貨等が整理されていた。
「なあんだ、準備してあったんだ」
 2人で仏壇と押入れに入っていたものとをすべて庭に運び出していると、庭にショベルカーが大きな音をたてて入ってきた。象の鼻のように長い腕を前方に突き出している。
「どうも。もう始められます?」
 がっちりとした体型の若い男が運転席から顔をのぞかせて言った。
「すみません、もうちょっと待ってください。ほら、お母ちゃん、来ちゃったよ」
「そう急かしなさんな。あ、その湯呑は持っていくよ」
「こんなの、町で買えばいい」
「だめだめ、大事なもんなんだから。あ、その急須も」
「かさばるよ」
「大事なんだよ、あたしにとっちゃ」
「じゃあこれは?」
「それも」
 あらかた荷物を庭に出してしまうと、運転手のお兄ちゃんがショベルカーから降りて近づいてきた。
「いやあ、随分とありますねぇ」
 お兄ちゃんは有森ですと名乗った。
 庭一面に持ち出した荷物が広げられていた。家は決して小さくはないが、それにしてもこれだけの荷物がここに入っているとは想像しなかった。
「どれもこれも、思い入れがあってね。簡単に捨てるわけにはいかんもんばっかりよ」
 母は微笑んで言った。
 時刻は午後の1時を回っていた。
「源治も有森さんも、おなかへったでしょう。続きは腹ごなししてからでどうね。まあ、握り飯と味噌汁くらいしかないけれど、用意してあるから」
「そうしようか」
「ご馳走になります」
 3人で台所へ行き、母と有森さんは握り飯、私は味噌汁の入った鍋を持って庭に戻ってきた。そのまま地べたに座ると、母が荷物のなかから食器類を取り出し、銘々に手渡した。村で食事をするのも、これが最後になるだろう。そう考えると、握り飯と味噌汁だけの昼食がこれ以上ないほどおいしく感じられた。
「じゃあ、やりますか」
 食事を終えて談笑していた午後2時ごろ、私は有森さんに言った。彼はゆっくりうなうずくと、小走りにショベルカーへ向かっていった。
「それでは、いきますよー」
「お願いしまーす」
 私が手を挙げて合図を送ると、ショベルカーは黒煙を上げて動き出した。
 ゆっくりと家に近づき、ぎこちなく腕を上げると、そのまま屋根に振り下ろした。屋根にぶつかったショベルが一瞬動きを止め、ショベルカーのエンジンがブオォーというものすごい音をたてて黒煙を吹き上げる。ショベルが屋根を突き破り、瓦がいくつも砕け散った。
 攻撃の手は休められることなく続く。縁側のガラスが突き破られ、仏間が剥き出しになった。次いで台所がこそぎとられた。風呂が消えた。玄関が消えた。
 母は井戸水でひたすら食器を洗っていた。家が取り壊される様子には一切目をむけようとせず、すっかりきれいになった皿や茶碗をずっとすすいでいた。
 母が下を向いたまま私に話しかける。
「そうそう、知ってたかい? あそこの十字路の田所さんねぇ、自分ところのニワトリを処分せずに町へ越しちまったんだよ」
「お母ちゃん」
「ほんと、ひどいことするねぇ」
「お母ちゃん、黙ってて」
「ニワトリがかわいそうだよねぇ。あんまりかわいそうなんで、昨日逃がしてやったよ」
「黙ってよ!」
「その点、藤崎さんのところは立派だね。放置された野菜をすべて回収して――」
 家全体がみしみしときしみ、左右に振れ、何度目かの攻撃で、家はふと力が抜けたかのようにあっけなく崩れ去った。ものの十数分だった。粉塵が舞い上がり、ようやく落ち着いたころに目を凝らすと、多くの想い出を育んできた家屋は姿を消していた。そこにはもう、何もなかった。
 私は家の残骸のなかに入っていった。散乱する木片やガラスのなかに、柱時計が転がっているのを見つけた。幼い頃大好きだった、鳩が飛び出すやつだ。時計は2時13分を指したまま止まっていた。本体に大きな亀裂が入り、背中には穴が開いている。その近くには、顔が半分削れた木製の鳩が、本体との接合部を切断されて転がっていた。

「ただいま」
「お帰りー」
 私が仕事から帰ると、いつもどおりいちばん奥の部屋から母の声が聞こえた。町のアパートで親子2人の生活を始めてから、まもなく1ヶ月が経とうとしていた。
 母はアパートに越してきてから引きこもりがちになった。この町には村からやってきた仲間がたくさん住んでいる。町民同士の交流会が多数存在し、なかには元村民の集いもあった。母にも誘いが来たし、私からも参加を勧めてみたが、足の具合が悪いからと言ってなかなか首を縦に振らなかった。
 町に住む元村民のなかには、当然ながら、ダム建設を支持する側に回り、補償金を持って早い時期に町へ越してきた人々も含まれている。いまだにその人たちが許せないのか。そんな村を裏切ったとしか思えない人たちと一緒に楽しく笑いながら交流を持つことなどできないというのか。一度母に尋ねてみたことがある。すると母は私の推測を豪快に笑い飛ばした。
「ばかなこと言ってんじゃないよ。みんなそれぞれの事情があって、よくよく考えた末にダム建設に合意したんだから。おまえだってそう言っていたじゃないか。確かに当時はそういう人たちのことを裏切り者と思ったよ。故郷を売ったひとでなしと思ったよ。でもね、故郷を失って悲しまない人なんていないってこと、ようやくわかってきた。村に住んでいたい、でもいろんな事情で村を去らねばならない、そんな人たちのほうが私よりもずっと苦しかったんじゃないかねぇ」
「じゃあ、賛成派の人たちのことは――」
「もうなんとも思っちゃいないよ。あたしがあまり外に出ないのは足が悪いからさ。それに……なんとなく落ち着かないんだよね、町なかに出るとさ」

 その後も母は家にいることが多かった。梅雨に入って数週間が過ぎた。じめじめとした毎日が続く7月初旬。
「ただいま」
 アパートの扉を開け、いつものように奥の部屋に向かって声をかけた。返事がない。
「寝てんの?」
 やはり返事はなかった。電気が点いておらず仄暗い。濡れた傘を壁に立て掛けて家に上がり、鞄を食卓の上に投げた。奥の部屋のふすまをそっと開いた。
「ただい……」
 いつもいるはずの母が、今日はいなかった。青白い光が窓から室内をぼんやりと照らしていた。床の隅に転がっている小さな時計がカチコチと時を刻んでいる。すっきりしたというよりは、何もない部屋。仏壇と、卓袱台ちゃぶだいと、布団と、たんす、目に付くのはそれだけだった。しかし押入れのなかには村の家から持ってきたものが詰め込まれており、入りきらない分は隣の部屋に置いてある。
 部屋の灯りを点けると、今まで気づかなかったが卓袱台の上に置手紙があった。

  出掛けてきます。あとで連絡します。――<母より>

 手紙を持って部屋を出ようとしたとき、仏壇の観音開きが少し開いていることに気づいた。近づいてなかをのぞきこむと、父の位牌がなくなっていた。私は母の行き先を直感した。
 すぐさま玄関に戻り傘を引っつかむと、扉のそばに掛けてあった非常用の懐中電灯を上着の内ポケットに入れ、家を飛び出して駅に向かって走った。雨はやみそうでやまない小降りのまま続いており、道を行き交う人々の傘と自分の傘が何度もぶつかった。
 私は傘をたたんで左手に持ち、人々のあいだを縫うようにして走った。駅に着くころには、服の前と顔が霧を吹きつけられたように濡れていた。
 下り電車は勤め帰りの会社員で混み合っていた。しかし2つ先の駅でほとんどの乗客が降り、車内に残されたのは十数人になった。
 網棚に上げてあった新聞を手に取り、活字を追っていったが、気づくと同じ記事を何度も読み返していた。内容などまったく頭に入ってこない。
 30分ほど揺られたあと電車を降りた。駅のホームは閑散としていた。自動販売機の電灯が切れかかっている。
 改札を抜けてタクシーを拾おうとしたが、タクシーどころか人の気配すらなかった。相変わらず小雨が降っている。私は傘を広げ、ゆっくりと歩き出した。
 駅前には街灯が数本並び、ある程度の光を供給していた。しかし、歩いて2、3分もすると街灯はまばらにしか見られなくなった。舗装路は土が剥き出しの道に代わり、左右から草むらが挟む。幾重にもなった虫の声と泥の道を歩く私の足音。
 履いていた革靴は泥でぐちゃぐちゃになっているだろう。ズボンにも茶色い染みがついているに違いないが、暗くて足元までよく見えない。
 街灯がまったくなくなると、出掛けに持ってきた懐中電灯を取り出して、足元から5メートルほど先を照らしながら進んだ。
 どれくらい歩いたかわからない。ふと視界が開け、広場のようなところに出た。正面と左右にそれぞれ道が伸びている。私は右に曲がり、再び歩き始めた。するとすぐ、前方に小さな光が見えた。光は力強く輝いていた。歩を進め、近づいてゆくにしたがって、輝きは暖かみを帯びてくる。それは民家の灯り、石垣の上に建つ家の、玄関の灯りだった。
 灯りの下に立つと、家のなかから笑い声が漏れてきた。私は戸を叩いた。
「ちょっと、誰か来たみたいだよ」
「まさか、こんなところに?」
 しばらく間を置いて、どちらさま、という声と共に戸が開いた。
「あら、源治さんじゃないの」出てきたのはサチさんだった。「どうしたの?」
「どうしたのじゃないですよ」
「源治?」母が驚いた様子で飛んできた。
「お母ちゃん。なんでここに来ているの……」
「村に来ちゃ悪いってのかい。ちゃんと書置きもしてきたよ。あたしゃ、しばらむここに住むからね」
「出掛ける、って書いてあったぞ」
「すぐ戻る、とは書いてないよ」
「そりゃそうだけど」
 私と母のやり取りを見ていたサチさんがあいだに割って入ってきた。
「まあまあ、源治さんもとりあえず上がりなさいな」
 その言葉に甘えて上がらせてもらった。するとサチさんは着替えを持ってきてくれ、風呂と食事を勧めてくれた。
 風呂から上がってすっきりし、さらに腹が満たされると、これから口論を再開する気にもなれず、翌日が日曜日ということもあって泊めてもらうことにした。帰らなくてもいいと思うと気が楽になり、私は母とサチさんと一緒に火のない掘りごたつに入り、他愛もない世間話に興じた。
「俊太郎さんが亡くなったあとな」母は両手で湯呑を持ちながら話し始めた。「四十九日を終えて、サチさんはここに戻ってきたんだ」
「主人の遺言でね。いつかまた一緒に村に戻ろうなって。あの人も自分が心臓発作で死ぬとは思っていなかったろうから、こんなに早く実現して、あの世でびっくりしているだろうよ。村を離れて3ヶ月で戻ったんだからねぇ」
「でも」私は母に顔を向けた。「お母ちゃんはどうしてここに戻ってきたの」
「町の生活はつまらんよ。それにしんどい」
「それだけじゃないでしょ」
「ああ、あたしゃまだ、ここでやることがあるんだ」
「それは……」
「明日の朝にでも連れていって教えてやるよ。とにかく、今日はもう寝な」
 私は離れの部屋に通された。何気なくふすまを開けて隣の部屋をのぞくと、そこは仏間で、すぐ近くに仏壇が見えた。俊太郎さんの位牌が置いてあり、その横にちょこんと父の位牌が並んでいた。
 電灯を消すと、睡魔が襲ってきた。私は睡魔に身をゆだねた。

「朝だよ!」
 耳元で大声がして、私は飛び起きた。
「早く起きな。出掛けるよ」
 枕元に座っていたのは母だった。といっても、声で母だとわかったのだ。まだ陽は昇っておらず、いくら目を凝らしてみても、薄暗い室内に座っている人影が見えるだけだった。
「んん、いま何時?」
 目をこすりながら訊いた。
「3時だよ」
「まだ3時? 出掛けるのは朝でしょ」
「朝の3時」
 母はそう言い捨てると、私の布団を引き剥がした。
 寝ぼけまなこで寝巻きの上から上着をはおり、母のあとについて家を出た。
「どこに行くの?」
「村のはずれにね、ダムに沈まない場所があるんだよ」
「知ってる。あそこの高台でしょ? 村はダムの中心部に沈むわけじゃないからね。村はずれで高台のあそこはぎりぎり浸水しないんだ」
「そこに行くんだよ。昨晩あたしに訊いたじゃないか。どうして村に戻ったのかって」
「ああ、で、どうしてなの?」
「だから、それを教えてやろうってんだ」
「いまここで教えてくれればいいじゃない」
「うるさいね、黙ってついておいで」
 母は足をかばいながら歩いていたので、高台にたどり着くまで1時間近くかかった。
 私は高台の隅に小さな杉の苗木が植えてあるのを見つけた。2人でそれに近づくと、母が杉の根元の土を叩きながら言った。
「色々と準備が手間取ってね、昨日の早朝に植え始めて終わったのは夜だ」
「この木は……」
「慰霊碑だよ。結局あたしも村を捨てるんだ。これくらいしないことには、ご先祖様に申し訳が立たないよ。この木はご先祖様に対する、村人みんなに対する、そして村そのものに対する慰霊碑。ダムに沈めば、いずれ村は忘れ去られる。結局、想い出は残らないんだよ。わかるかい? 本当に大事なものは手を離れたが最後、二度と戻ってはこないのさ」
 母はしばらくうつむいていたが、突然くるりと私に顔を向けて言った。
「ダム完成前にあたしが死んだら、灰の一部をこの木の根元に埋めとくれ。これはあたしの遺言だよ」

 サチさんの家に帰ってきたころ、ようやく東の空に陽が昇り始めた。サチさんはまだ寝ているようだった。
 私は部屋に戻り、布団に寝転んでぼうっと天井を眺めていた。なぜこんな早朝に出掛けたのか、ようやくわかった。母は夫を亡くして間もないサチさんに余計な気を使わせたくなかったのだ。だから町の生活はしんどいとか何とか、適当なことを言っているのだ。
 私は今まで何をやってきたんだろう。自分が正しいと思うことをずっと続けてきたつもりだ。でも、それは本当に正しかったのだろうか。

 いつのまにか眠ってしまい、目が覚めたときはお昼近かった。床に転がっている小さな時計は11時30分を指している。布団に横になったまま窓の外へ目をやると、真っ青な空に浮かぶ大きな雲がいくつも戦艦さながらにゆっくりと風に流されていた。窓を開け放っておいたおかげで、さわやかな空気が室内に流れ込んできた。
 ぼんやりと天井を眺めながら考えた。すでにダム建設は確定した。私はどうすればいいのか。そのとき、母の言葉を思い出した。
 いずれ村は忘れ去られる。想い出は残らない。
 私は布団から起きあがった。部屋を出ると台所から味噌汁の香りが漂ってきた。なかではサチさんと母が忙しそうに動き回っていたが、母は私と目が合うと前掛けで手をふきながら近づいてきた。
「お目覚めかい。一日に2度も目覚めるなんて忙しい人だね」
「お母ちゃん、カメラ持ってる?」
「カメラ? どうしてまた?」
「写真に撮っておけば、想い出も残るでしょうが」
 母はため息をついて首を左右に振ると、そのまま玄関から表に出ていった。仕方なくあとを追った。母は家の外壁にもたれて立っていた。
「あんた、何を撮るつもりだい」
「何って、村の様子を撮るに決まっとる」
「どうして」
「村が好きだから」
 すると、母は私の目をじっとのぞきこんで言った。
「でも、村はいずれ沈んで消えちまう」
「だから写真に残すんだって」
「写真だって燃えちまうよ」
「――じゃあ、どうしろっていうの」私はイライラして言った。
「おまえ、考えたことあるかい? この世でいちばん大切なものはなんだろうって」
「まあ、おれにとって大切なのはこの村かな」
「形のあるものはみんな消えるよ。それに、写真に撮ったって知らない人にとってはただの辛気臭い風景だ。頭のなかの想い出もいつまで残るかわからん」母は私から視線をはずし、自分の胸を指さして言った。「この世でいちばん大切なのは、ここだよ」
「ここ?」
「そうさ。おまえの場合、この村が好きだっていう、その気持ちだよ。ほかの人、ほかのものに対する気持ち。そして、ほかの人が何を感じているかを捕らえるこころ。あたしはね、こころをひとつ失った。ダム建設が決定した瞬間、この地に眠るご先祖様の、村を沈めないでくれっちゅう願いを断らにゃいけなくなった。先祖を大切にするこころを捨てることになった。不本意ながらね。もちろんいまだってご先祖様は大切に思っているけれど、村を沈めておいて先祖は大事ですなんて、おこがましくて口にできん。サチさんだって、村を出ていった人だって、みんなそう思っているだろうよ」
「じゃあ、あの杉の木は――」
「あたしの新しいこころ。村と、そしてご先祖様に対する、ね。あれを植えることで、守ることで、あたしの気持ちを表そうと思ったのさ」
「でも、あの木だっていつかは切り倒されるかもしれんよ」
「かもね。でもたとえ木が倒れても、あたしのこころは倒れんよ。こころは残る。おまえのなかにね。あとは、おまえがあたしのこころを受け継いでくれる。そう信じとるよ」

 結局、母はマンションに戻ってくることはなかった。
 母が亡くなったのはそれから約1ヶ月後、夏も盛りの8月中旬だった。朝、出社して仕事に取り掛かろうとしたとき、会社の電話が鳴った。
 連日の晴天で町は水不足に悩まされ始めていたが、サチさんから連絡を受けて電車に飛び乗って村へ向かう途中で雲行きが怪しくなり、駅へ着いたときには大雨になっていた。
 駅にはサチさんが迎えに来てくれていた。ハイヤーで村へと向かう。車の通れる道は限られており、思ったよりも時間がかかった。
 サチさんの家の前で車を降りると、私たちは傘もささずに走り、開け放してある玄関からなかへ飛びこんだ。そのまま奥の広間へと進んだ。部屋の隅に、母が横たわっていた。顔に布が掛けてあるわけでもなく、まったくの普段着のまま、ただ横になっていた。
 ゆっくりと歩み寄り、顔をのぞきこむ。眠っているような死に顔という表現をよく耳にするが、本当にそんな感じだった。
「昨夜、眠っているあいだに亡くなったんよ」
 サチさんが横にきて言った。
「なんだか、信じられないな」
「いきなりだからね。今後のことはまだ何も考えとらんし」
「うちはね、親戚がいないんですよ。だから、葬儀はぼくらだけでやりましょう」
「お坊さんはどうするね? 村の住職は村を出ていっちまったけれど」
「連絡をとってみます。母は町があまり肌に合わなかったみたいだから、村の墓地にいれてもらえるか訊いてみます」
「寺の墓地もいずれ沈むだろうに、そんなことできるんだろうか」
「とにかく、住職に相談してみますよ。いずれにしても、遺骨の一部は村に埋めるつもりです」
「杉の木の根元かい」
 サチさんがさらりと言った。
「――知っていたんですか」
「そりゃわかるよ。歳をとると早くに目が覚めちまうからね。シズ江さんがまだ陽も昇らんうちからこっそり出かけていったもんだから、あとを追ったら高台で杉の苗木を植えていた。それを見たら、あの人の考えていることがおのずと理解できたよ」
「あの杉はみんなのこころに対する慰めなんです。母もあの木の下で眠ることを望んでいるでしょう」
「シズ江さんの意思は源治さんが継ぐんだね。埋葬後は木の根元に花とお水でも供えてあげなさいな」



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■ 終曲

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 気づくと私はまた縁側に立っていた。塵ひとつ落ちていない板張りの床。やわらかいオレンジ色の夕陽。赤松の匂い。ここは取り壊され、ダムに沈んだ私の家。
「おまえ、これからどうするよ」
 目の前の母は力無く笑っていた。
「おにい、帰っちゃうの?」
 由紀子が寂しそうな目で見つめている。
「見つけなくちゃならないものがある」私は2人に向かって言った。「まだはっきり見えないんだ。自分の気持ちをどう表現すればいいのか」
「まあ、ゆっくり探したらいい。いつか見つかるよ」
「そうかな」
 私は言葉を濁した。
「そうだよ。決まっとろうが!」
 母がそう言ってにっこりと微笑むと、私は暖かな光に包み込まれ、体がふと軽くなったような気がした。目の前のオレンジ色はやがて黄色になり、そして白になった。数え切れないほど多くの声がやってきては通り過ぎてゆき、意識が拡散し、私は光に包まれて宙に浮いていた。

 ザザア……ザザア……。

 湖から上がると、すでに陽が昇り、夜は明けていた。早朝の涼風。砂浜には昨夜脱ぎ捨てたサンダルが、波にもさらわれず、そっくりそのまま放置されていた。サンダルに足を通してふと目を上げると、水辺沿いに一人のおじいさんが犬を連れて歩いてきた。穏やかな笑顔で話しかけてくる。
「こんにちわ」
「こんにちわ」ぼくも笑顔を返した。
 空は澄みきった青。白い入道雲が湖の上にもくもくと浮かんでいる。老人は犬の頭を撫でながら、湖を見ていった。
「今日も暑くなるね」
「そうですね」
「まったく、去年はこんなに暑くなかったんだがなぁ」
 ぼくらは軽く会釈を交わし、浜辺をそれぞれの方向へ歩き出した。
「そうだ、おじいちゃんとカブト虫を捕りにいかなくちゃ」
 ぼくは砂浜を蹴って、道路に向かい走り出した。
 水面に太陽がきらきら光っていた。


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