何も見つけられない思い出に

 いつものように調子の悪い鍵を回し、扉を開けると玄関は真っ暗だった。
 そこから続く部屋にもすべて薄闇が満ち、静寂を保っている。
「佳苗! 帰ったぞ!」
 叫んでみても返事はない。もう寝たのだろうか。そんな楽観の裏に、いくつもの嫌な想像を隠しながら靴を脱ぎ散らかす。靴の落ちる音が強く反響して聞こえる。
 薄っすらと見えたスイッチを押すと居間の電気が一斉に点く。目の前がくらくらと明転し、頭痛を強調しはじめた。それを無視しながら名前を呼んでみるが、相変わらず返事はない。
 代わりに木目調のテーブルの上に破り取られたメモが置かれていることに気付く。それを取り上げる。重し代わりだったボールペンが転がってテーブルの向こうへ落ち、軽い音が弾ける。
 読みはじめてすぐ、笑いが漏れた。くつくつと疲労で凝っていることも気にせずに肩を上下させる。一行も読み切らぬ間に、手を離れて錐もみをしながら紙は落ち、床を滑っていく。
 メモには出ていくという旨が書かれていた。
 バイト帰りで疲れの積もった頭では、笑うこと以外思いつかないらしい。とにかく笑った。口から涎が流れて床を汚す。もうそれは勝手に綺麗になることはないと思い至ると、さらに可笑しさが込み上げてくる。その笑いはどうにも部屋に響き過ぎる。
 一通り笑った後、疲れ切った身体はベッドを目指して動いていた。寝室からも彼女の痕跡はことごとく消え去り、閑散としていた。それをどこか俯瞰しながら、ベッドに潜り込む。念入りに撒かれていた消臭剤の緑茶の匂いが粘っこく、深い眠りに誘う。意識はどこまでも深く深く沈み込む。

 身体を覆った気持ちの悪い汗で目が覚めたのは昼過ぎだった。靄がかった頭で拾い上げた携帯に表示された時間を見て飛び上がったが、やがて休みだと思い直してベッドに身を沈める。次第に昨日のメモが記憶の奥底から浮かんでくる。
 汗が冷えたころ、ようやく怠い身体をベッドから起こす。ぼんやりとした頭痛が、脳味噌を奥の方からゆっくりと覚醒させていく。寝癖だらけの頭を掻き、散らかった居間を一瞥する。椅子の足にぶつかって止まったあの書置きが目立って見える。足を引きずるように歩いて、それを拾い上げた。
 やはり一行目の文字群は変わらずそこにある。二行目からは私に使う時間が足りないんじゃないかと糾弾され、六行目に入ってから職の不安定さを説きはじめる。面倒臭くなりながらも目で文字を追っていく。何かを感じることすら億劫で、多種多様な罵りに対しても無感動なままだ。最後に性格への文句が書き連ねられ、文章は終わっていた。それを机に置くと、大欠伸をしながら冷蔵庫からビールを持ってきて、そのメモを肴にビールを呷る。その空き缶は昨日に取り換えられたばかりらしいごみ箱に放り込んだ。
 気がつけば玄関で靴を履いていた。靴箱の上には持ってきた財布だけが置かれている。どれだけ考えてみても、外へ出る理由へまでは辿り着けない。追い打ちのように鍵を忘れてしまったことにも気付いて、立ち上がってすぐ踵を返す。すると、玄関の隅に置かれたスペアキーが目に入る。佳苗が真面目に返していったものらしい。その律義さに多少の感謝をしながら拾い上げる。スペアキーはさらに回りにくく、苦戦をしながら玄関の鍵を閉める。
 蒸し暑い大気は、半袖でも堪えるようになりつつある。纏わりつくような生温かい風が吹き上げて髪を散らし過ぎていく。錆びついた階段を降りるとき、やけに手摺りが手の平を刺すように感じた。
 鬱陶しさを増した太陽は、こんなに細い路地ですら丁寧に照らしていた。それに目を細めながら歩く。頭の中には佳苗への文句が逃げ場をなくして、淀んで、腐って、悪臭を漂わせはじめていた。
 すれ違う人間ほとんどに話し掛けられた。近所付き合いがこんなにも鬱陶しく感じるなど思ってもみなかった。なんとか知り合いを避けるように人のいない路地を縫い、大通りを蠢く無関心の群れに紛れて歩きつづけた。
 気がつけば見覚えのある道にいて、寂れた公園が見えている。だだっ広いそこで、佳苗と何度もスポーツ紛いなことをした。金もなく、纏まった休みの取れないおれに合わせた彼女によく連れ出された場所だった。
 公園の入り口には少し汚れた自販機があって、よく水を買った。いつも二人で分けていたそれは、一人には多く、手の中で半分量になった水が波打っている。
 平日の昼下がり、ここに訪れる子供もなく、独り、ベンチでぼうっと空を仰いでいる。暑苦しいはずの太陽の熱も、ねっとりとした風も、身体を包む気怠さも何もかもが遥か彼方に感じられた。
 ふと彼女に会いに行くことを思いつくと、薄らいでいた感覚は自身に収束して、不快感が一斉に押し寄せる。けれども、彼女の家も、職場も、よく行く店も、美容院も何もかも知らなかった。それを疑問にも思わなかったことをようやく気付いて、身体の中に渦巻いていた情動があっさり霧散していく。それと同時に記憶の中の彼女が現実性を欠いて、ただの傀儡のように思い起こされた。彼女は本当に存在したのだろうかと血液を巡りはじめた問いは、誰にも答えられぬままにぐるぐると身体を回る。
 肌を刺していた熱が弱まっていた。いつの間にか空は赤く色付いて、すぐそばまで来た闇と混ざって、薄気味悪い色が広がりはじめていた。

 眠っていたらしい。固いベンチから投げ出された足は、居心地悪く痺れて鬱陶しい。
 ふと下ろした目線の先、公園の入り口に見覚えのある低い影。それははっきりとした足取りで近付いてくる。いくつもの記憶が重なり合う。けれど、そのどれもが滑稽に動く人形劇そのものに見えている。
 おれの前に立った佳苗は思い切りよく平手を振り抜いた。人気のない公園に不格好な破裂音が広がっていく。
「お隣さんから電話あったんだけど! どれだけ迷惑かけたら済むの!」
 怒りに震えた佳苗の声は寂れた公園によく通る。堰を切った彼女の怒号が浴びせられる。その中身の一切が頭に残らない。ただあったのは、ようやく飲み込めた事実だけだった。それは頭を素通りして、漏れ出たため息のあと、口から零れる。
「やっぱり別れたのか」
 確かめるようにもう一度呟いたところで、彼女の表情に気付く。
 三角コーナーの中で腐った生ごみにすら向けないような冷ややかな視線。それを身体で感じてやっと、循環していた事実はおれの身に溶けていった。これが憐れみだろうな。その瞳に宿った色を言葉としてそれを感じ直していると、口を噤んだままの佳苗は長く弱々しい息を吐くと、無言を保って踵を返す。
 はっきりと、間違いなく去っていく彼女の背中に向け、別れの意を込めて小さく手を振る。佳苗が振り返ることはなかった。
 半分残った水を飲むと、とうにぬるくなっていた。

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