深津条太
不定期に投稿する掌編小説まとめ
僕と彼女のちょっとだけ不思議な日々についての作品集
きまぐれ詩
明るく輝く黄金色のまん丸。手元に落ちるライトの光を返した瞳に、ぼくは読んでいた雑誌を取り落としてしまう。 「ねえ、大丈夫」 膝の上にするりと滑り込んできた彼女がくるりとした目で訊いてくる。なにをと訊き返さなかったのはどこまで見透かされたのかを知るのが怖かったからだったと思う。 「もが」 返事の代わりにぼくは落ちた雑誌を拾い上げ、ぼくに挟まれた彼女が呻く。じたばたと振られた細腕が背を叩く。それから両頬を手で潰されて引き起こされる。目の端に映った時計は十二時を回り、一時を回り
一メートル四方を平らにするのが僕らの使命だ。 深夜、家から抜け出した男女がふたり、人気のなくなった大通りに並んでアスファルトを磨いている。 こんなに暗いのに目深にキャップを被っている彼女はリリという。恰好はよくいる今どきの女子といった感じで長い髪は明るい茶色で月光をよく返している。少し鋭いと感じる目は深い黒をしたアスファルトに向けられていて、硬い毛のデッキブラシがその表面を往来している。 彼女を最初に見たのは秋も終わろうとする日付の変わったところだった。無性に食べたく
空気はすっかり冷え込み、白っぽい満月が空の高いところで煌々と輝いていた。人気の薄れた住宅街は屋内から漏れ聞こえる遠い団欒だけが彩を発している。 モノクロにすら思える細い通りを歩くわたしの両腕には足が通され、コート越しには薄っぺらな彼女の身体の気配を感じる。そしてなによりも、 「重い」 わたしの漏らした声に背中の影がくつくつと笑いだす。 「なにせ二人分だからな」 威張り散らして言うことか。少女を背負い直してため息を吐くと後ろから回された細い腕が少し強く絞められ
僕が着いたときに彼女は既にそこにいた。 長い階段を上ってきて荒れた呼吸を刺すような冷たさが白く着色する。 ベンチから街を見ていた彼女は僕に気づいて、相変わらずの仮面の笑顔で手を振る。 息を整えた僕はリュックサックを背負い直して背筋を伸ばす。ほんの少しの警戒。対するあちらは全くの無防備。罪悪感を隠すようにマフラーを掴んで口元へ寄せる。吐いた息が熱の塊として感じられる。 「やっぱり時間通りだ」 時計を一瞥して浮かべる楽しげな笑みに懐かしさを覚える。僕は曖昧に頷いて、彼女
お姫様に憧れていたのはいつだったろう。 白菊にハサミを差し入れながら考える。 きっと全てが変わってしまう前、わたしがベッドに縛られていた時代だ。少しでも刺激を減らそうとする両親が用意した色素の薄い部屋で退屈に身を沈めていた頃だ。色すらも制限されたわたしが世界を見出したのは検閲された創作物だけだった。その中でも文字は過保護な両親の目を時折掻い潜った。彼らを擦り抜けた文字列の内側にはよくお姫様がいた。 脳裏に仄暗く展開されるあの姫は豪奢に飾り付けられた部屋にただひとりだっ
その日は奇しくも私の十六度目の誕生日だった。 いや、そんな日だからなのだろうか。 大仰なパーティの後片付けも済み、稚拙な飾りつけが山盛りになったテーブル。その端にワイングラスを置いた親族がたったひとりで捲し立てるように話す声が聞こえてきた。 「ダイアンも知らぬ間に随分と大きくなったわね」 ほとんど話したこともない伯母の枯れかけた声はよく通り、飲み物を取ろうと階段を降りていた私の鼓膜をきりきりと引っ掻く。咄嗟に私はその場で屈んだ。幸運にも大人達は階段の軋みには気付かず、
かんからぽん、かんからぽん。 胡坐を掻いた少女の頭上にある空は濃い青色をしていた。白い雲ひとつなく、そこを飛ぶ灰色の鳥は遥かに遠い。全ての人々が僕らのように大地を這いつくばっていた時代、空は壮大な憧れだったらしい。空へ駆る大鷲達を羨み、その空の先に神や永遠を見ていた。 けれど、その夢は泡沫に消えていったようだ。翼を手に入れ、羽ばたいた先にあったのは果てのない暗がりであって、広大な絶望でしかなかった。人類はその先を目指したようであるが、肉塊でしかない僕らに地獄を渡りゆくこ
八歳の終わりか九歳になりたてのころ、祖母が死んだ。けれどあたしは一番懐いていたはずの彼女への泣き方を知らなかった。 死んでいなくなることを理解していなかったとかじゃなくて、ただ死ぬということを当たり前のように受け入れてしまっていたんだと思う。 あたしは特別泣き虫な子供だった。二週間に一度くらいは転んで泣き、飛び出してきた虫に、近所の犬の唸り声、夕食のシチューの中に人参が浮いているのを見つけてやかましく泣いているくらいには泣き虫だった。祖母は生前、そんなあたしをあやしなが
夕凪に映るわたしとあなた。 あちらを向いて、なにかを話す。視線はいつもどちらを見てるの。 遠くの山は青く、わずかに曲がる道は真っ黒だ。あなたの瞳も真っ黒で、わたしの瞳は何色だろう。 小さく震えたあなたは薄いカーディガンを羽織る。 「冷えるな」 そう独りごちるあなたにわたしは小さく頷いた。あなたは気付かず、わたしの視線はひとり虚空を滑る。 薄紅に染まった雲が纏まって輪郭をぼかした丸は、いつかの思い出をリンクさせる。それも過去で、はっきり思い出すことは叶わないまま千々
家に帰ると彼女がカーペットの上に倒れていた。 そう思って近づいてみると寝転がっているだけ。指先がカーペットの上を這っている。 「どうしたの」 僕の声に気だるげに顔を回して無秩序に垂れた黒髪の隙間からその眼を見せる。眠たげなままの目蓋の奥にある色は曖昧で、焦点が僕に合っているのかどうかもわからない。 おかえりぃと間延びした声で僕を迎える。 彼女のすぐ傍まで寄ると、彼女の胸の辺りに目覚まし時計らしきものがいくつも転がっているのが見えた。 種類も豊富で、丸くて白い卵みた
絵を辞めよう。 そう決めたのは春の終わりのこと。 冷たさをほんの少し残した風が窓から吹き込む季節。運動部が締めの運動を始めたグラウンドに最後の一色、今はもう散ってしまった桜に色を置いたときにふと思った。 これまで大して評価もされていなかったし、部の顧問の紹介で一度、それなりの賞に応募してみたけれど、予備選考からも漏れた。その通知が届いて感じたのは、悔しさとか悲しさじゃなく、ああ、こんなもんかという納得と薄ぼんやりとした空虚だった。顧問や部の同級生は運が悪かっただとか、
影よ影よ、そんなに伸びずにこちらへおいで。 ここの空気はやな空気、そんなの吸わずにこちらへおいで。 ゆらゆら揺れずにわたしの内へ。 わたしよわたしよ、あなたの街はここではないわ。 みんながぎょろりとわたしを見てる、あなたをずっと見ているの。 そんなの躱してぬくいスープを。 灯りよ灯りよ、そんなに照らして楽しいの。 みんなみんな遠くに行くわ、あなたの光は道にはならず。 映した影だけこちらを見てる。 世界よ世界よ、あなたはどうして壊れたの。
焼けたソーセージと白身を見つめながら大きな欠伸を漏らす。 眠い。片目に浮いた涙を拭う。潤んだままの瞳の中で陽光がきらきらと輝いている。綺麗なのはいいことだが、料理中は鬱陶しいことこの上ない。早く隠れてほしいけれどお天道様が僕ひとりを見ていたとしても、それはそれで怖いから、こちらが瞬きをして瞳の上から涙を追い出す。 もう一度湧いた欠伸を噛み殺して、視線を下げると黄身もすっかり固まってしまっていた。ソーセージのほうも切れ込みから弾けて、少しだけ縮んだ中身を晒している。 今
いつものように調子の悪い鍵を回し、扉を開けると玄関は真っ暗だった。 そこから続く部屋にもすべて薄闇が満ち、静寂を保っている。 「佳苗! 帰ったぞ!」 叫んでみても返事はない。もう寝たのだろうか。そんな楽観の裏に、いくつもの嫌な想像を隠しながら靴を脱ぎ散らかす。靴の落ちる音が強く反響して聞こえる。 薄っすらと見えたスイッチを押すと居間の電気が一斉に点く。目の前がくらくらと明転し、頭痛を強調しはじめた。それを無視しながら名前を呼んでみるが、相変わらず返事はない。 代わり
かちこちかちこち。 これは何度目の音だろう。 時計の針が規則的な音を奏でつづけている。僕は何度もそれを見ていた。 無限の足音。雑踏から聞こえる音にも些細な個性が窺える。革靴、サンダルにブーツ、ピンヒール、スニーカー。 かちこちかちこち。 時計の音が聞こえている。貴婦人、十億回目おめでとう。あっちは五千万回目だ、おめでとう。数回やってみて冷えた視線を向けられただけだったので、最近は心の内でひとり、ひっそりと祝うだけとなってしまっている。 かちりこちかちりこち。