先生どうか皆の前でほめないで下さい。~いい子症候群の若者たち~から見る、「大人」の神格化

私はZ世代では無く、いわゆるゆとり世代のアラサーである。だが、この文中に出てくる、いい子症候群の症例に当てはまり驚いた。

「施されても施しかえせない」「究極のしてもらい上手」「場を乱さないために演技をする」正直私だけが切れる持ち札だと思っていた、行動パターンが全て読まれていたなんて。

では、こっちも正直に話そうと思う、私は一番手軽で安パイな処世術だと思いこのカードを切っている。
「クールぶり」「筋は通すがこっちから、しかける事は無い」更に言えば本書で指摘されている(若者全体が)主体性を持たないと言う、指摘があるのであれば。主体性を取った事で誰かに不利益や損害を与えてしまう事は目に見えており。そうならないよう後手に回り、自分の能力で行える範囲のタスクを全うし、失敗しない行動を取っているまでだ。
「暗黙知」や「責任」と言う抽象的に横行されている、不明瞭な事柄への対処法で行っている。

何が言いたいのか、つまり「暗黙の領域」や「責任」を死語にしてしまえば良いのでは???

本書でも触れているように指示待ちしている若者に対し、「指示待ちを出来ている状況はとても恵まれていると言う事に若者は気づいていない」と指摘している。そして、「指示を出せる」とは答えを知っている状態で曖昧さを一切含まず指示できる究極の状況としている。
では、大前提そんな状況は存在せず。どんな仕事・人・モノに完璧は無いと雰囲気であってほしい。

「こうすべき」「普通○○でしょ」「~なんてありえない」と個人の定規あわせた主張に同調したり、それに強迫観念を感じたりしない世の中であれば、序盤で言った「いい子症候群」と揶揄されていた、手札を切らなくてよくなる。

自分の快・不快に素直になりたい。

本書の締めくくりとして、(正確には終盤では無いが)大人世代に「自分はもう一度これをやりたい。今度は絶対成功させたい。だから手伝ってもらえないか」と言い、大人からリードするように促してくれている一節があった。この部分はとても胸を打たれた。
大人になればなるほど、今までの自分の轍で自分の全長や重さ、歩幅を決めなきゃならないと言う空気感があるのでは無いだろうか。ゆとり世代アラサーの自分は今この歳になってそれを強く感じる。確かに自分のやれると確信出来る範囲で治まれば、失敗はしない・・・が、空気を読んでそのままでいればそこで成長は止まるのでは無いだろうか?
若者にも、成長のための学習を促すように記しており、これは大人にも当てはまると思う。「指示を待つ」と言うスタンスの根底にある、貢献欲求は私たち人間の備わっている快楽の部分である。それに相乗させて、自分の興味あるもの(快)ひいては嫌いじゃない場所や人(不快の少ない)で素直になって成長のため挑戦していくと言う事が、「いい子症候群」のコンボとなる我々の切り札では無いだろうか。

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