見出し画像

Journey×Journey.5 金子鉄成の冒険

長きに渡ったこのブログの最後を迎える前に私は15年前に食べたチーズケーキのことについて触れなければならない。あのチーズケーキを食べなければ私はこんなふうに世界中を放浪することはなかったかもしれないし、少なくとも、その放浪のゴールにこの地を選ぶことはなかっただろう。

そのチーズケーキを食べたのはインドのプリーという町だった。15年前に訪れた街であり、そして、今、私がいる町でもある。

プリーはインドの南東部に位置するオリッサ州の町であり、ヒンドゥー教の四大巡礼地の一角として挙げられ、多くの巡礼者がこの町にあるジャガンナート寺院を訪れる。特に毎年6月から7月に行われるラト・ヤートラーと呼ばれる祭礼には数十万人にのぼるヒンドゥー教徒が押し寄せ、熱狂すると言う。寺院の名称にもなっているジャガンナート(「世界の主」の意)というのはこの地の土着神だったが、後にヒンドゥー教に習合され、ヴィシュヌ神の化身の1つであるクリシュナと同一視されるようになった。と、書かれているが、私にはどういうことなのかさっぱりわからない。そもそもわかりにくいヒンドゥー教の成り立ちを一層複雑せしめているのはこの独特な世界観と主語の欠落にあるように思える。「習合され、同一視されるようになった」。一体、誰が習合させ、誰が同一視させたのだろうか、とどうしても引っかかってしまう。

この町のもう一つの側面はインド人にとって、また旅行者にとっての保養地であるということだ。ベンガル湾に臨むプリーには穏やかな海岸線が伸びていて、観光エリアにはホテルや食堂が多く建ち並んでいる(もっとも、私が初めて訪れた15年前は今よりもずっと少なかった)。

観光エリアと言っても、バラナシやコルカタのような激しい喧騒はなく、またツーリストを騙そうとするインチキも少ない(これについても15年前とはいささか様相が違うようだが)。インドの混沌をくぐり抜けた旅人にとってプリーは格好の休息地になるだろう。

15年前にここを訪れた私も他の旅人たちと同様に到着して随分安堵した。しかし、その矢先にスマトラ島沖で巨大な地震が起こった。プリーに到着した日の翌日、昼食を食べたのち、連日の疲れがたまっていたのか珍しく昼寝をした。夕方起きるとゲストハウスのスタッフや他のインド人宿泊客が険しい表情で新聞を読み込んでいた。珍しい光景だなと不思議に思っていると、中にはヒステリーを起こしている人もいて、只事ではないと察知した。新聞を覗き込んでみると見出しに大きく「TSUNAMI」と書かれていたのが印象深い。

死者22万人と言われるこの未曾有の震災において、インドも被災しており、1万2千人以上の死者を出している。もっともインド洋に浮かぶアンダマン・ニコバル諸島においては全島が一時水没したという情報もあり、正確な被害状況は今もなお把握できていない。プリーが面するベンガル湾は被害な甚大だったエリアよりも北に位置し、湾自体が大陸に入り込むような形状になっているため、死者が出るような事態にはならなかった。それでも漁業エリアは被災したと聞いたが、その被害がどれほど深刻なものであるかについて、通りすがりの私にはわからなかった。震災による被害が自分の想像を遥かに凌駕するほどシリアスで、シビアなものであるということを知った私はまず両親にメールを送った。そして、タイ南部の島にいるはずの伊崎の安否確認を急いだ

当時、大学の同級生だった伊崎は私と同様に大学を留年し、ある意味においてその恩恵を受け、長期間の旅行に出かけていた。十一月に一緒に日本を出発し、上海から陸路で南下、ベトナムやラオスを抜け、タイのバンコクに辿り着いた。その後の進路についてはバンコクで決めようということになっていたが、私はインドに行きたかったし、彼はそうではないということは初めからわかっていた。チケットを手配する前に念のため「ほんと行かなくていいのか?」と聞いてみると、彼は「インドのカレーはきっと辛いんだろうな」と言った。

「それがどうかした?」

「俺、辛いの苦手なんだよ」

「辛くないのだってあるだろ?それにタイだって十分辛いじゃないか」

「正確に言うと、辛いのが苦手と言うより、はじめから決められてるものに抵抗があるんだ。その点、タイはいいよな。テーブルの上に置かれた調味料を使って自分で好きなようにコントロールできるから」

「それがインドに行かない理由?」

「俺は南の島でのんびりするよ。テツはインドで聖なるものを存分に堪能すればいい。俺はビーチで性なるものに没頭する。青春は短く、夜は長い。逆に言えば、夜は長いが、青春は短い。お互いの青春を謳歌し、お互いの夜を過ごそう」

「青春は短く、夜は長い?」

「知らないか?『あのころ僕らは』っていう映画」

「知らないね」

「信じられないくらい退屈な映画だが、だからこそ、いい。俺らだって似たようなもんだろう?信じられないくらい退屈だから、今、こうやってビールを飲んでるんだ」

それについては特に異論なかった。そのとおり、このころ僕らは信じられないくらい、退屈だった。そして、確かに、青春は短く、夜は長い。

バンコクにしばらく滞在したのち、私はインドのニューデリーに飛び、彼は南の島へと向かった。私はバラナシからネパールに向かい、そのまま西に進み、インド北西部のダージリンに行った。ダージリンで今後のコースについて迷った。このまま直接南インドに進むか、それとも迂回してバングラディシュに入国するか。当時、バングラディシュに渡航する旅行者は少なく、また今のようにインターネットも発達していなかったので事前に仕入れられる情報はほとんど皆無に近かった。しかし、だからこそ、魅かれた。誰かの足跡をなぞるだけの旅を冒険と言えようか。若かったな、と思う。そして、実際に若かった。それにこの若気がなければ、針路を南インドへと取り、もっと切実に、もっと痛切に、スマトラ島沖地震の被災者になっていただろう。結果的に私はバングラディシュを選び、そして、この国は私を魅了した。クリスマス・イブの夜は首都ダッカの寂れたゲストハウスの屋上から首都のメインストリートが人力車で渋滞をしている様子を眺めながら、酒屋からこっそり仕入れたハイネケン(バングラディシュはイスラム教国家)をこっそり飲んで過ごした。翌日、インドに再入国し、コルカタからそのままプリーを目指した。そして、あの震災が起こった。

私がインド、ネパール、バングラディシュを駆けまわっている間、伊崎はタイ南部の周辺の島を転々としていることはメールのやりとりで把握していた。タイランド湾側に位置するサムイ島、タオ島、パンガン島をそれぞれ訪れ、次はアンダマン海側のプーケットやピピ島に行くと言っていた。もし、伊崎がスケジュール通りに進んでいたとしたら、致命的な事態になっているかもしれない。そうなっていたら、おそらく連絡も取れないだろう。

「青春は短く、夜は長い」

件名にそうタイプされたメールは意外にもその日のうちに届いた。

「散々、酒と女に明け暮れた日々で、もういい加減に次に移ろうと思って、最後の夜に盛大にパーティーしたんだ。一度寝たら起きられないことはわかっていたから、そのまま起きていようと思ったが、結局朝方に力尽きて寝た。そして、未だに島を出られずにいる。結論、夜の長さに命を救われた。テツも無事で良かった」

本文にはそう書かれていた。

伊崎の安否を確認できた私は安堵し、夜のプリーに出かけた。やはり町は地震のニュースは持ちきりで、どこか騒然としていた。一方、直接的な損害を免れたこの町の日常はよそよそしくも正常に保たれているようにも感じた。カレーを提供する食堂はいつものようにカレーを提供し、カレーを食べるインド人はいつものようにカレーを食べていた。私も彼らに倣うようにカレーを食べた。プリーの海で獲れたというマナガツオの切り身が入ったそのフィッシュカレーは私が旅中に食べたカレーの中で最も美味しかった。津波によって命を奪われたマナガツオの数は一体どれほどになるのだろうか。無傷なのか、数千なのか、数万か、あるいはもっと途方もないのか、全く見当がつかなかった。私としては目の前のこの1皿にただただ感謝するだけだ。

チーズケーキの話に戻そう。まさに15年前のその夜、私は問題のチーズケーキを食べた。

カレーを食べ終えたのち、酒屋を探して宿でビールを飲もうかとも考えたが、酒を飲む気になれず、また宿に戻ろうという気も起きず、結局そのまま町をうろつくことにした。しかし、それほど大きくはないプリーの町は津波によってもたらされた言いも知れぬ物憂げな感情や神経の昂ぶりを抑えるには及ばず、宛てのない夜の散歩はより深く、より奥まった場所へと自分を追い込んでいった。まいったな、と私は思った。今夜は眠れそうにない。そんな矢先に目に飛び込んできたのがトム&ジェリー・ベーカリーだった。

インドにおいて、とりわけ、プリーにおいて、そのベーカリーは極めて浮いた存在のように見えた。そもそもパン屋というのが珍しい上に、アメリカのアニメ作品である「トムとジェリー」をお店のモチーフにしていた。日本や欧米のベーカリーのように温かく、美しく仕立てられているわけではないが、インドの一般的な食堂や雑貨店に比べるとずっと清潔で、衛生環境も悪くなさそうだった。旅行中、こうした完成度の高い店に立ち寄ることは滅多にないが、その日は吸い寄せられるようにお店の中に入っていった。店内に置かれている商品は外装に対して遜色なく、丁寧な仕事を施された一つ一つのパンに次から次へと目移りした。カレーの国々を渡航し続けることによって、長らくご無沙汰していたチーズやトマトソースを使ったパンにも魅かれたが、バラエティーに富んだラインナップの中で自分の心を最も強く捉えたのはチーズケーキであった。ケーキやスイーツの類いはこれ以外に見当たらず、何故この商品群の中にチーズケーキだけが用意されているのか不思議に感じたが、ケーキ自体は何の変哲のない、王道を屈託なくまっすぐ進んだようなものだった。どうして、そのチーズケーキが自分の心を捉えたのか。チーズケーキが取り立てて好きというわけでもないし、そもそも甘いものは食べない。けれど、旅の疲れも相まって糖分を欲したのだろう、と単純に解釈した。ワンカットだけを買い、テイクアウトした。

宿に戻り、お湯の出ない冷たいシャワーを浴び、扇風機がカラカラと音を立てながらまわる狭い部屋の中でチーズケーキをそのままかじりついた。しかし、異変に気付くまでにそう時間はかからず、ろくに咀嚼しないうちに手の上に吐きだした。ほぼ反射的な拒絶反応だったので何が何だかわからないまま吐き出したが、原因はすぐに判明した。

そのチーズケーキはしょっぱかったのだ。

どういうことなのだろう?、と私はその塩辛いチーズケーキについて考察した。塩と砂糖を入れ間違えたのか、あるいはインドにおいてチーズケーキというのはこういうものなのか。しかし、そのしょっぱいチーズケーキを再び口に入れようとは思わなかった。私はどの国に行っても、何を食べても食事を残すことはしない。義務付けているつもりはないし、食べ物を粗末にしてはいけないという気持ちがそうさせているわけでもない。中国やヨーロッパの一部においては出された料理をほんの少し残すという慣習があることも承知している。すっかり平らげたほうが単純に気持ちがよいから、というくらいの感覚であったが、どれほど辛くても、どれほど口に合わなくても、基本的には食べ残すことはしない。しかし、そのチーズケーキに関しては自分の中に受け入れる余地がなかった。自分が吐き出したものと一口齧っただけでそのまま取り残されたチーズケーキを眺めながら、迷った挙句、そのまま紙にくるんでゴミ箱に捨てた。そういう時もある。苦手なものだってある。そう言い聞かせた。そして、何とも居心地の悪いものを抱えながら、ベッドに横になった。案の定、その夜はなかなか寝付けなかった。チーズケーキの匂いがその狭い部屋の中に漂っているようなそんな気がした。まるで禍々しいものを封じるかのように、ビニール袋の口を必要以上に強固に塞ぎこんだので、きっと気のせいなのだけど。

翌朝、ゴミ箱の中のチーズケーキを手に取って、ゲストハウスのゴミ置き場に移した。自分の部屋に残された忌まわしいもの取り除けば、少しはすっきりするかと期待したが、気分は晴れなかった。

宿に併設された食堂でチャイを飲みながら、今日一日をどう過ごすかについて考えてみたが、特にいいアイディアは思い浮かばなかった。唯一の観光スポットとも言えるジャガンナート寺院に行くのも別に今日でなくていい。今日一日に目的を持たせるのであれば、何も目的を持たない一日を目的的に過ごすということだった。

CDウォークマンでボブ・ディランや「はっぴいえんど」を聴きながら、2杯目のチャイを飲んだ。持参した音楽を聴くというのも自分の中では珍しいことだった。その国の、その町のナチュラルな風景の中に自らがこさえたものを混ぜたくない、というささやかな哲学に由来する姿勢であったが、その朝は音楽の中に自分を放り投げたかった。ボブ・ディランは『風に吹かれて』を歌い、「はっぴいえんど」は『風を集めて』を歌い、波は寄せては返し、2杯目のチャイは冷め、目的を持たないという目的は静かに果たされていった。

夜になって、インターネットカフェでメールを開いた。日本にいる友人たちが自分のことを心配して、多くのメールを寄せてくれていた。そのメールに一つ一つ返信しているうちに、伊崎から新着のメールが届いた。そのメールの件名には「想念」と記されていた。

想念?

「やあ、お疲れ様。こっちの混乱はしばらく落ち着きそうにないけど(まあメールできてるだけありがたい)、そっちはどうだい?昨日のメールを読むかぎり、それほど深刻な状況ではないんだろうな。でも、メールはたくさん来てるだろ?おまえは律儀に一つ一つに返信してるだろう。普段、何かと面倒くさがる俺だが、今回ばかりは俺もちゃんと返してるよ。なにせ、命をマジで心配されることなんて、そうはないことだからな。こうやって、こういうメールが届くと、いつもは無感覚にやり過ごしていることも、なんだか大層なことに感じるよ。例えばさ、単純にメールが届くっていうことだって、これはなかなか凄いことなんじゃないかと思うんだ。毎日、毎日、わんさか一方的に送り届けられてくるメールにうんざりしてしまうわけだが、俺にメールを送ってくる相手は俺の知らないところで俺のことを考えてくれているってことなんだよな。そして、俺のために貴重な時間を割いてくれてるわけだ。内容はどうであれ、たかが一通のメールの根本、と言うか、前提にそういうのがあると思うと実に恐縮だよ。俺が今まさに生きているのは今まさにここ、なわけだが、大きく考えればそう言い切れるものではないかもしれないとさえ思うね。丹精込めて育てた野菜は美味しい、とかよく言うけれど、あながち出鱈目でもないだろう。そういうのを難しく表現すれば想念って言うんだろ?俺が俺を俺たらしめているわけだが、同時に、かつパラレルに、想念が俺のことを俺として成り立たせているのだとしたら、怖くもあるが、感謝もしなきゃな、とそんなふうに思う。言っておくが、酔ってるわけでもハッパをやってるわけでもないぜ。マジの、マジだ。そして、ほんの少し何かが違っていたら、マジのマジで死んでたかもしれない。ところが、俺は今まさにここで、今まさに生きている。テツも今まさにそこで、今まさに生きている。おめでとう、そして、ありがとう」

伊崎からのそのメールにどう返信すればいいのかわからなかった。キーボードに指を所定の位置に置いたまま、しばらく動かせないでいた。結局、読んでいる途中だったハイデガーの本の中から一節を引用し、その返信とした。

「われわれは訊ねる、まだ何が冒険されうるだろうか、生そのものよりも、すなわち冒険そのものよりも、一体何がより冒険的なのだろうか、つまり何が、存在者の存在よりも冒険的なのだろうかと」

要領を得たレスポンスだとは到底思えなかったが、そう送信すると伊崎は3日後に「Amazing」とだけ返信してきた。

プリーに滞在した一週間の間、私はひたすら海を眺めて過ごした。海を眺め、ただ海を眺め、そして、海を眺めた。津波か、もしくはインドか、あるいは伊崎のメールか、何がそうさせたのかはわからないが、私の中で得も言えぬ何かが持ち上がっていた。言葉や感情で捉えかねるものであり、私は私に身を委ねるしかなかった。朝から日が暮れるまで海を眺めると、宿に引き上げ、今度は屋上で月が東から西へと刻々と動いていくのをじっと見つめ続けた。不思議なことに、その変化とも言えないほどの微かな天体の移ろいに飽きることはなかった。むしろ、そこから目を離せないほど束縛的ですらあった。そして、一体身体のどこから溢れ出るのだろうというくらいの涙が無意識に零れ落ちるようになった。初めは自転車のペダルを裸足で漕ぐおじいさんの姿に泣き、次に大量の魚が入った籠を頭に載せて歩く女性のサリーの美しさに泣いた。最終的にインドカレーを作るインド人にさえ、涙が出るようになり、俺はほんとにどうかしてしまったのかもしれない、と思った。

そうした危惧をよそに涙は唐突に訪れ、そして、エンドロールを流さぬまま唐突に過ぎ去っていった。まさに、まるで津波にように押し寄せ、まさに、まるで津波のように引いていった。平静と静寂を取り戻した自分の内に残されたのはあのチーズケーキだった。ゴミ箱に捨てたものは戻らないが、もう一度あのチーズケーキを食べたいと思った。強く、そう思った。

プリーを離れる前日に店を訪れたが、トム&ジェリー・ベーカリーは閉まっていた。翌日、電車の発車時刻の前にもう一度行ったが、やはり店は閉まっていた。その後、日本に帰国したのちもあのチーズケーキは心のどこかをどこかで捉え続け、あの夜、狭い部屋の中を漂う(漂っているように感じだ)チーズケーキの匂いはいつまでも自分にまとわりついた。
 
帰国後、大学を卒業し、中堅の寿司チェーンに就職した。学生時代からアルバイトをしていた店に、卒業とともにそのまま社員として採用してもらえることになっていた。他の学生たちと同じように就職活動は一応真面目に取り組んだし、旅行会社から内定もいただいたが、一般企業に勤めて果てしないレースに身を投じるよりも、手に職をつけたほうが自分の性にあっていると思っていた。それに寿司屋の空気も好きだった。新鮮な魚は新鮮な匂いを運び、その中に混じるお酢の香りは自然と自分の気を引き締めた。自分が、自分の仕事をする場所はここだ、ということに疑いはなかった。

学生生活を送った5年間の間、ずっとそのお店で働いていたので、アルバイトの身でありながら寿司の世界の厳しさは十分に理解しているつもりだった。途中で音をあげて辞めていく社員も大勢見てきた。しかし、実際に社員として向かい合ったその世界は想像以上にストイックで、想像以上に過酷だった。それでも続けられたのはその先に見据えたものがあったからに他ならない。アジアを3か月旅した卒業旅行は旅に対する熱を鎮火させるものではなく、むしろ自分の人生を大きく転回させるトリガーとなった。ごく自然と、いつかは世界を一周してみたいと思ったし、その時はバックパックに自分のアイデンティティを携えていたい、と考えていた。自分にとって、それが「SUSHI」だった。世界をまわりながら、その土地それぞれのものや未知なる食材を握って、現地の人に喜んでもらう。そんなふうに一周できたら、どんなに素敵だろうか。真剣にそう思っていたし、真剣にそれがモチベーションとなっていた。粛々と、耽々と、私はその店でとにかく寿司を握り続けた。

そんな日々が5年以上続いたある日、薫(仮名とする)の妊娠が判明した。薫もまたこの店舗で長く勤務するホールのリーダー的存在で、我々は店にばれないように内密な交際を続けていた。「いつかあなたが世界一周する時は私も一緒についていきたい」と、私のプランに対して、常に好意的だったし、応援もしてくれていた。しかし、妊娠という祝福はそうしたかたちを持たない淡いもの一切をあっというまに遠く彼方へと運び、厳然たるかたちとして、我々の人生の厳然たる重心となった。

「今のままのお給料でこの子をちゃんと育てられるかしら?」

そうした発言を薫が言うようになるまでにそう時間はかからなかった。

自分にしても、今のまま、今の店で働いていたとしても、この先どこにも行けないことはよくわかっていた。5年間という歳月は自分にそれを十分に知らしめた。寿司職人としての技術も、一家の大黒柱としての経済力もこれ以上の飛躍は望めず、たかが知れた未来に向かって自ら進んで埋もれにいくようなものだ、と思った。世界一周はあとでいい。まずは職人として一人前になり、父親としての責務を全うするのだ。と、

お店に薫の妊娠と彼女と結婚することを伝え、同時に外国人観光客の来店が多いことで有名な築地の老舗の寿司屋への転職が決まったことを告げた。

転職先の店は自分が思った以上にずっとオーセンティックで、トラディショナルな寿司屋だった。自分がいかに今まで半端な仕事をしていたのかを痛感させられた。自分よりもずっと年下の若い弟子たちに混じって、先輩から怒鳴られ、罵倒される毎日であったが「本物」に触れている感覚は自分を奮い立たせたし、家に帰宅してから見る娘の顔に疲労やストレスは煙のようにすっと消えた。

一方で、薫との関係は徐々に悪化していった。私が仕事に打ち込めば打ち込むほど、我々の距離感は次第に広がっていった。今まで同じ職場で働き、同じように汗をかき、同じものを見てきた薫は何も言わずともきっと理解してくれるだろうと思い込んでいた私の認識が甘かったのかもしれない。コミュニケーションを怠った私に非があるのかもしれない。けれど、「そもそも転職を促したのはおまえじゃないか」という苛立ちがまったくなかったかと言うとそれは嘘になる。私は板前であり、見習いで、大人であり、父であり、父として新米だった。薫は妻であり、母であり、母として新米で、そして、女性だった。同じ場所に、同じように碇をおろしていた我々は新しい環境においてお互いのポジショニングを定かにできないまま、不器用な船を不器用に操縦し、操縦していたつもりで、気付いた時には遭難していた。

ごくシンプルに言って、我々は世間知らずだったのだろう。

離婚届けを提出したのは娘の真澄(仮名)が中学二年生の時だった。真澄が小学生にあがる頃には私と薫の間には決定的な溝ができていた。口を利かない夫婦なんて他にごまんといるさ、と関係修復に努めるのを放棄し、私はそれまで以上に仕事に打ち込んだ。でもそれは仕事に情熱を捧げたのではなく、仕事を隠れ蓑にしただけだった。家庭でも職場でも手持無沙汰になるのが怖かったのだ。マグロを捌きながら、まるで自分自身を切り裂いているかのように錯覚した。泳ぎ続けていないと死んでしまうマグロのように、自分もまた動き続けていないとうまく呼吸ができなくなってしまっていたのだ。

だから、薫の不倫を知った時は少なからずショックだった。他の男と寝ていたという事実よりも、それに全く気付かなかった自分を情けなく思った。まわりが見えなくなるほどに仕事に夢中になっていた、というわけでもないのに。むしろ、仕事に精を出すふりをしながら常に薄目を開けながら視線を注ぎ、そして、注がれる視線を気にしていたというのに。自分はほんとうに何も見えていないのだ、何もわかっていないのだ。そう思った。実際に、不倫が発覚した彼女の様子から私は一切の感情を読み取ることができなかった。悪びれることも、開き直ることもなく、断罪も贖罪も要求することなく、離婚届は速やかに作成され、手続きは速やかに受理された。籍を抜くことよりも、フェイスブックを退会する方がよっぽど煩わしい(離婚成立後、私はフェイスブックを退会した)。

真澄の親権は薫が持った。何故、浮気をした妻に親権が行くのかと当然の疑問を抱きながらも、今の日本の司法において、親権と離婚問題は全くの別物として考えられている現状とその通説に抗う気力はなかった。離婚以降、仕事に対する意欲も失せていった。国際的な日本食ブームは新進気鋭の料理人たちに火をつけ、和食の世界においても同様に、有望で能力のある板前たちの海外進出を促した。私が働く築地出身の板前も何人か海外で独立し、すぐそばにある銀座においては大航海時代さながらの様相を呈していた。そうした躍動を横目に私は毎日のように同じ作業と同じ仕込みに明け暮れていたわけだが、家庭の存在はそんな日々を支えていた。しかし、それもなくなった今、一つ一つのことが急に虚しく思えてきた。

今、私が身を置いている環境は「断定」の世界だ。長い年月をかけて培われ、育まれ、受け継げられる技巧の一つ一つは現時点における断定である。伝統とはつまり積み重ねてきた断定の集合であり、風習とはそれを保つための断定的規範なのだ。一人前の板前になるためにはこれをしなければならない、だとか、何年下積みしなければならない、だなんて、ナンセンスな断定に他ならない。ましてや、自分が意見することなんて許されない。ここは断定的に断定され、断定的に断定しなければ生きていけない世界だった。そうした断定から解き放たれたのが今、海外で活躍している料理人であり、そうした断定に拘束されているのが今の自分である。そんなふうに感じるようになった。けれど、今の自分に海外はおろか日本で店を構える覚悟も技術もないし、かと言って、今の日々を支える気力もない。

自分を取り巻くものが一斉に行き詰まり、自分を取り巻くものの中心で私は息詰まった。その重苦しい呼吸の中で最後に残ったのは「旅に出たい」というかつてのシンプルな憧れであり、「旅に出なければならない」という今のシンプルな切望だった。

2年後、真澄の高校進学の知らせを受けたのち、私は一切を切り捨て、海を渡った。スタートはニューヨーク、そしてゴールをプリーとする。それ以外は何も決めていなかった。

マンハッタンは土砂降りの雨に見舞われていた。目印として向かったセントラルパークに映画の中で見かけるような颯爽とした印象は見受けられず、むしろ、痛々しく雨に打ちつけられるその様子は不吉な森を想起させた。「出だしからこれか」と暗澹たる気持ちと雨に濡れて重みを増したバックパックを背負いながら、目星をつけていたユースホステルに向かった。

「あなた、ついてるわね」とレセプションの女性は私に言った。

「どうして?」

「このホステル、一ヶ月先まで予約でいっぱいなのよ。ちょうど団体のキャンセルが出たから案内してあげられるけど」

「予約でいっぱい?だって、ここは500人くらい入るでしょ?」

私は満室で断られるのを回避するために多少値段が高くても確実に泊まれそうなところをピックアップしていた。日本をほとんど飛び出るように出発したし、そもそも宿をあらかじめ予約するような旅にはしたくない。そう思っていた。

「収容人数は620人、そして現在の宿泊客は600人。あと1時間もすれば、きっちり620人。毎日、毎日、620人が世界中からこのホステル集まって、毎日、毎日、620人がこのホステルから世界中に飛び出していくの」

「へえ。そんなにすごいとは思わなかったな」と言うと、

「Welcome to Newyork City」と彼女は笑って言った。

まさにこのユースホステルそのものがニューヨークを象徴する縮図のような様相を呈していた。様々な人種が、様々な目的を持って、この街を訪れ、そして去っていく。12人部屋のドミトリーで一緒になった宿泊客だけ見ても、人種はバラバラ、ヒッピーのようなバックパッカーもいれば、これからドバイに行くというビジネスマンもいた。レセプションは彼女が言うように、ひっきりなしにチェックインとチェックアウトが繰り返され、終日続く混雑の中、複数の言語が飛び交っていた。一つの在り方が新陳代謝によって保たれているのではなく、新陳代謝そのものがニューヨークそのもの、そんなふうに思えた。急速な経済成長の中で意図せずもたらされた多様性とは異なり、アメリカという国の歴史の中で移民や人種差別などの問題を経て、ゆっくりと醸成されていった多様性はこの国の、この街のしなやかなアイデンティティなのだろう。

日本から持ち越された疲労も相まって、到着したその日は外出することなくそのまま眠ってしまった。翌日は早朝の4時に目が覚め、寝静まった雨上がりのマンハッタンを散歩しているとそんな時間にもかかわらず、営業している商店を見つけたので中に入ってみた。グロサリーと呼ばれる形態で、コンビニエンスストアよりもさらにこじんまりとした規模で食料雑貨を扱っている。東京の都市部においてほとんど見かけなくなった業態がマンハッタンにはあるんだなと少し驚いた。レジの前の小さなショーケースにパンとちょっとした具材が用意されていて、客がカスタマイズして注文することができるようだ。私はベーグルにハムとクリームチーズを挟んだものと、ホットコーヒーを頼んだ。

テイクアウトしたものをホステルに持ち帰り、エントランスに設けられたテラス席でゆっくりと時間をかけてコーヒーを啜り、ゆっくりと時間をかけてベーグルを齧った。コーヒーは薄かったし、ベーグルは固かった。けれど、それが心地いい。ちょっと足りない、というのがここでは価値になる。例えば、今この場所で、仮に同じ値段で、完璧なコーヒーと完璧なニューヨークベーグルを提供されても何だかしっくりこないものだ。完璧を求めることもなく、完璧を求められることもない、その心地いい不足を旅はもたらしてくれる。長い間お預けにしていた、そのゆるやかで、やわらかな朝食を終えるとともにやがて辺りは白やみはじめた。前日の分厚い雨雲は過ぎ去り、雲の隙間から淡い水色を垣間見ることができた。世界一周の中で初めて迎えた朝は悪くない、ちょっと足りない青空だった。
 
ニューヨークに数日間滞在したのち、陸路で南へと向かった。そのままメキシコに入国し、さらに南下し、中米諸国へ。パナマからコロンビアに飛び、さらに南下を続けた。南米をまわり終える頃には日本を出発して一年が経過していた。南北アメリカ大陸を特に大きなトラブルに見舞われることなく、無事に旅することができたことに自分は心から安堵した。中米にしても、南米にしても自分が思っているよりもずっと治安はよく、ずっと穏やかだった。けれど、やはり日本とは違う。旅先で出会った友人たちも何人かはスリや恐喝、詐欺に遭っていたし、日本に帰国せざるえないほどの深刻な被害を受けた人もいる。そうしたケースが現実にある中で、自分はよく何事もなく切り抜けることができたな、と思う。警戒意識も低い方だし、何かにつけてルーズだ。下調べもしないし、忘れ物をすることも多い。

そんな自分が唯一、心がけていたことと言えば、それは「否定をしない」ということだった。旅の中で起こることは全て自分の責任であり、自分に依るものだ、と。犯罪は犯罪であり、それがどこであれ、どういう理由であれ、許されることではない。けれど、それとは別の軸として、対象を「否定」せず、感情の行先を自分の内にとどめるということに徹するように努めた。仮に詐欺や窃盗などを目的とした接近があったとしても、そうした悪意との遭遇は言ってしまえば仕方がないことで、「自分に隙があるから、おびきよせてしまったんだ」と思うくらいがちょうどいい、と自分の中で結論づけた。否定をしない、というのはすなわち、「受け入れる」ということだった。「受け入れる」ということはすなわち、「肯定する」ということだった。肯定するがゆえ、自分は今このように無事に旅ができているのだろう、とそう解釈した。

起こったことと、起こらなかったことに自分なりの、精一杯のYESを捧ぐ。

そんなふうに旅をしてきたし、これからもそんなふうに旅をしたい、と南米大陸の最後の晩に、チリの首都サンチャゴのゲストハウスの中庭で思った。

そして、その思索の先にあったのは15年前、インドのプリーで吐き捨てたあの塩辛いチーズケーキだった。

何故、自分はあのチーズケーキを強く否定したのだろう?

その答えがぼんやり見えてきた。

南米のチリからスペインへと飛び、ちょうど折り返しとなるこの時から、私はいたるところで寿司を握るようになった。市場やスーパーで買った食材を宿のキッチンで握るところから始まり、次第に市場に酢飯を持っていって即興で握ったり、ストリートパフォーマーが集まる公園でも握った。

自分自身、旅に慣れて心に余裕が出てきたというのもあるし、ヨーロッパは南米に比べて治安も悪くない。食材も豊富で、衛生環境もある程度整っている。けれど、何よりも純粋に私は寿司を握りたかったのだと思う。バルセロナではロブスターやムール貝、ポルトガルではバカリャウという干し鱈、オランダではニシン。今まで触れることのなかった地場の食材を片っ端から寿司にした。そこには初めて旅に出たときのような新鮮さと驚きが満ち溢れていた。そして、そうした瑞々しい高揚の一方で、本来の自分に回帰していくような逆説的なノスタルジーを同時に見い出した。新しさと懐かしさの中で自分はひたすらにピュアだった。旅に対してピュアで、寿司に対してピュアで、自分に対してピュアでいられる時間において、世界は今まで以上に温かく親切で、フラットだった。

ヨーロッパを転々としたのち、トルコのイスタンブールに至ったところで、真澄からメールが送られてきた。日本を出て一年半、薫からも真澄からもメールはなかったし、自分からも送ることはなかった。

「お父さん、元気?多分、まだ日本には戻ってきてないわよね?今はどのあたりを旅しているのかしら。私は元気。だけど、高校が退屈。やんなっちゃうくらい退屈。ほんとはこんなつまらないところ、お父さんみたいに飛び出しちゃいたいけど、そんなことしたらお母さん、悲しんじゃうからね。あ、お母さんも元気よ。言葉に出したりはしないけど、多分、お父さんのこと心配してる。だからメールしてみた」

真澄からの突然の連絡は久しぶりに握った寿司が私にもたらした高鳴りと懐かしさ以上の感慨を運んできた。旅は新しい自分を誘い、旅が懐かしい自分に帰郷させる。今までと同じ自分なのに、それまでと少し違う自分。心のざわつきを悟られないように、できるだけ平静を装って、娘のメールに返信した。

「真澄もお母さんも元気とのこと、何より。お父さんも元気だよ」

真澄とのメールのやりとりは昔から苦手だった。言いたいことも聞きたいこともたくさんある。想いは溢れる。けれど、言葉は身を潜め、指先は縮こまる。そもそも何故、心のざわつきを悟られないようにしなければならないのか、そもそも何のために、平静を装うのか。

「うわ、なに、即レスじゃん。なんか遠い世界にいる実感ないなあ。今、世界ってそういう感じ?」

「今、世界はそういう感じだよ」

「なんか、それはそれでつまらないわね。今、どこなの?」

「イスタンブール。トルコだよ」

「ニュースでよく見るとこじゃない。テロとか大丈夫なの?」

真澄はもう高校2年生で、自分が知らない間に、自分の知らないステップを踏んで、もうすっかり大人びているんだろう。おそらくは自分の及びもつかないような速度で。けれど、真澄にとって世界はまだ遠く、世界にとって真澄はまだあどけない。私は言葉を引っ張りだして、指先を少しだけ得意げに動かす。

「今、レストランで紅茶を飲んでるよ。お父さんだけじゃなくて、たくさんのトルコ人とたくさんの観光客が同じように紅茶を飲んでる。そういうレストランがずっと軒を連ねてる。ここは一大観光地だからね。もし、お父さんがいるレストランに爆弾が仕掛けられていれば間違いなく死んじゃうけど、隣のレストランだったら助かるかもしれない。隣の隣だったら、怪我程度で済むだろう。とりあえず、今まさに世界はそういう感じで、今まさに紅茶は美味しい」

今まさに私はここで生きていて、真澄は今まさにそこで生きている。

「よくわからないけど、タッカンしてるってわけね」

「達観してるわけじゃないよ。受け入れてるんだ。ここで爆発が起こっちゃったとしても仕方ないってね。だから、ティータイムを楽しんでいられるんだよ」

「ふうん。まあ私には難しいことはわからないけどさ、それって逆じゃない?お父さんが受け入れてんじゃなくて、お父さんが受け入れられてるんじゃないの?」

その返信に指先が固まった。

「まあ、逆と言うか、一方通行っていうのはないわよね。私、ちゃんとした彼氏ができたんだけど(大丈夫、いい人よ)、今までみたいに遊び半分のなんちゃってじゃなくて、ちゃんと受け入れてくれるし、ちゃんと受け入れてるから、うまくいってるような気がする」

言葉は奥に押し込まれる。

「学校は逆だけどね。学校は私を受けつけないから、私も学校を受けつけない。だからつまんない(大丈夫、卒業はするわ)。そろそろバイトの時間だから行ってくるね。お母さんにはちゃんと言っとくから」

硬直した指を慌てて動かし、奥に押し込まれた言葉を慌てて引っ張り出した。

「そうか、バイト頑張ってな。連絡くれてありがとう、嬉しかったよ」

私は紅茶のおかわりをもらい、しばらくの間、娘とのその短いやりとりを何度も読み返した。

「受け入れてくれるし、ちゃんと受け入れてるから、うまくいってるような気がする」

まいったな、と私は思う。

退屈な学校に退屈に通う17歳の女子高生(おまけに自分の娘だ)の方が、私よりもずっと思慮深い。この歳まで独りよがりに生きてきてしまった自分を恥じた。

真澄が言うように、この世界はけして一方通行ではあり得ない。

自分は常に能動態であり、同時に受動態でもある。受け入れてるのと同時に、受け入れられている。起こったことと、起こらなかったに自分なりの精一杯のYESを捧ぐと同時に、YESを捧げられている。おかげで今、美味しい紅茶を飲めている。

私は自分を「旅をしている」と思っていた。けれど、本質的にはそうではない。それだけではない。

旅をしていると同時に、旅をさせてもらっている。

今のところ、ここで爆発は起こっていない。隣も、隣の隣でも、爆発も銃の乱射も起こることなく、ヨーロッパ世界とアジア世界の交差点である、このイスラムの街で、皆がティータイムを楽しんでいる。

自分の人生はとてもシンプルなものだと、シンプルに思う。結局は破綻したものの、薫と結婚し、真澄を生むことができたのは自分の人生の中で最も素晴らしい出来事の一つであり、今後もそれは揺るぎなく私の心の中で在り続けていく。一方で、単調でシンプルであることに変わりはなく、世界を一周したからと言って、何がどうなることもなく、このままたかが知れた未来に向かって歩いていくのだろう。今さらそれに対して、思うところはない。世界のどこかで、何らかの形で寿司を握り、真澄がこのまま健康に育ち、自分の家庭を持ってくれれば私はそれで十分に充たされる。

そうした簡潔な幸福論とは裏腹に、ややこしく、面倒くさい性格を未だに拭えずにいる性格と傾向も自覚しているつもりだ。多くの人が目もくれないようなことが気になり、こだわり、固執してしまう(きっとチーズケーキについてもこれに由来するのであろう)。であるがゆえ、そうしたこんがらがった紐がすっとほどけていく感覚を無邪気に嬉々とする。「旅をさせてもらっている」。自分にとっては天啓と言っても過言でないほどの大いなる紐解きであり、気付きであった。きっと自分は自分で思っているよりもずっと幼稚なのだろう。それも自覚している。

けれど、その気付きがその後の旅により活気をつけた。ここで自分ができることは何なのか、そして、自分だけでなく相手にとっても等しく有意義であるにはどうすればいいか、の模索を始めた。寿司を握って、食べてもらって喜んでもらう、の先を求めるようになった。トルコから南アフリカに飛び、アフリカ大陸を北上する前にそうした心持ちになれたことは大きい。少なくとも怠惰に沈むこともなく、慣性の延長にもならない。いかに自分の人生が凡庸で、抑揚を欠いたものであったとしても、今、自分は自分の自分の人生の中で、もう2度と訪れることはないだろう場所で過ごし、もう2度と巻き戻ることのない時間の中にいるのだ。

南アフリカからモザンビークに抜け、マラウイ、タンザニア、ルワンダへと抜けた。自分が思い描いていたアフリカ像と重なる部分もあれば、想像以上の経済発展に目を見張る部分もあった。とりわけ、印象深かったのはアフリカの人々、特に子供たちが放つパワフルなエネルギー。子供たちは皆、ギラギラしながら、キラキラしていた。純粋無垢な眼差しは今後アフリカをよりエキサイティングな段階へと導くのではないだろうか、とルワンダの子供たちを見て思った。私はそれまでにも増して、精力的に寿司を握り続けた。アフリカでは使える食材が限られているので苦心したが、それはそれで刺激的だったし、啓発的でさえあった。

洗濯と同じだ。

「そういう部屋にあたる度に、これはさすがに無理だなと思ってしまうんだけど、よく目を凝らせばそのポイントは必ず見つかるんだ。一見、何の取っ掛かりもないように見えるその部屋が実はそうではないということに気付かされる」

目を凝らせ、そして、耳を澄ませ。

小手先でどうにもできることをこねくりまわしていても仕方がない。そうした境界線を飛び越えて、初めて自分の半径を広げていくことができる。そんな経緯を経て、自分の「SUSHI」が新しい地平を切り開いている感覚は確かにあった。アフリカの人々は未知の食べ物に興奮し、未知の食べ物を喜んでくれた。しかし、私は彼らが喜んでくれれば喜んでくれるほど、閉塞感を覚えた。おこがましいのはわかっている。けれど、目標はここではない。目指すべくは、一過的な大道芸ではなく、もっと実のあるクリアな痕跡だった。私がこの世界を旅をしたという「しるし」であり、旅をさせてもらったという「足跡」だった。

だからこそ、エチオピアで綾瀬君に出会えたことに私は心から感謝している。彼は氷のように凝り固まった私の思考を温かく溶かした。まさか自分がエチオピアで魚のハンバーグを作ることになるとは思いもよらなかった。今後、私たちが残したロコモコとフィッシュバーグロコモコがどうなっていくかは未知数ではあるけれど、それは私たちが世界に刻んだ「しるし」であり「足跡」だった。たったそれだけのことであったが、たったそれだけのことで、「これで私は自分の旅を終えられる」と、思った。

あとはトム&ジェリー・ベーカリーを訪れ、15年前のあのチーズケーキを食べるだけだ。

そして、今、私はインドのプリーにいる。

「青春は短く、夜は長い」とLINEを送った。どうしようか迷ったが、他には何も書かず、ただそれだけを唐突に送った。脈絡と意味を欠いた唐突なLINEを真澄は煙たがるだろう。けれど、いいキャッチコピーだと今でも思う。伊崎の言ったように死ぬほど退屈な映画ではあるが、17歳の女子高生にとっても、40を過ぎた中年にとっても、等しく、青春は短く、夜は長い。

「『あのころ僕らは』」と真澄から返信が来たことに私はとても驚いた。「私、ディカプリオのファンなのよ。まわりのコにはなんであんなおじさん好きなの?ってよく言われるけど、今人気の俳優の人よりもよっぽどセクシーだと思うんだけどな。お父さん、よくあんなマイナーな映画知ってるね?映画、好きだったっけ?」

「昔、お父さんのお友達に教えてもらったんだ」

「ふうん。あれが公開されたのと同じくらいの時期に『ザ・ビーチ』っていうディカプリオの映画が公開されたんだけど、そっちは知ってる?」

「いや、それは知らないな」

「あっ、そう。お父さん、タイのピピ島って行ったことある?」

どこかで聞いたことのある島だ。ああ、伊崎が15年前に泥酔して行きそびれた島がピピだ。

「私、あそこ行ってみたいんだよねー。めっちゃ綺麗だもん。彼氏と来年の夏、行きたいねって話してるんだけど、お父さんはどう思う?」

「心配だから、お父さんも一緒に行くよ」

「ねえ、お父さん」と真澄はLINEする。

「確かに夜は長いわ。けれど、青春は短いのよ、お父さん」

あれから15年経つ。

トム&ジェリー・ベーカリーがまだあるかどうか、チーズケーキが売られているかどうか、それはこれから行ってみないとわからない。あの時、私が吐き出したのは、あのケーキを否定したのは単純に肯定できなかったということに他ならない。では何故、肯定できたなかったかと言うと、私がチーズケーキはこうあるべきだ、こういうものだ、と断定していたからだ。そうした断定が私の世界を狭めていた。世界一周の中で、断定から自分を少しだけ解き放つことができた私はきっとあのしょっぱいチーズケーキも美味しく頬張れるはずだ、と確信していた。そして、今回の旅が私の中で生き続ける限り、その解放はチーズケーキだけにはとどまらない。受け入れることと、受け入れられることを繰り返しながら、私はもっと柔らかく、温かに、YESを捧げていくだろう。

全ての可能性はオープンなのだ。

「そうだな。真澄の言うとおりだ。でも、実は夜も短い。だから、行きたい時に、行きたい場所に行くべきだ。それにピピ島はお父さんの友達が行きたがってた島だよ」

「へえ、そうなんだ。でも、お父さんがオッケー出してくれるとは思わなかったな。さすが旅人ね」

「冒険したいのなら、冒険すべきだ」

「冒険っていうか、ただの彼氏との海外旅行だよ」

それもそうか、と少し思ったけれど、今ここで自分の娘に言うのであれば、少し違う言葉をあえて用意したい。それは長きに渡ったこのブログの結びでもある。

「行ってみないとわからないさ」。



こんにちわ、山本ジャーニーです。秋葉原で多国籍料理店を経営しているものですが、文章や小説を書くのも好きです。今まで様々な文章を書いてきましたが、小説Journey×Journeyはこれまでの集大成とも言える作品です。旅と世界を想像しながら楽しんでいたけますと幸いです。