ドブ水を 追出し食わさる 百々迷路(5.7.5)

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これらは、私たち1人1人の身体・精神・霊の在り方の暗示である。

それらとのかかわり方と一寸たがわぬことはない。


ドブとヘドロを見るといい。 化学や環境の知識が何もない者だって、何かを感じるだろう。

行き場のない、追い出された 負の集まり をそこに見いだせる。

自然界において 行き場のないとは、 循環できないことである。


自然界はおおよそあらゆるものを循環させる。

循環のあらゆる過程のどこをとっても無理がない。

腐ったり カビることでさえ、かなりの浄化力がある。


なにかの拍子に無理があるものが生まれると循環が滞る。

受け入れる先がなく、変化させるものがない。

分解と利用が得意な生物がおらず、寄り付かない。または間に合わない。

かといって良い状態でそこにあるわけでもなく、「悪臭」などの現象を起こす。


ドブとヘドロなどが その極地である。

おしっこを浄化したものを飲める人はいても、ドブとヘドロを浄化したものを飲める人はいない。

世界中の研究者で、あなたの開発した浄化装置で、ドブ水を飲める自信がある者は今すぐ名乗り出よ。

彼らを非難しているわけではない。それは素晴らしい試みだ。

だが、それでさえ、到底追いつかないほどの負から目をそらしてはならない。


人間は「汚いもの」が分からなくなっている。

無秩序でありながら循環しないもの こそが最も汚いものである。

循環しないならば(神聖な)秩序が、秩序が崩れたら循環するのが世の道理であるところ、 秩序も循環も拒絶した結果がドブとヘドロであろう。


それはそのまま、それらを生み出す人間の在り方と酷似していることに気付きたまえ。

己を・己の家族を・己の会社を「表面上」「手っ取り早く」「綺麗に」「着飾る」ために、

外の循環のことなど知らぬ 我さえ今よければよい で排出したものが、

ドブでありヘドロであり、カラマーゾフの兄弟であり、苦しむ私たち一人ひとりである。

今日もドブ水のように生まれ、ヘドロのように生きる者がおり、

それらを作り出し、知らん顔をした愚か者も、ドブの水を飲み、ヘドロで育った魚介を、知らず知らずに喰って その者の血肉となっているのである。


己から生まれる、関わるあらゆるものに責任を持ちなさい。

生態系・エネルギー・精神・などの循環に目を向けなさい。

法律や常識さえ守れば、という戯言は通用しない。


そういった生き方が、あらゆるドブの臭いをかぎ分けられる鼻を与え、

循環の守護者へとさせる。

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