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思いを込めて綴られたり奏でられたりするこの世のありとあらゆるものへ。

音楽だったり書き物だったり、映像だったり描き物だったり。誰かの手によって生み出された多くのものが、それを生み出している人の思いが込められているのだと思う。私たちはそういった思いを直接受け止めることもあれば、あるいは受け止める者として、勝手にそこに思いを付与したりしながら生きている。
私は今日、思いもよらない、自分が勝手に付与した思いに絆されて、オフィスでひとりひっそりと泣いてしまった。

今年の春、春と呼ぶにはまだ厚手のコートが手放せないような季節に、私は祖母を亡くした。はじめての肉親の葬式で触れた祖母の遺体は、私まで引き摺り込まれてしまうのではないかと感じるほどにさびしさそのものみたいな冷たさで、これが人が死ぬってことなんだと実感した。母の口から祖母の訃報を聞いた時にはなかった、祖母の確実な死が、その時はっきりと理解できた。
ただそれは、祖母が死んだという事実を理解しただけであって、葬式のさなか、呼吸が苦しくなるほどに泣いた理由は、母である祖母の死を嘆き悲しみ、後悔の気持ちを憚ることなく漏らしていた叔父や、そしておそらくもっとも複雑な気持ちで次男として、そして親として生きてきた父、私たち子どもの前ではほとんど涙を見せず、ひとり席を立って泣いていた父のことを思って、だった。まだ私には体験し得ない親の死を前にして、ここにいる二人の大の大人と呼べる男たちは、ひたすらに悲しんでいた。そのことが私にはなんだか、酷く苦しいことのように思えて、二人の感情に絡め取られるようにして嗚咽を漏らしてしまったのだった。

そんな叔父や父への思いが溢れて、私は祖母の死後、一本のnoteを書いた。あまりに酷く、書き殴っただけのnoteだったで、もともと消す予定だったから、今はこのネットの海広しと言えどもどこにもないのだろう。自分では読み返そうと思ってメモ帳か何かに保存しておいた気もするのだが、結局見つけられなかった。ただ、詳細は覚えていないけれど、書き出しだけは覚えている。


「ねぇ、神様?」


普段信心などない私だけれど、多分にもれず都合のいい時には神か何かに縋りたくなって、「ねぇ、神様?」なんて書いていた。これはその当時友人らと何度かライブにも足を運んでいたORESAMAの曲名であり歌詞だった。

祖母を亡くしても永遠と沈んでいるわけでもなく、私はいつものように音楽を聞いたし、本を読んだ。いつものように聞いたORESAMAは、やっぱりいつものように軽やかで気持ちがよかった。いつものように読んだ木下古栗はいつものように下品でそれでいて真面目だった。でも、木下は変わらずに魅力的な文章を編んでいるだけの一方で、ORESAMAの歌詞は私の注意を引いてしまって仕方がなかった。ORESAMAの曲は、歌詞を捉えずメロディの気持ち良さしか気にしていないから、詞なんてほとんど知らないし、そんなのだからカラオケでもまともに歌えない。なのにORESAMAが突然、「ねぇ、神様?」と切実に語りかけてきたとき、脆くて悲しい私は、その一言に飛びつかずにはいられなかった。

『ねぇ、神様?』の歌詞は亡くなった人へと思いを馳せるものなどではない。ただ、愛を希求する歌だ。ねぇ、神様、僕の声が聞こえますか…?と漠然とした何かに向かって自己の存在を担保するよう要求しているような、端から見ると滑稽にも思える、太古からある実存の現代版みたいなものだ。僕はここにいるよ、届いて欲しいから歌うよ、きっとそんなORESAMAの思いが込められているのだと思う。今普通に流してみたって、そんなふうにしか聞こえない。


最近聞いてないからORESAMAでも聞こうと何気なくアルバムを再生して、一言目の「ねぇ、神様?」で涙腺が緩んでしまったとき、本当に焦った。いかんいかんと慌てて、トイレに立つ始末だった。円城塔を読んで泣いてしまうくらい涙のツボがおかしなときがあるのでそういうことかとも考えたけれど、苦しくなるような涙はその類ではなかった。

こういう言い方は失礼かもしれないが、じっくり聞けば他愛もない歌詞なのに、なぜだか涙が零れ落ちてきた。情けないくらいに泣けてきて、いったいどの感情が私を泣かせているのかと考え込んでしまった。でも、考えなど纏まることもなく、『ねぇ、神様?』は終わった。


たぶん私は、「ねぇ、神様?」なんていう囁きが甘美すぎて、ついうっかりとそこに、亡くなった祖母と私との連絡手段のようなものを拵えてしまったのだと思う。そうとも知らずに。これは私が『ねぇ、神様?』に勝手に付けてしまった思いで、こうして訳も分からずその思いが蘇ってきたのだと思う。

なんてことをしてくれたんだ、と今の私は思う。でも、思えば、いろんな作品がそんな私の中の大切な何かと結び付けられているのだ。それはきっと幸せなものもあれば、苦いものもある。これはその一つで、とびきり重く、さびしいものだ。私が抱いた『ねぇ、神様?』への思いは、ORESAMAの意図したものではないし、こんなふうに届いて欲しいわけではないのだろうけれど、私はこうしてさびしくも「ねぇ、神様?」って、祖母か、あるいは他の何かに向かって、私自身のことを囁くことができるのは、とても幸運なのだと感じている。


『ねぇ、神様?』が終わって呆然と便座に腰掛ける私は、漸く祖母が亡くなったことを実感したように思った。今度は、本当に。それまでにないくらい、私自身が、祖母が亡くなったという事実にさびしさを覚えた。きっとこの喪失感は風化することはあれど決して消えないのだろう。人が死ぬとはこういうことなのだと、あまりに遅く、私は気が付いた。



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