今日の主役は「あなた」じゃないでしょ。
教師生活2年目のとき。
一年生の担任になったので、ピンクのかわいいスーツを用意した。
入学式用に。
柄じゃないな、と思ったけど、子どもたちに少しでも「優しそうな先生で安心だなあ」と思ってほしくて。
初めて着たときには、それで割と好評だったのだけど、翌年再び一年生の担任になったときには、髪をバッサリ切っており、ピンクのスーツはぜんぜん似合わなくなっていた。
あちゃー、入学式何着よう。
前夜、鏡の前で、似合わないスーツをなんとか着こなせないかとオロオロしていたら、夫が声をかけてきた。
「それ、いつもの黒スーツじゃあかんの?」
あかんことはない。
でも、なんとなく気が引けた。
新一年生の担任は、淡い色味のスーツ。
勝手にそんなイメージがあった。
もちろん、そんなルールはないけど。
わたしも新一年生の担任として、白やピンクの柔らかな色合いのスーツを身にをつけ、子どもたちに微笑みたかった。
じゃあ事前に買っておけばよかったのだが、入学生の準備で、自分のことなんて忘れていた。
小さな学校は1学年1クラスなので、新一年生の担任はわたしだけ。
だから、入学生のすべての準備を、わたしひとりで行なわなければならなかった。
新任のわたしに要領よくできるはずもなく、前日ギリギリまでてんてこ舞いだった。
どうしよう、もう買いに行けないし。
暗い顔で唸っていると、続けて夫がボソッと言った。
「明日の主役は、あなたじゃないでしょ。」
た。
たしかに。
その言葉で、はたと目が覚めた。
明日の主役は、わたしじゃない。
間違いなく、明日の主役は子どもたちだ。
ピカピカの服に身を包み、背筋を伸ばして入学してくる新一年生。
そしてそれを見守る保護者もまた、明日の主役を支える存在。
担任の先生なんて、ましてや担任の先生の格好なんて、だれも、だーーれも、気にしちゃいないんだ。
すとんと肩の荷が降りた。
なんでこんなくだらないことで、悩んでいたんだろう。
馬鹿らしくなって、急に冷めた。
結局わたしは、短い髪に似合わないピンクのスーツで式に出た。
誰にも何も言われなかった。
似合うとも、似合わないとも。
それでよかった、心底安堵した。
だって今日の主役は、わたしじゃなかったんだから。
こういうことは、何度かある。
わたしは、その場に相応しい格好について、くよくよ悩む人間だ。
おしゃれを楽しむことよりも、人からどう見られるかの方が気になってしまう。
「今日何着ていけばいいんだ」と困るたび、夫の言葉を思い出した。
今日の「主役」は、いったい誰か。
友達の結婚式なら、「友達とパートナーさん」。
我が子の参観日なら、「息子」が主役。
そうやって、自分がその場の「主役」じゃないと気づけたとき、ふっと肩の力が抜けていく。
肩の張らないいつもの服でいいかと思える。
まさに、「お前の顔が気になるのはお前だけ」という話。
いい意味で、気が楽になる。
服だけじゃない。
わたしの場合は、「気持ち」も変わる。
子どもの習い事の集まりや、夫絡みの食事会など、わたしの気が乗らないところに参加しなくちゃいけないとき。
ここでも、誰が「主役」か考える。
子どもの集まりなんだから、うちの子が楽しんでいるならそれでいい。
夫絡みの食事会なんだから、夫がご挨拶できたらそれで十分。
そんなふうに考えられると、わたしがうまく楽しめなくてもいいじゃんと思える。
期待以上に振る舞おうとせず、その場にすとんと居ればいいんだ。
「主役」は、わたしじゃないんだから。
でも、わたしが「主役」のときもある。
久しぶりに行きたかった買い物に、家族みんなで行った時。
買い物に飽きた子どもを夫に任せ、「ごめんな、つまんないやんな」と謝った。
すると夫は、
「今日は、あなたが来たかったんだから、思う存分楽しんで。」
そういって、わたしを優先してくれた。
うれしかった。
この買い物は、間違いなくわたしが「主役」だった。
そのとき、だれが「主役」なのか。
見栄っ張りで、人目ばかり気になるわたしに、この言葉はよく染み込んだ。
だれかが「主役」のときには、その人がうんと楽しめるように。
そして、わたしが「主役」のときは、わたしが優先される。
この言葉があるおかげで、わたしの心は軽くなった。
さあ、今日は誰が「主役」だろう。
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