見出し画像

『傷物語ーこよみヴァンプー』批評/「あなた」と「作品」。ただそれだけの世界。




キスショット、お前は俺だ。

先日、『傷物語-こよみヴァンプ-』を劇場で鑑賞した。三部作は見ていなかったので、『傷物語』には今回初めて触れたわけだが、鑑賞後、キスショットは自分なのではないか、そんな思いに囚われてしまった。「半殺し」に遭いながら「生かされて」いる。そんな境遇に共感した。人はだれしも牢獄に囚われている。この、「生」という牢獄に。阿良々木暦は彼女を生かしたが、助けることはしなかった。このことの是非が本編で語られることは無い。

考えてみると、『物語シリーズ』本編においては、キスショットと阿良々木暦は和解を果たし、いわゆるトゥルーエンドが示されていた(傾物語は、そうならなかったバッドエンドのifを提示する)。しかし、『傷物語-こよみヴァンプ-』は、そのような遡及的な文脈やコンテクストを持ち込むべき作品ではない。私はそう強く感じる。テレビアニメーションからキャラデザ、背景、演出方法など様々な変更が施されていることは、そのような回帰的な鑑賞態度を回避させるためでもあっただろう。では、長くなったが本編考察、もとい作品批評に移りたい。

吸血鬼の二つの嘆願。生と死の欲望について

「生」と「死」への、相反する二つの欲望。精神分析において、「リビドー」、「タナトス」と呼ばれるこの二つの欲望が、本作のテーマの一つだった。瀕死のキスショットが「死ぬのが嫌だ」と阿良々木に助けを求める冒頭、そして同じく瀕死のキスショットが、阿良々木に「殺して」と嘆願する終末部。この「生」と「死」の対比は、それぞれのキスショットの「叫び」の様子において明確に描き分けられていた。冒頭では、彼女の「死にたくない」と叫ぶ声は、阿良々木にとって「赤ん坊」の泣き声に聞こえていた。そして、終末部において彼に「殺してくれ」と懇願するキスショットの姿は、エネルギーを吸い取られ、皺にただれた老人さながらの様子だった。

このような相反する生と死の二重性というモチーフは、阿良々木が人間に戻る条件だった「吸血鬼同士の殺し合い」や、吸血鬼が、人間を食すことでしか生きられない性質にも、濃厚に存在していた。しかし、このような二重性は、「弁証法的」に解決されたのであろうか。つまり、忍野メメが自身を「調停者」と表現したように、「生」と「死」という相容れない二つは、作中でアウフヘーベンされて、脱構築的に次へと進む過程を提示されたのだろうか。
私の答えは、ノーである。作品のメッセージも、そのような結論を訴えているはずだ。その詳細は後に譲るとして、次のテーマに移る。

羽川翼という少女/「重さ」を巡る三者。クンデラを通して。

阿良々木暦にとってのメインヒロインを挙げるなら、この『傷物語』では羽川翼しかありえない。キスショットから阿良々木に向けられる好意の矢印は、羽川翼にそのまま流れる。
このように考えるとき、彼女に惚れている阿良々木暦をして「怖いよ」「引く」と言わしめた、羽川の異常なまでの「献身」と「純粋さ」を見過ごすことはできない。それが彼女自身の生い立ちや家庭環境から来る不可避的な「防衛機制」であったことは「猫物語」で示されていた。しかしここでは、阿良々木をして、「引く」と表現させた彼女の献身と愛の「重さ」について、彼女自身の心理学的問題ではなく、それをまさに形而上学のものとして考えたい。

人生の軽さについて、あるいは自己の存在そのものの軽さについて語ったのは、チェコの亡命作家ミラン・クンデラであった。彼は『存在の耐えられない軽さ』の中で次のように述べる。

われわれの人生の一瞬一瞬が限りなく繰り返されるのであれば、われわれは十字架の上のキリストのように永遠というものに釘づけにされていることになる。このような想像は恐ろしい。永劫回帰の世界ではわれわれの一つ一つの動きに耐えがたい責任の重さがある。これがニーチェが永劫回帰という考えをもっとも重い荷物(das schwerste Gewicht)と呼んだ理由である。
もし永劫回帰が最大の重荷であるとすれば、われわれの人生というものはその状況の下では素晴しい軽さとして現われうるのである。
(…)
だが、重さは本当に恐ろしいことで、軽さは素晴らしいことであろうか?
(…)
もっとも重い荷物というのはすなわち、同時にもっとも充実した人生の姿なのである。重荷が重ければ重いほど、われわれの人生は地面に近くなり、いっそう現実的なものとなり、より真実味を帯びてくる。
それに反して重荷がまったく知けていると、人間は空気より軽くなり、空中に舞い上がり、地面や、地上の存在から遠ざかり、半ば現実感を失い、その動きは自由であると同様に無意味になる。
そこでわれわれは何を選ぶべきであろうか?重さか、あるいは、軽さか?

『存在の耐えられない軽さ』

ここで、クンデラの論に対してその詳細を分析する余裕はない。しかし、この「重さ」と「軽さ」、それと連関した、「浮遊」と「沈降」については、『傷物語』作中で印象的な描写がいくつかあった。

四肢を取り戻し、完全復活を遂げたキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードが、日が沈んで夜になった街の上空に、自身の漆黒の翼を広げて繰り出すシーン。彼女の「捕食」を目撃した阿良々木と彼のもとに駆け付けた羽川が体育館で言葉を交わす場面で、その飛翔のカットが挿入されている。幼女の成りをした「忍野忍」の状態では翼が無く飛べなかった彼女は、力を取り戻したその夜、空に駆け出していく。
この「完全体の吸血鬼」としての「飛翔」のイメージと、相反するものとして思い出されるのが、『傷物語』冒頭、「吸血鬼になりたて」の阿良々木が、太陽にあてられて焼き焦げながら「墜落」するシーンである。

同じ吸血鬼でありながら、「飛翔」と「墜落」の形で両者の性質が異なるのはなぜだろうか。それはまさしく、「僕は人間だ!」と阿良々木がキスショットに断言して見せた「人間らしさ」によるものだ。すなわち、キスショットとは異なり「退屈」ではない日々を、かけがえのない生活を送ろうとすることの「必然性」、阿良々木にとっての「生」というものの重みであった。

クンデラはこう語っている。

「重荷が重ければ重いほど、われわれの人生は地面に近くなり、いっそう現実的なものとなり、より真実味を帯びてくる。
それに反して重荷がまったく知けていると、人間は空気より軽くなり、(…)地上の存在から遠ざかり、半ば現実感を失い、その動きは自由であると同様に無意味になる」

阿良々木にとっての「重み」は、彼自身が『傷物語』の最後に自身の決断としてキスショットの「非吸血鬼化」を選択した結末とも無関係ではない。「偶然」ではなく、「必然」として、「今」のこの「生」を抱きしめていくこと。この決断は、瀕死のキスショットに自身の血を吸わせた、物語冒頭の彼の姿勢から大きく変化した点とも言える。「次に生まれ変わるなら、間の悪く、他人のために自分の命を捧げてしまうような自分じゃないと良い」などと呻いていた冒頭の阿良々木の思いは、物語後半の彼自身によって否定される。「生まれ変わり」などという偶然性や、他力本願を、キスショットを延命した阿良々木暦はもはや信じない。
「傷」という概念は、怪我を負ったその後も、自分の「生」に向かって歩み続けることに他ならない。この地点に至った時、阿良々木は自身の「傷」を抱きしめて生きること、つまり、「傷の痛み」と「生」を不可分のものとして引き受けることとなったのだ。

「痛み」を「生」の一部として受け止めること。「回避」や「否定」、「解離」などの過剰な防衛機制で「痛み」から逃げていた羽川だったが、彼女にもいずれ傷ついた自身の思いと向き合う時が来る。『傷物語』における彼女自身の「思い」の「重さ」(omoi=思い、重い)は、そのような「重荷」へと向き合う兆しとして読めるのではないだろうか。彼女にそんな「重さ」をもたらす特別なものが『傷物語』でようやく現れるのだ。「好きなものが無い」と戦場ヶ原に指摘された羽川が、密かに心から好意を寄せていた人物については、もはや語るまでもないだろう。

弱っていれば、誰でも助けたのじゃ

うぬは、儂だから助けたのではない。
弱っていれば、誰でも助けたのじゃ

『傷物語』

「完全体」にもどり、人間の捕食を再開したキスショットに阿良々木は激怒する。そんな阿良々木にキスショットが投げかけたのが、以上の言葉である。
誰でも助けることは、誰も助けないことに等しい。そのように語ったキャラクターが過去にいたことを思い出す。「かけがえのない」個人、それを尊重するべきだという倫理的な意思は、たしかに重要なことだ。しかし、「個人」や「個」に回収されない、「普遍的」な倫理というのもまた、作中の重要な要素だった。それは例えば、冒頭で阿良々木がキスショットを助けた自己犠牲的「正義」である。そして、阿良々木とキスショットの決闘に介入した「羽川」の解き明かした本事件の「真相」もまた、「知らないまま」ではいけない普遍的真実として提示されていた。しかし、「実存」も「普遍」も、「救い」となり得る万能薬ではなかった。

既に破綻していたキスショットの「実存的」生を、阿良々木の「実存的」生は掬い上げる。それは決して「救い」ではない。阿良々木は彼自身の意志というただ一つの根拠を持って、キスショットの「死」を否定し、自分の「生」を保持する。しかし、そんな彼の「生」には、「限りなく吸血鬼に近い人間」、という「傷」が付くことになる。

「吸血鬼としての死」、「人間としての生」はそれぞれ、「限りなく人間に近い吸血鬼」と「限りなく吸血鬼に近い人間」の生として妥協されるが、それは弁証法のような有目的的なものでは決してない。これは、「阿良々木」と「キスショット」の関係性においても言える。彼らの関係は、雨降って地固まるような、一つの「正解」へと収斂するのではない。彼と彼女の関係は、これからも関係一元論的な主体として、発展と破綻の可能性を孕んだ「彼」と「彼女」の二項として、最後まで提示されているのだ。

阿良々木暦の微笑み。傷を抱きしめていくこと、ただそれだけ。

今までの章について、「弁証法的帰結」と対立する観点から、以下のようにまとめてみる。「吸血鬼の死」と「人間の生」は、「限りなく人間に近い吸血鬼」と「限りなく吸血鬼に近い人間」という、きわめて不安定で不自然な形で収束した。阿良々木は、完全な「生」や「死」ではなく、「傷」に痛みながら「生」を送ることとなる。「阿良々木」と「キスショット」の関係性は、緊張を孕んだ対立関係のまま継続していく。

この『傷物語』は、作品結末部においても決して「終わって」いない。
それは、テレビシリーズの時系列につながる、という意味においてではない。
例えるならば、この作品世界は、「現象」に似ている。
あるきっかけから「発生」したそれは、稲妻のように静電気を帯び、雨のように地に降り注ぐ。私達は今、それを目撃しているところだ。後に何が起こるかは分からない、まさしく今「現象」に打たれたばかりなのだ。
殊に「怪異」にまつわる現象は、もっと特殊である。「彼ら」は、一方的に自立したものとして我々に近づいてくるのではない。私達が彼らを「見た」とき、彼らも私たちを「とらえる」のだ。
ここでふと、フッサールの現象学を想起したい。現象について語る上で大切なのは、その観測者、「現象」をそうあるものとして感じている私たち自身についてだった(cf.間主観性)。

物語はただ我々に問い続ける。

鑑賞者である「私達一人一人」、という総体について語ることは筆者にはできない。知識も捉え方も情報も持ち合わせていない。ただ、三部作だった『傷物語』が、『傷物語-こよみヴァンプ-』として六年ぶりに、編集を経て公開されたこと。その時期の隔たりによって生じる視聴者やファンの変化。それらを巻き込んでいくとき、『傷物語』という作品は、作品として、否、メディアとして更に一段上への展開を見せてくれるのではないだろうか。
いや、これもまた、正確な表現でないかもしれない。
『傷物語-こよみヴァンプ-』という「現象」に出会った私たちは、作品世界という「現象」、ひいては「現実」という「現象」に、自分たちが閉じ込められているのだと、気づかされるのではなかろうか。

「人は一人で勝手に助かるだけ」

今、私たちは問いかけられているのかもしれない。
自分を取り巻く現象に、どう抗っていくのかを。

この記事が参加している募集

アニメ感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?